24 聞いてくれてありがとう

――前の世界には、魔力が存在しなかった。


 みんな不思議に思うだろう。

 でも、そういう世界もあるんだよ……魔法も魔術も魔道具もない。うん、動物はいたけど魔物はいなかったし、瘴気もなかった。みんなには、ちょっと想像がつかないと思うけどね。


 さて、そんな世界で。

 幼い頃の僕は、自分のことを出来損ないのダメな奴だと思って過ごしていた。その理由は簡単だ。


空郎くろう。お前は兄と違って出来損ないなんだから、もっと努力をしなさい。泣いていても何も変わりませんよ……本当に頭が空っぽ。こんなダメな子、見たことないわ」


 母親からは毎日毎日、お前は出来損ないだ、兄を見習え、こんなグズは見たことないと散々言われ続けて育ったからね。

 だけど……本来なら母親って、世界で一番自分を愛してくれる存在だろう。その母親が僕をダメだと断言するんだから、本当に僕はダメな奴なんだろうって。人一倍努力しないとまともな人間になれないんだろうって、そう思いながら幼少期を過ごしてきたんだ。


 だから、ジュディスの気持ちはけっこう分かるかな。君の場合はしっかり愛されていたけど、それでも優秀なお兄さんと比べられて過ごすのは辛かったろうね。


 ただ実のところ、僕の兄は母親が言うほど優秀な奴でもなかったんだよ。今になって思い返せば、弟の口に無理やり昆虫を突っ込んで下品に笑う男を「心が真っ直ぐで明るくたくましい理想の息子」と呼ぶのは、だいぶ無理があったと思うんだ。


「おい、空郎。昆虫ってエビみたいな味がするんだろう? どれが一番美味かった?」


 最初の頃は兄も、大人の目を気にして隠れながら僕を虐めていたんだけど……それを見つけた母親が「あらあら、やんちゃねぇ」とクスクス笑い、泣いてる僕に「すぐに泣くのは男らしくない」と文句をつけてきてね。それからは、兄も底意地の悪さを徐々に隠さなくなっていった。


 そうだなぁ。ペンネちゃんがバンクシア家から受けていた仕打ちは、話を聞いて容易に想像できたよ。僕もよく兄の暴力の練習台に使われていたから。あぁ、バンクシア本家を更地にする時は一緒にやろうね。気軽に誘ってくれていいよ。


 それから……父親だなぁ。うーん。あの人は仕事大好き人間で、あまり家に帰ってこなかった。それと、子どもの意思なんて確認せず、物事を変な方向に進める人だったんだよね。


「空郎を私立で学ばせても、投資対効果が期待できんだろう。習い事も不要だ。こいつの育成に、あまり金はかけるな」


 なんというか、そうだね。

 貯金額や資産価値が総額でいくらになるのか――そればかりを常に気にしている男だったような気がする。子どものことも、そういう資産の一部として考えている節があった。親しみを覚えた記憶は欠片もない。


 だからさぁ、ブリッタが酒に酔って「クソ親父!」って愚痴るのを聞くのは、僕にとってもなかなか痛快なんだよ。前世の僕は、そういうのをあまり正直に吐き出す勇気がなかったから。あぁ、あっちの世界では二十歳になるまでお酒を飲んじゃいけないってルールもあったから、なおさらね。


 さて、そんなわけで小学校……こっちでの精霊神殿の基礎教育になるかな。教育内容はもう少し違ったけれど、目的は似たようなものだと思ってくれればいいよ。そういう場所に、僕も通うことになった。

 兄は私立学校、色々と説明を端折るけど、要は高度な教育をしてエリートを育てるための学校に行った。一方の僕は、もちろん普通の学校だった。いやぁ、すごく楽しかったよ。友達の作り方はずっと分からなかったけど、殴ってくる奴はいなかったし。できるだけ家にいたくないから毎日ギリギリまで図書室で本を読んでいてね。その時だけは、日常のいろんなことを忘れていられた。あ、そうか。今も書籍の収集をしてるのは、あの頃の楽しさを忘れられないからかもしれないね。


 ガーネットと楽しく錬金術談義ができているのは、あの頃からの積み重ねがあったからだと思う。君は僕から学ぶことが多いと言うけど、僕だって書籍を通じて様々な先人から学ばせてもらったんだ。友達はいなかったけど、紙の向こうには素敵な先生がたくさんいたんだよ。


