肆 山小屋 その二

「あなた、私たちが見えているし、声が聞こえているのね。そうなんでしょ」

そう繰り返す女性に、僕は困惑してしまいました。

――この人、何を言っているんだろう?


そう思いましたが、僕は取り敢えず女性に返事を返しました。

「はい、ちゃんと見えてますけど。それが何か?」


「そう。見えてるの。見えてるのね」

女性はそう言うと、また口を噤んでしまいました。

隣に座った男性は、終始黙ったままで、上目遣いに僕を見ています。


――変な人たちだなあ。

訝りながら、もう一人の男性を見ると、相変わらず怯えた表情で僕を見ていました。

しかし僕と目が合うと、途端に俯いて視線を逸らせてしまいます。


――何なんだろう?この人たち。

僕は少し憮然としましたが、元々人見知りする質だったので、それ以上は口に出さず、黙り込みました。


重苦しい沈黙が、室内を包みます。

僕はとても疲れていたのですが、興奮して眠れそうになかったので、黙って椅子に座っていました。


どれくらい時間が経ったでしょう。

知らぬ間にテーブルに突っ伏して眠っていた僕は、背後の物音で目を覚ましました。

振り返ると、また男性が暖炉に薪をくべるところでした。


「気づかなくてすみません。次は僕がやりますから」

僕が声を掛けると、何故か男性はその場で竦み上がってしまいました。

その顔には、恐怖の表情がありありと浮かんでいました。


「どうかされましたか?」

不審に思った僕が、さらに声を掛けると、男性は初めて言葉を発しました。

「あんた人間だよな?」


――この人、何を言ってるんだろう?

僕は訳が分からず、絶句してしまいました。


しかし男性は、堰が切れたように喋りだします。

「あんた本当に人間だよな。そうだろ。人間だって言ってくれよ」


「あなたさっきから、何を言ってるんですか?意味が分からないんですけど」

僕がムッとして返しても、男性の勢いは止まりません。


「そうだよな。人間だよな。よかったよ。でも、あんた」

そこで言葉を切った男性は、ゴクリと唾を飲み込みました。

「あんた、さっき誰と話してたんだ?」


「誰とって」

「この小屋には、俺とあんたしかいないだろう。それなのに、さっき誰と話してたんだよ」

最後は叫ぶように言って、男性は僕に縋りついてきました。

顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいます。


「誰とって、この小屋の管理人さんと、そこのお二人ですよ。あなた一体何を言ってるんですか?」

僕が目を向けると、男女二人は相変わらず暗い表情で、こちらを見ていました。


男性は僕の視線を追って、部屋の隅に目を向けた後、今度は僕から手を放し、後ずさって行きました。

「あんた本当に人間なのか?そこには誰もいないじゃないか。一体何が見えているんだよ」


僕が言葉を失っていると、男性は逃げるように部屋の隅まで後ずさり、壁に当たって、その場に座り込んでしまいました。

その目は僕と、隅の男女の方を、交互に見ているようでした。


「おや、ばれてしまったようだね」

その時背後から声がしました。


振り向くと管理人さんが立っていました。

その顔には、先程と同様に笑みが浮かんでいます。


「管理人さん。何を仰ってるんですか」

僕は思わず問い返しました。


「今度は誰と話してるんだ」

横から男性の声が聞こえましたが、無視しました。


管理人さんは笑顔で話し始めました。

「実は私はね。去年死んだんだよ。病気でね。それ以来この小屋は、定期的に物資を補充するだけの無人小屋になったんだ。人手不足とかでね。君は麓で聞いていなかったようだけどね」

その言葉に、僕は思わず生唾を飲み込んでいました。


「でもね、長年管理人をしてたから、未練が残るじゃない。だから死んだ後もここに残って、管理人を続けることにしたんだよ」

そう話す管理人さんは、相変わらずの笑顔でした。


「続けることにしたのは、それでよかったんだけどね。やっぱり一人じゃ寂しいし退屈じゃない。だからね。仲間を増やすことにしたんだよ」

僕は言葉を失くしていました。

横で男性が何か喚いているようでしたが、最早耳に入ってきませんでした。


「そこの二人はね」

そう言って管理人さんは、隅の男女を指しました。


「今年の夏に登ってきた時、偶然大雨に会ってね。小屋に避難してきたんだよ。その時に死んでもらって、仲間になってもらったんだ」

男女は怯えた目で管理人さんを見ていました。


「その男はね」

今度は、隅で譫言を呟いている男を指します。


「君より少し前に、この小屋に辿り着いたんだよ。君と同様に無謀な真似をしたようだね。そのまま仲間にしようと思っていた矢先に、君が入って来たんだ」

僕は管理人さんの笑顔を、じっと見ているしかありませんでした。


「驚いたよ。遊び心で話し掛けてみたら、私が見えているようじゃないか。そして私の声も聞こえていて、ちゃんと会話が成り立つじゃないか。私は嬉しくなって、少し様子を見ることにしたんだよ。時間はたっぷりあるからね」

「何の時間ですか?」


僕のその問いに、管理人さんは一呼吸おいて応えました。

「仲間になってもらうまでの時間だよ」


それを聞いた瞬間、僕は小屋の外に飛び出していました。

そして雪に足を取られながら、必死で駆けて、小屋から離れようとしました。


その後のことは、よく覚えていません。

気がついたのは、救助隊に声を掛けられて時でした。


僕は山小屋からかなり離れて場所で、半分雪に埋もれて、倒れていたそうです。

僕はそのまま麓の病院に運ばれ、九死に一生を得たのです。


これまで、あの夜の体験を話したことはありません。

とても信じてもらえるとは思えなかったからです。


ただ残された男性がどうなったのか、気にはなっています。

それとなく調べてみましたが、男性に関する情報は見つかりませんでした。

多分、管理人さんの仲間にされたのではないかと思うのですが。


あれから山に登っているかですか?

それはもう無理です。

なにしろ凍傷で両足を失ってしまいましたから。

これも無謀なことをした代償だと諦めています。

これで僕の話は終わりですが、信じていただけたでしょうか。

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