二度目の初夜
婚礼の儀式は、アイシャの記憶通りに進んでいった。
花婿と花嫁は花輪を交わし、互いの首にかける。聖なる火の周りを、手を取り合って回り、躍る。ひとつひとつの足の運びに、人生を共にすることへの祈りと決意を込めながら。
舌が溶けそうな甘い菓子を食べさせ合って、親族の女たちから祝福を受けて。それらの場面のいずれもが、宮殿と列席者の意匠の装飾の、眩い煌めきに彩られ、花と香辛料と、酒と果物との香りに染め上げられて。
けれど、アイシャの心は花嫁らしい喜びともときめきとも無縁だった。向けられる笑みに応じて唇をほころばせるたび、来客からの
(
スーリヤ国の王が、妃を迎える婚礼の席だ。もちろん、王族も重臣も有力な諸侯もこぞって馳せ参じている。外国からの列席者も、多い。誰もが、若く聡明な王を称え、初々しく愛らしい王妃に賛嘆の息を零こぼしている。誰もが和やかに語らい、歌って、酔って、踊って。憂いなど何もないかのように笑い合っている。
少なくとも、表向きは。
この先の十年に起きることを知らなければ、アイシャも心から笑うことができただろうに。
(十年。決して、短い時間ではないけれど。でも──)
この婚礼の席で笑っている者たちが、どれだけ、どのように死んでいったか。それを思うと、アイシャの肌は粟立ち、胸には恐ろしい疑問が渦巻く。
病に倒れた者は、まだ良い。反乱を起こした者、戦いの中で命を落とした者、殺された者。罪を犯した──と、言われた者。事故で亡くなったと言われた者も、本当のところはどうだったのだろう。
地位ある者たちの訃報を聞くたびに、
『お前は何にも気付かないんだもの。
では──アイシャが気付いていなかったことを、ダミニは気付いていた、ということになる。ううん、ダミニだけではないかもしれない。不和や破滅の種は、誰の目にも明らかだったのかも。もし、そうだとしたら。新たな疑問が、荒れ狂う胸の底から浮かび上がる。
(いつから、どこから、だったの……?)
本当に、十年前に戻ることができたのだとしたら。アイシャが冷たく暗い墓室に横たわっているのではなく、
よく考えてよく見極めなければならない。
奇跡は二度は起きないのだろうから。夫を助けたいという彼女の願いを、
(でも、どうすれば──)
アイシャは、縋るように胸もとの
「アイシャ? 疲れているのか。もう少しで終わるから」
「え、ええ」
慌てて目を上げれば、アルジュンが気遣う眼差しで彼女を見つめている。婚礼の主役でありながら上の空の新妻を、不審に思ったのだろう。咎めるのではなく案じるのが、この方らしい。
「申し訳ございません。あの──私、胸がいっぱいで」
「私もだ」
気まずさに頬を染めて、しどろもどろに言い訳すると、やはりどこまでも包み込むような優しさで受け止められる。
アルジュンの微笑は温かくて、アイシャの胸に
(……そうよ。この方のためにも、私は……!)
少なくとも、この先の十年に起きること、ダミニの悪意について、今のアイシャは知っている。警戒して備えることができるのは、大きな利点になるはずだった。
だから──どうすれば、なんて考えている暇はないのだ。何としても、夫を助けなければならないのだから。
* * *
宴が果てると、アイシャはアルジュンに抱きかかえられて寝室へと運ばれた。
侍女たち──その中にダミニがいるのが恐ろしくて、嫌だった──に衣装を脱がされ、髪や肌を飾る装飾や化粧を取り除かれると、彼女が花嫁であることを示すのは、手の甲と掌をくまなく覆う、染料で描かれた紋様だけだ。
アイシャの白く細い手に、蓮の花が咲き乱れ、孔雀は羽根を広げて躍る。幸福や幸運への願いを込めた意匠で彩られたその手を、アルジュンはそっと包み込んだ。彼もまた、重い衣装を脱ぎ捨てて寛いだ格好になっている。
「まだ小さくて柔らかい手だ。アイシャは、まだ子供なのだな……」
「もう十八ですわ。十分、大人です」
侍女たちも下がって、新しい夫婦ふたりだけが寝台の上で向かい合っている。
初夜を二度、経験することになった恥ずかしさにアイシャの頬は赤く染まっていることだろう。窓から差し込む月と星の光だけでは、アルジュンには見えないかもしれないけれど。それでも、彼の黒曜石の目は、薄闇の中でもきらきらと輝いて見えた。
「いいや、子供だ。なのに重い責務を負わせてしまうことになる」
「私は、幸せですわ。いつまでも、どこまでも、アルジュン様と共に参ります」
あの時は、彼女はこう続けたのだ。
『たとえ死んでしまった後でも。私は喜んで黄泉の国にもお供しますわ』
そうするのが妻の名誉だと、信じて疑っていなかったから。思い浮かべるのは、黄泉の国でも寄り添うことであって、墓室の押し潰すような闇も息苦しさも、まるで想像できていなかった。若くして夫を失う──殺されることの悲しさも悔しさも。それを為したものへの怒りも憎しみも。
(私は、幼かった。何も分かっていなかった)
夫の言葉が真実だったのを今さらながらに認めて、アイシャの目の奥が熱くなった。嗚咽のような衝動が込み上げて、
アルジュンが言った重い責務には、夫の死に殉じることも含まれていたのだろうか。彼もまた、命を狙われていることを察していたのだろうか。だとしたら、かつての彼女はどこまでも暢気で無邪気な子供に過ぎなかった。
初夜の床には似合わない涙を堪えて、アイシャは息を整えた。今なら、夫に何を伝えるべきか分かっている──と、思う。
「──お供、できるように務めます。幼くて、頼りない私ですけれど。アルジュン様の助けとなり、癒しとなれるように、あらゆる手段を尽くします。共に、生きていきたいと思います」
「アイシャ……?」
黒曜石の煌めきが間近に瞬いた、と思った瞬間、アイシャはアルジュンの腕の中に抱き締められていた。息苦しさを感じるほどに、力強く。甘さと優しさの中に、なぜか熱も湛えた声が、肌をくすぐる。
「貴女を見誤っていたようだ。アイシャ、貴女は──私が思っていたよりも、ずっと大人だ」
「アルジュン、様」
そっと寝台に横たえられて、伴侶の名を呼んで問いかけるのは、今度はアイシャのほうだった。
(だって。
彼女の記憶にある初夜では、アルジュンは優しいままだった。長時間に渡る婚礼で疲れているだろうからと
「子供だから、寝かせてあげようと思っていたのだが」
だから、こんな風にアイシャの髪や肌に愛撫や口づけを落としたり、熱い声と眼差しを注ぐこともなかった、はずだ。
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