第三十六話 ベオトーブ
「よさんか。馬鹿者が」
若旦那の右手が腰のあたりに伸びた時、小さくかすれた、それでいて押し出しのきいた低い声が部屋に響いた。
「親父……」
若旦那が振り返ると、杖をつき、かろうじて歩く白髪まじりの男の姿があった。
「お前でも、儂の屋敷で勝手な真似は許さん」
「…………いくら親父の言うことでも、こればかりは…」
「お前ごときが、どうにか出来る相手ではない。村中で囲んだとて、傷ひとつ負わせられんだろうよ」
「そうだとしても……ぐっ…」
「……それに、この方々にそんな心配は必要ない」
白髪まじりの男は、杖をつきながらゆっくりと若旦那に歩みよると、その右手を捻り上げた。
「エリザベッタ・ウィスタリア様、でございますな?」
「……ウィス…………エリザベッタ…様…? ……で…っ…では……っ!?」
白髪まじりの男は、若旦那の手を捻り上げたまま膝をつかせ、自身はリィザに視線を向けたまま続ける。若旦那の手から落ちたナイフが、床で跳ね、音を立てていた。
「私めは、ここ、アオニの顔役を相勤めます、ディゴ・ベオトーブと申します。
…この度は、これなる愚息シモンめが、ご無礼を…」
「それはいいわ。アニカを思ってのことなのは、わかってるから」
「……やはり、ご覧になったのですね……」
「ええ。"力"も、ね。こちらの不注意で、あの子を危険にさらしてしまった。
謝らなければいけないのは、こちらのほうよ」
「とんでもない…。アニカを無事に帰してくださった。…それに、なんというめぐり合わせか……」
「……そうね」
ディゴは改めて一行に席をすすめ、自らもリィザに強く促されてからテーブルについた。若旦那も、ディゴの後ろでうつむきながら控えている。
「私共はこれまで、アニカを人目に触れぬよう守ってまいりました。あれの母親は、あの子のありのままを見、育てるべきと、外の世界にも触れさせておったのですが……」
若旦那がきつく口元をむすび、打ち震えるように拳を握っていた。
ディゴが、リィザにのみ語りかけるように続ける。
「『隻眼』、エミリア様はあの呪われた眼を厭われ、幼い身でありながら、自ら魔法で右眼を焼かれたとか…」
「………………」
「『隻眼』の勇者」エミリア・ベオトーブが、自らの眼帯の秘密についてサイラスに語るシーンは『サイラス英雄譚』の序盤に登場する。
『大逆』の代名詞として広く王国に知られる色違いの「右眼」。
『大逆』より後の世に、同じ「魔眼」を持った勇者が偏見と苦難を乗り越え王国に平和をもたらしたことで「ベオトーブ」の名は一応の復権を果たしたものの、"呪われた眼"に対する人々の恐怖と憎悪の感情は根強く、エミリアは幼い日、自らの右眼を焼いた。
それを聞いた「捨て子の王子」サイラスは、エミリアを英雄として立て、生涯添い遂げることを心に決める。と、いうものだ。
『サイラス英雄譚』における人気のシーンのひとつではあるが、リィザはこの話が好きではなかった。
二人と旅をともにしたメリッサとベッカ、わずかながらも二人との時間を過ごしたマヘリア、彼女たちによればエミリアが右眼を焼いた経緯については、「お話の通りらしい」ことは知っていた。
この件あたりから、サイラスとエミリアの関係性が近くなった、ということも。
ただ、マヘリアの「お話はお話として楽しむのが、お話を楽しむ醍醐味でもあるんだよね」の、わかるようなわからないような言葉もあってか、リィザはなぜか幼いころから、この「お話」が好きではなかったのだ。
「『解呪』・『隻眼』両勇者の悲劇を経、それを知ってもなお、あの魔眼を恐れ、又は邪な目的に利用しようとする者は絶えません…」
「……あたしたちも、あの"力"を見たのは初めてだけど、……そうでしょうね……」
「私共は恐れております。あの子に勇者の力が覚醒するのを。あの子が、あの"眼"とともに世に出なければならぬ日が来ることを」
「………………」
「そんな……アニカちゃんが…。で…っ、でも、今はリィリィがいるし、私たちが魔獣を全部倒しても、そんなにすぐ次が来ることはないよね…?」
マヘリアがたまらず、その場の者に同意を求めるように顔を見て回りながら言うと、ランスとカティアが暗い表情で答えた。
「それは…わからない…。たしかに魔獣の発生には一定の周期はあるが、そもそも俺たちだって前回から、さほど経ってはいない」
「…それに加えて"あの眼"の保有者が現れているとなると、"いままで通り"が通用しない」
「……そんな。じゃ…、じゃあ私たちが時間をかければ…」
「…それでも、あの子が覚醒しない保証はない。それに、その間も、魔獣や魔獣の影響で増えた魔物で、たくさんの人が犠牲になる」
「そんなの……じゃあ、どうしたらいいの? カティア…」
「………………」
答える者もなく、ただマヘリアが鼻をすする音だけがしていた。
「……ともかく、あたしたちはアニカのことを外に漏らすことはないわ。それは約束する」
「……ありがとうございます、エリザベッタ様」
ディゴが頭を下げる後ろでは、若旦那も無言で深々と頭を下げている。
「一応、親戚だしね」
リィザが、ふっと笑って見せると、わずかに場の空気も和んだかのように思えた。
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