 ただね。僕がそうやって学校生活を楽しむ一方で、兄はだんだん私立学校の厳しい教育についていけなくなってしまって……やがて、僕を便利使いするようになった。


「空郎。昨日の宿題、また計算を間違いやがったな! 恥かかせやがって……この出来損ないが!」


 兄の宿題を代わりにやらされる。

 年が二つも上だと、学んでる内容も高度すぎて理解するのが大変だったんだけど……どうにか学習が追いついてからも、僕はわざと答えを間違えて書くように心がけていた。うん、そう。僕は兄が大嫌いだったからね。


 ジャイロたちは僕を「兄貴」って慕ってくれるけどさ、僕は自分の兄にそうやってチクチクと小さな復讐していた小狡い男でしかないんだよ。下の者の面倒をよく見ているジャイロの方が、よっぽどみんなの兄貴っぽいんじゃないかなぁ。


 さて。僕が兄の宿題を代わるようになると、当然のことながら兄の成績はみるみる落ちていって、両親は兄のことをあまり褒めなくなった。そのうち、父親は外に若い恋人を作って家に寄り付かなくなったし、母親は変な宗教――これは上手く説明できないなぁ。精霊神殿をさらに胡散臭くしたような小さな組織が、あっちにはけっこう色々とあってね。すごく変でしょ。でも母親は、だんだんそういう集団の、耳触りの良いだけの奇妙な教えに縋るようになっていった。


「……お前のカルマがこの家を狂わせたんだ。それを解消しないことには、私たちに未来はないの」


 母親はまったく理解のできない単語を使って僕を責め立てるようになり、やがて食事も満足に与えられなくなった。

 小学校の途中から、僕は常に飢えて、どんどん痩せていって……商店のゴミ箱を漁ったり、図書室で読んだ「食べられる野草」って本を必死で読み込んで、道端の雑草を掻き分けて回るようになった。


 だからさ。キコが……あの出会ってすぐのガリガリに痩せこけた状態から、今のちゃんと肉のついた身体になってくれたのが、すごく嬉しくてね。僕の目の黒いうちは、君が太り過ぎることはあっても、痩せこけさせるつもりはないから覚悟してね。飴が欲しい時はいつでもあげるから。


 さて……身体的にはとても辛い時期を過ごした僕だけど、実は精神的にはだいぶ高揚していたんだ。兄の教材をちょろまかしても、アイツはそもそも勉強をしないから気づくことはない。父親は最低限の学費はきっちり払ってくれたから、僕は何がなんでも、とにかく勉強だけは全力でやっていた。

 最終的に僕は、暮らしていた国の中でも五本の指に入るような良い大学に入った。モノ作りを専門に教える大学としては、国一番のところでね。そしてついに、僕は実家を出て一人暮らしを始めることになったんだ。


 アマネはかつての自分を、生意気に思い上がっていただなんて評価してたけどさ。良いんだよ、いい気になっちゃってもさ。

 自分の持てるものを必死にかき集めて、骨身を砕いて努力して、足りない部分盛っては削り、磨き上げて……そうして自分の力で掴み取った結果だ。部屋で一人、鏡の前で胸を張って、自分を誇らしく思う。それを恥ずかしがる必要はどこにもないと僕は思う。


「何お前、ゲームとかやんないの? スマホくらいは持ってんだろ。クラフトゲームでもやってみたら?」


 大学の同級生にそんなことを言われて、なんとなく入れたクラフトゲームに……うん。めちゃくちゃハマったのは、その頃だった。

 自分でお金を稼げるようになったからね。飢える心配がなくなって、のんびり遊ぶ余裕も出てきた。働きながら勉強をして、フッと空いた時間にクラフトゲームで遊ぶ。それが、僕のようやく手に入れた平穏だったんだよ。


 だからさ。ミミたち小人ホムンクルスが研究所での酷使から解放されて、好きなだけ魔石を齧りながら自由に過ごしている姿を見ているとね。すごく嬉しくなるんだ。ようやく自分の人生を手に入れた――あの頃の自分を見ているようでさ。


 まぁ残念ながら、僕の平穏はあまり長くは続かなかったわけだけど。


「お前が、お前が私たちから全てを奪い取るからこんなことになるんだ! それで自分だけ成功者になって……そんな親不孝が許されると思うのか! 責任を取れぇぇぇ!」


 狂った母親に鈍器で殴り殺されたのは、僕が二十歳になってお酒の味を覚えた、少し後のことだった。

 どうやら二つ年上の兄は、大学の授業にも出ずに家に籠もるようになったらしいんだけど……母親の理屈では、兄がそうなってしまった原因は全て僕にあって、僕を殺すという善行を積むことで事態は好転するという話だった。今となっては、本当に好転したのかを確かめる手段はないけどね。


