紅玉を巡る諍い

 婚礼の翌朝──アイシャは、心地良く幸せな温もりと愛しさ、甘美な羞恥と痛みの中で目を覚ました。


(ゆうべ、は──)


 記憶が蘇ると同時に、彼女の頭から爪先までを雷が駆け抜けたような気がした。


 アルジュン──愛する夫の声が彼女の名を呼んで、手指が彼女の肌を探った。とても大切な宝物のように丁寧に、それでいて荒々しさもあって。

 もちろん、夫と抱き合ったことは何度となくあったのだけれど。それでも、十八の小娘の未熟な身体だからか、アルジュンの熱を受け止めるのには悦びや快楽よりも戸惑いと恐れが勝った。


 しとねにくたりと横たわり、起き上がることはおろか顔を上げることもできないアイシャの頭に、アルジュンの声が降ってくる。


「アイシャ……? 辛いのか? 無理をさせてしまったか?」


 昨晩以来、どうも彼を心配させてしまっている気がする。アイシャは慌てて跳ね起きた。


「いいえ!」


 身体の中心に走る痛みは、無視できるていどのもの。そんなことより、夫に微笑みかけることのほうが大事だった。


「ただ──あの、恥ずかしいだけで。でも、幸せです。アルジュン様の、妻になれたから……」

「私もだ。愛らしくも心強い妃を得ることができた」


 朝の光の中で、アルジュンの整った顔はいっそう眩しく輝いて見えた。支えを求めて伸ばした手に触れる温もり、頬に差した血の赤み、唇の柔らかさ──どれも、なんて尊い。墓室に横たえられたアルジュンの唇は、心まで凍りそうになるほど冷たくて硬かったから。


「今日はゆっくりしていなさい。王妃の務めについては、母上が追々説明してくださるだろう」

「はい」


 温かく血の通った口づけを落として、アルジュンは寝室を後にした。


(アルジュン様……)


 彼の唇が触れたところが、火を点したように熱い。熱が宿った箇所にひとつひとつ、触れながら。アイシャはようやく、蘇った、という実感が込み上げるのを感じていた。


      * * *


 侍女に身体を清められ、髪を梳かれ衣装を整えられながら、アイシャは物思いに耽った。物思いというか──より正確には、を比べるのに忙しかった。


(アルジュン様は──私に呆れていらっしゃったのね……)


 の初夜は、夫婦の語らいというよりは子供の寝かしつけのようなものだった、と今なら思う。

 ろくに生きてもいない癖に、死をふんわりと美しいものだと夢見ていたアイシャのことを、アルジュンは妻に相応しいとは思ってくれなかったのだ。優しい方のことだから、見限られたというよりは、重い責任が伴う立場に置くことは忍びない、と思ってくれたのだろうけれど。


 彼の思い遣りなど知る由もなく、アイシャはさほどの疑問を持つことなく、純潔の身のまま王妃と呼ばれていた。ふたりが本当の意味で夫婦になるまでに、確か数か月はかかったと思う。その陰で気を揉んだり、何かと誤魔化したり弁明したりを強いられた者がいたであろうことも、今のアイシャなら分かる。


(本当に、申し訳ないことだったわ……)


 いつまでも子供気分の王妃で、さぞ頼りなかっただろうに。アルジュンに苦言を呈する者はいたのだろうか。アイシャがそのような声に直接さらされることがなかったのは、小娘ゆえに多めに見てもらえていたのか──それとも侮られていたからだろうか。彼女が何も知らない、何も気付いていないほうが都合が良いから?


(……私が、悪かったのよ。誰しも事情があって──企みも、きっとあった。いちいち教えてくれるものではないのよ)


 胸の奥底に湧き上がりかけた怒りを、アイシャは深く息を吸って、吐いてなだめた。ほかの者の心のうちは分からないし、変えようもない。でも──で、確かに、そしてすでに変化は起きた。それも、アイシャの言葉によって。


 アイシャが考えるべきは、他人ではなく自分のこと、彼女自身に何ができるか、だろう。婚礼を挙げて早々にアルジュンと夫婦になれたのは、良い変化のはず。ひとつひとつは小さな違いでも、積み重ねて行けば──の未来は、大きく異なるものになっているかもしれない。あんな風に、冷たく暗い墓室に閉じ込められて終わるのではなくて──


(アルジュン様との御子を、授かったりとか……?)


 平らな腹を撫でて、アイシャは都合の良い夢にひたったりも、する。

 ほんの数か月だけ早く結ばれたからといって、期待するのは早すぎるとは分かっているけれど。アルジュンの暗殺という最悪の結果を回避する以外にも、に望むことはあまりも多い。だって、のアイシャはまだ十八なのだから。


「アイシャ様」


 アイシャが口元をほころばせかけた時──けれど、やや低く艶のある女の声が、彼女を甘い夢想から現実に引き戻した。


「この紅玉ルビーをお召しになりますわね? 陛下からの贈り物ですもの。王宮中に見せつけなくては」


 昨夜の宴の後、宝石箱に大切にしまわれていたあの紅玉を掲げて、アイシャに示していたのは──


「え、ええ。お願い、ダミニ」


 そう──もちろん、ダミニも侍女のひとりとしてアイシャの身支度を整えていた。でも、いくら慣れ親しんだ関係だからといって、息絶える間際に復讐を誓った相手に、お願い、だなんて言ってしまうなんて。


「承知いたしました」


 自分への不甲斐なさと悔しさで、アイシャは絶句してしまう。彼女の頬が強張ったのには気付かないのか、ダミニはにこりと微笑んで頷いた。

 白い──アイシャと違って、花嫁の紋様で彩られていない──細い手が、紅玉の鎖を摘まみ上げると、炎のような紅い輝きが揺らめき立った。その紅い光は、ダミニの大人びた美貌を妖しく照らし出すような。


「それにしても、見事な紅玉ですこと! ──ねえ、アイシャ様。一瞬だけ、私が身につけてもよろしいですか?」


 小さな太陽のような紅玉の輝きに目を細めて、ダミニは艶やかに唇を笑ませた。アイシャが否ということなど考えてもいないような、確認でしかないような形ばかりの問いかけだった。自分のほうがアイシャよりも美しい、この紅玉に似合うとでも言いたげな──もちろん、アイシャがそう思ってしまっただけ、なのだけれど。


「嫌」


 でも、湧き上がった怒りと嫌悪を制御することは、できなかった。

 思った以上に鋭く厳しい拒絶の声に、ダミニ以外の侍女たちは目を見開いて凍り付いたし、アイシャ自身も口元を押さえてしまう。


(私──今まで、こんなこと)


 侍女たちが、彼女の衣装や宝石を羨むのはいつものこと。戯れに羽織ってみたり触れてみたりも、珍しいことではなかった。まして従姉のダミニのおねだりなのだから、これまでのアイシャなら、快く貸し出していたことだろう。ダミニも、そのていどのつもりだったのかもしれない。


 でも──そうと分かった上でも、アイシャの心は変わらなかった。だって、彼女はダミニの本心を聞いてしまったのだから。


もずっと欲しかった』


 あの高らかな笑い声が、蘇る。暗闇の中で強く強く、念じたことも。大切な紅玉を、ダミニに渡したりなんかしない。嫌だ。許せない。


。早く!」


 重ねて命じながら手を突き出すと、ダミニのおもてに、はっきりとした苛立ちが閃いた。

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