殉葬妃は蘇る ~今度こそ愛する貴方と生きるために~

悠井すみれ

埋葬された王妃

 重く甘く立ち込める香の匂いを感じながら、アイシャは石の寝台に横たわる亡き夫の冷たい頬を撫でた。金糸銀糸の精緻な刺繍を、さらに真珠や宝石で飾った絹の衣装は、それだけの動きでさやさや、しゃらしゃらと優美な音を奏でる。


「アルジュン様……」


 けれど、贅を極めた衣擦れの音にアイシャの心が浮き立たつことはない。

 スーリヤ国の容姿端麗かつ聡明な王であった御方の目が開くことは、もうないのだから。


 深い声がアイシャの名を呼ぶことも。形良い唇は軽く開いたままで乾き、知性を湛えた黒曜石の眼差しは目蓋に覆い隠され、痩せた頬は骨の形を浮き上がらせて。

 病み衰えてしかばねとなってなお、アイシャはアルジュンを心から愛していた。たとえ共にいたのがたった十年の短い間で子がいなくとも、愛の深さにはかかわりがない。


 だから彼女は夫の物言わぬ唇にそっと口づけて囁いた。


「私もすぐに参ります。ずっと、お傍におりますから」


 スーリヤ国では、貴人の妻が夫亡き後に生き永らえることはない。共に葬られてこその夫婦の絆というもの。華やかな衣装を纏うのも、婚礼の儀式の再現だ。


 胸もとを飾る、鶏の卵ほどもある紅玉ルビーが重く揺れるのを感じながら、アイシャは身体を起こした。そこへ、馴染んだ声が耳に届く。


「アイシャ様。お名残惜しゅうございますわ」


 白い喪服を纏った女の姿が、外の光と相まって眩しくアイシャの目を射った。暗い石造りの墓室で夫の亡骸に寄り添うアイシャは、すでに太陽を恐れる亡霊の心地だった。


 アイシャは、立ち上がると喪服の女と対峙した。


「そうね、ダミニ。貴女は置き去りだなんて、心苦しいけれど」


 ダミニは、アイシャの従姉いとこだった。嫁ぐに際しては侍女として付き従い、後には子に恵まれない彼女に代わってアルジュンの寝所に侍ってくれた。


 夫に殉じようとする妻を、近しい者たちは惜しみ、引き留めるもの。けれども、涙ながらに言葉を尽くして説得されようと、貞淑な妻は翻意したりしないものだ。


 ダミニも、この期に及んで説得なんて無粋なことはしないだろう。親しい従妹との、実質的な別れの挨拶のために来てくれたはずだ。


「後のことを、よろしくね」


 ダミニが夫に殉じない理由は、ひとつには正妃ではないから。そしてもうひとつ、懐妊中だからだ。


 ダミニの膨らんだ腹を見ると、ちくりと胸が痛む。でも、嫉妬なんて見苦しい。それに、信頼する従姉に夫の子を託せるなら、喜ばなくては。


 だから、アイシャは穏やかに微笑んだのだけれど。


「ええ、


 ダミニの声が奇妙に尖ったから、アイシャは首を傾げた。


(……え?)


 この従姉は常に朗らかで美しく、立ち居振る舞いも洗練されて、彼女を支えてくれたのに。


「──まだ気付かないの? 徳高い妃として潔く死ぬ、と? 本当に愚かな女ね」

「ダミ、ニ?」


 疑問を口に出す前に、アイシャの視界は傾いだ。突き飛ばされた、と認識したのは、亡き王に捧げた金銀の調度、燭台や香炉や衣装箱が倒れる、騒々しい音を聞いてからだった。


「寵愛されたは、とうとう懐妊しなかったのに、私はあっさり身ごもった。若い王が病に倒れ、医者も薬も役に立たなかった。──そんなことがあり得ると信じているの?」

「……何を言っているの?」


 身体を石の床に叩きつけられた痛みが、アイシャの理解を妨げる。それとも、理解したくなかったのか──とにかく、ぼんやりとした反問はダミニを苛立たせらしい。


「お前のすべてを奪ってやった、と言ったのよ。王の子を得る名誉も、王妃の位も! 王の愛も奪いたかったけど、その男はお前に一途だった。なんて屈辱──だから、私を愛する男を王にすることにした!」

「待って、ダミニ。それは──っ」


 アイシャの狼狽える声は、ダミニに腹を蹴られて悲鳴に変わった。芋虫のように身体を丸める彼女に、高らかな笑い声が響く。


「その顔が見たかったのよ。お前は何にも気付かないんだもの。暢気のんきに愛されて。思い上がって……!」


 アイシャはいったいどんな顔をしていたのか、彼女自身には分からなかった。ただ、ダミニの満足げな笑顔が恐ろしくておぞましくて。鉤爪めいた指が伸ばされるのを、震えて眺めることしかできなかった。