 そんなわけだから、生まれ変わっても僕は精霊神殿という「宗教」にずっと懐疑的だったし、新しくできた父さんと母さんがあまりにも善良過ぎて接し方に困ってしまった。

 みんなが向けてくれる好意にも薄々気づいてはいたけど……なんというか、素直に受け止める心の準備ができてなくて。これは完全に僕側の問題なんだけどさ。少しずつ向き合えるように努力はしていこうと思うんだけど……ちょっと、すぐには難しいかもしれない。


 あと、兄という役割の人間がどう振る舞うべきなのか全然分からなくて、妹との接し方に困ったりもしていたんだ。変な兄でごめんね、ハンナ。


  ◆   ◆   ◆


「――だからさ、レシーナ。僕が君のことを“友達”と呼び続けているのは、決して君を軽んじているわけじゃないんだ。むしろ前世を含めて、僕にとって初めての友達がレシーナだからね……うん。まぁ、君が叩きつけてくる好意をどんな風に受け止めれば良いのか分からなくて、正直ちょっと困ってはいるけど……でも、悪い気持ちはしていない。とても救われてるよ」


 そう言って、僕はレシーナに頭を下げる。

 言葉の足りない部分はあったと思うけど、僕のこれまでのこと、今みんなに対して思っていることを、できるだけ正直に伝えてみたつもりだ。まぁ、こんな突拍子もない話、あまり真実味はないと思うけど。


「話してくれて、ありがとう。クロウ」

「いや……自分の過去を打ち明ける踏ん切りがなかなかつかなくて、ここまで先延ばしてしまったのは僕だから。待っててくれて、ありがとう。レシーナ」

「ふふ。じゃあ、挙式の日取りを決めましょうか」

「そっちの話題も成人くらいまで待っててくれると、僕としてはありがたいんだけどなぁ」


 そして僕は……改めて、父さんと母さんの方を向く。


「父さん、母さん。ずっと何も話さなくて、ごめんなさい……二人が子育てに悩んでいたことは知ってたけど、どうしても話す勇気が出なくて。この通り、何もかも僕のせいだったんだ。二人は本当に、何も悪くないから」


 そう言って、頭を下げる。

 こんなに良い人たちを悩ませてしまって、本当に悪かったなぁと思う。僕のような……ひたすら両親を警戒する可愛げのない赤ん坊にも、二人はちゃんと愛情を注いでくれたのに。それを理解していてなお、僕は応えることができなかった。


「顔を上げろ……お前のせいじゃねえだろ」

「父さん」

「俺はパンを焼くくらいしか能のない男だが、それでも父親だ。お前は黙って……俺の焼いたパンを食って、元気に育ちゃいいんだよ」


 父さんはそうして、僕に近づいて来るとグリグリと頭を撫でてくる。なんだか心がむず痒いような……うまく表現できない感情に、顔が熱くなる。


「ようやく理解できたわ。だからあんた、おっぱい吸いながら虚無の目をしてたのね。あたし、どんだけ自分の母乳が不味いのかってだいぶ悩んだのよ」

「それはほんとごめん、母さん」

「まぁ、悩まされた分は孫を可愛がることでチャラにしてあげるわ……これだけ嫁がいるんなら、孫なんかひっきりなしだろうしね」


 うん。なんで母さんも一緒になって外堀を埋めようとするのかなぁ……まぁ、反論できるような状況でもないし、みんなニヤニヤと楽しそうにしてるから良いんだけどさぁ。うん。


 そうしていると、ハンナが鼻をすすりながら一歩前に出てくる。


「兄ちゃんは、兄としての自覚が足りないね。本来なら兄はもっと妹を甘やかすべきなんだよ」

「あ、そうなの?」

「世の中の普通の兄というのは、ちょいちょい妹に金貨をくれたりするもんなんだよ? ほらほら、いっぱい溜め込んでるんでしょ。ちょうだい」

「はい」

「本当に出さないでよぉ!」


 え、どういうこと?

 まぁ、とにかく……ありがとう。父さん、母さん。ハンナもね。それからみんなも、色々と聞いてくれてありがとう。

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