参 長期療養病床 その二
私は急いでナースセンターを出ると、605号室に向かいました。
病室内はすでに主照明が落ちていて、常夜灯のオレンジ色の灯りだけが点っていました。
薄暗い病室内を、私は奥に向かいました。
ナースコールがあったのは、一番右奥の患者さんだったからです。
病床の間仕切りカーテンを少し開けて、中に声を掛けようとした私が見たものは、ベッドの上に半身を起こして座っている患者さんでした。
それはあり得ないことでした。
その患者さんは既に90歳を超えていて、介助がなければ身動きすらできないはずだったからです。
患者さんの眼球は反転し、白目をむいていました。
口は大きく開かれ、両腕を前に突き出しています。
その様子を見て私が後ずさった時、背中が何かに当たりました。
私は背後から強い力で抱きすくめられ、口を塞がれてしまったのです。
「まったく余計な真似をする女だ」
その声はヨシムラでした。
更に、ヨシムラを振り放そうともがく私の顔を、ユミコが覗き込んできました。
昼間の陰気そうな顔とは打って変わって、眼を大きく見開いて邪悪な笑みを浮かべていました。
「お前は僕たちの崇高な実験を邪魔しようとしたんだ。罰を受けさせてやる」
ヨシムラの怒気を含んだ声が、後ろから聞こえました。
「先生。こいつに罰を与える前に、自分がしたことの愚かさを、しっかりと思い知らせてやりましょうよ」
ユミコが嬉しそうに続けました。
「そうだな。何も知らずに罰を受けるのも可哀そうだ。お前が邪魔しようとした、僕たちの偉業がどんなに素晴らしいことか教えてやろう」
ヨシムラは、何故か浮かれた口調で言いました。
「ユミコがこの部屋の連中に投与していたものが何だと思う?あれはな、不老不死の薬なんだよ。分かるか?不老不死だ」
私はヨシムラのその言葉を聞きながら、こいつらは絶対狂っていると思いました。
「僕は偶然その処方を見つけたんだ。動物実験も重ねたし、成功例も出た。後は人間で試す必要があるだろう。そう思わないか?」
私は言葉を失っていました。
「僕の考えは正しかった。そこのジジイを見てみろ。さっきまで身動き一つできなかった奴が、この間の倍量を投与しただけで、すぐに起き上がれるようになったんだ。これを成功と言わずしてどうする。あと少し実験を重ねれば、人類は不老不死という夢を実現できるんだ。不老不死だぞ。不老不死。そうすれば、僕とユミコの名前は、永遠に人類史に刻まれることになるんだ」
ヨシムラは、完全に自分の言葉に酔っていました。
「先生、そろそろいいんじゃないですか?」
「そうだな。ユミコ、準備はいいか?」
ユミコは後ろ手に持っていたものを、私に見せました。
その顔に、この上なく残虐な笑みを浮かべながら。
それは注射器でした。
「ユミコが持っているものは何だと思う?」
ヨシムラが嬉しそうな声を出します。
私はそれが何なのか、薄々察知していました。
「そうだよ。僕が開発した、不老不死の霊薬だよ。その貴重な薬を、そこのジジイの十倍量、お前に投与してやろう。お前のような健常人に、大量投与すればどんな結果になるか、実験してみる価値があると思わないか?」
ヨシムラが厭らしい声で囁きました。
私に幸いしたのは、ヨシムラが右手で私の口を押えていたことです。
私の右手はフリーでした。
そしてその頃の私は、喫煙者だったのです。
私はポケットに入れたライターを取り出すと、注射器を持って近づいて来るユミコの服に火を点けました。
火は起毛地のユミコの服に、一気に燃え上がりました。
驚いたユミコは、火を消そうと手を闇雲に振り回します。
ヨシムラは驚いて私の体を放すと、慌てて病室から逃げようとして転倒しました。
その時床に落ちた注射器が、私の眼に入りました。
私は注射器を拾い上げると、立ち上がろうとするヨシムラの首筋に突き刺し、一気に中の液体を押し込みました。
その後病院内が大騒ぎになったのは、言うまでもありません。
幸い病室内に設置されたスプリンクラーがすぐに作動して、火はすぐに消し止められました。
八人の患者さんたちは、スプリンクラーの水でずぶ濡れになってしまいましたが、健康面の被害はなかったようです。
あの時ベッドから半身を起こしていた方も、元の寝たきりの状態に戻りました。
そしてユミコは半身に大火傷を負って、暫くの間、生死の境を彷徨っていたようです。
ヨシムラはというと、病院スタッフが駆けつけた時には、急性心不全で既に死亡していたそうです。
その後私は警察の事情聴取を受け、知っている限りのことを話しました。
多分、ヨシムラに対する殺人罪で罰せられるのだろうと、覚悟していました。
しかし私は、警察に留置されることもなく、家に帰されたのです。
後で聞いた話ですが、病室から注射器が発見されなかったため、私の証言に信憑性がなくなったということでした。
もしかしたら、スタッフの中に他にもヨシムラの仲間がいて、注射器を持ち去ったのかも知れません。
しかし本当にそうだったのか、今でも疑わしいと私は思っています。
一説によると、地元の有力者だった病院長が、警察に圧力をかけたとのことでしたが、それも事実かどうか分かりません。
結局事件は有耶無耶になってしまい、私はそのまま病院を辞めてしまいました。
私の話は以上となりますが、何の怪異もない、狂人たちの愚行の話でしたので、皆さんのご期待に沿えなかったかも知れませんね。
ただ、私には今でも気にかかっていることが一つあります。
あの時ヨシムラは、動物実験に成功したと言っていました。
その成功例は、今どうしているのでしょうか。
了
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