もずっと欲しかった。死人に持たせるなんてもったいない。もらっていくわね?」


 ダミニの指は、アイシャの胸もとの紅玉をしっかりと握り、引き千切った。そして身重の身には信じられないほどの素早さで立ち上がると、声高く叫んだ。


「王妃のご覚悟は固い! なんと深い思慕、麗しい愛か! く、扉を閉ざせ!」


 妻が亡夫に従うと決めた時の、作法通りの言葉だった。でも──違う。作法とは違うが起きている。


「止めて、ダミニ! 行かないで! なぜなの──返して!」


 アイシャが手を伸ばした先で、扉は無情にも閉ざされた。彼女と夫の亡骸を闇の中に閉じ込めて。そうして、生死の境は分かたれた。


      * * *


 アイシャは重く冷たい扉に縋りついて、蟻も通さぬほどに無慈悲に閉ざされた隙間をこじ開けようと、両手の指を血に濡らしている。何刻か、何日か──時間の感覚はとうに失われている。


(ダミニは私に薬を盛っていた。懐妊しないように。アルジュン様にも? 彼女の子は、本当にアルジュン様の御子なの? ──誰が次の王になるの?)


 ばり、という音がした。たぶん爪が剥がれたのだろう。ひと筋の光も差さない闇の中、確かめることはできないけれど。

 痛みは、もうない。爪の前に指先の皮膚が擦り切れ、肉が削れていったはずだけれど、構っている余裕はなかった。


(出して! ここから出して──出ないと!)


 死にたくない。死ぬわけにはいかない。


 夫は病死ではなく、暗殺されたというのなら。そして、その地位を不当に奪おうとする者と、ダミニが通じているというのなら。


(このまま死ぬのは、嫌……!)


 罪を暴かなければ。糾弾しなければ。裏切りには復讐を。あの紅玉は、アルジュンからの贈り物だった。取り返さなければ。──でも、アイシャに怒り憎む資格があるのだろうか。夫をみすみす死なせた妻の癖に?


(私は、愚かだった。何も気付かないで……!)


 ダミニの罵倒が、毒のようにアイシャの胸に染み込んで苦しめる。誰よりも夫の傍にいた彼女なら、助けられたかもしれないのに。愛する夫は、香の香りでも誤魔化せない死臭と腐臭を放ち始めている。美しい方をそんな姿にしてしまったことが、悔しくて悲しくて憤ろしくて。


 血塗れの指は、扉に幾筋もの痕を残しただろう。いつかこの墓室が開かれる時、夫に添い遂げることを喜ばず、見苦しく足掻いた情のない女だと人は嘲るだろうか。王の妃としては恥ずべきことだけど──


(そんなことどうでも良い! 私は、貴方と生きたかった!)


 泣きながら喘ぐアイシャの呼吸は荒い。心臓はうるさく暴れているし、頭はぼんやりとして、手足も痺れ始めている。


 窒息による死が目前に迫っているのだ。


「……やり直したい。アルジュン様を、助けないと……太陽スーリヤの神よ……」


 最後の息を使って、アイシャは祈るように呟いた。そして、彼女の意識は闇に握り潰されるように途絶えた。


      * * *


 懐かしく優しい声が、彼女の名を呼んでいた。


「──シャ、アイシャ」

「ん……?」


 重い目蓋を開きつつ、アイシャは黄泉の国で目覚めたのだと思った。


「アルジュン、様……」


 耳元に甘く囁くのは、亡くなったの夫の声だったから。けれど、寝起きの霞んだ視界がはっきりしてくると、何かおかしい、と気付く。


(とても、お元気そう? ずっとお疲れのご様子だったのに……?)


 不思議そうに彼女をのぞき込む夫と目が合うと、思慕と悲嘆と悔恨に心臓が締め付けられる。──そう、心臓が動いているのもおかしなことだ。


 思わず胸もとを抑えると、ひやりとした感触がある。目を落とせば──ダミニに奪われたはずの紅玉が、小さな太陽のように輝いている。


(なぜ? この格好は……?)


 墓室に降りた時と同じく、アイシャは豪華絢爛な衣装を纏っていた。金と銀と絹と宝石の輝きが、目も頭も眩ませる。でも、死に装束として纏ったものとは違う。アイシャがこんな装いをしたのは──


でうたた寝とは、豪胆な花嫁だ」


 苦笑と共に、アルジュンが軽くアイシャの頬を突いた。子供に対するように──ううん、のアイシャは確かに子供だった。


 十八歳になったばかりの小娘で。自分の責務も夫の立場も何ひとつ弁えぬまま、憧れの御方の伴侶になる喜びに浮かれていた。


 は、アイシャの婚礼の夜。見渡せば、宮殿の壮麗さも列席者の顔も装いも、並んだ美酒美食の色も香りも記憶にある通り。彼女は十年の時を遡った、のだろうか。


「──アルジュン様!」


 躊躇いも慎みも忘れて夫に飛びつくと、呆れたような吐息がアイシャの髪を揺らした。けれど、アルジュンは突き放さず、優しく抱き留めてくれる。


「アイシャ。どうした、いきなり」


 答えることなどできなかった。二度と触れられないと思った温もりに包まれて、胸がいっぱいだったから。それに──アイシャの心臓は喜びによってだけでなく、不穏に脈打ち始めている。


(私は──今度こそ……!?)


 この御方を失わずに済むかもしれない。そのためなら、何だってする。


 控えた侍女たちは、女主人のはしたない振る舞いに頬を染めたり眉を寄せたりしている。その中にダミニを見つけて、アイシャは密かにきっ、と睨みつけた。

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