参 長期療養病床 その一
私の番が回ってきましたか。
私の名前は、サエコと言います。
職業は看護師です。
看護師としてのキャリアは、既に二十年を超えていますので、その間に色々な病院、色々な医療スタッフ、そして色々な患者さんを見てきました。
今からお話しするのは、十年あまり前に、私が長期療養を必要とする患者さんの病棟の看護師をしていた時に経験した出来事です。
その頃に私が勤めていたのは、北関東の中規模の市にある総合病院でした。
当時は医療保険制度の改革によって、介護療養病床の数が十年前の半分ほどに減っていましたが、その病院ではまだ、八病床が維持されていました。
介護療養病床というのをご存じでしょうか?
医療の必要性が比較的低く、介護の必要性が高い患者さんのための病床のことです。
つまり介護なしに日常生活が送れない、主に高齢者の方を対象とする病床なのです。
夫の転勤のため、前の病院を辞めて、その病院に就職した私が、最初に配属された病棟に、その介護療養病床はありました。
以前勤めていた病院で、高齢者介護の経験があったことが、配属の理由だったと思います。
八人の患者さんは、皆男性でした。
そして当時としては珍しく、一つの病室に八床が詰め込まれている状況だったのです。
患者さんは皆、かなりの高齢者で、全員が寝たきりの状態でした。
日中は介護士が患者さんたちの介護をしてくれていましたが、夕方以降は看護師が交代で介護に当たることになります。
特に夜勤の時には、当直の看護師の数が少なくなるため、とても多忙でした。
当時私と同じ病棟に、ユミコという看護師がいました。
年齢は私より少し下で、漸く一人前に仕事ができるようになったばかりの娘だったのですが、雰囲気が暗く、同僚の看護師たちとは、あまり馴染んでいない様子でした。
ただ性格は真面目で、辛い仕事でも文句を言うことなく黙々とこなすので、皆から嫌われてはいませんでした。
ユミコは非常に無口で、仕事の合間に同僚たちと、無駄話をするようなことはありませんでした。
とは言え、業務上の会話はきちんとできる娘でしたので、私は単におとなしいという印象しか持っていませんでした。
ある日私は、介護療養病床のある、605号室の前を通りかかった時、ユミコが患者さんの点滴に、三方活栓から何かの薬剤を注入しているのを目撃しました。
外から様子を見ていると、全員に同じ薬剤を注入しているようです。
その時まで私は、主治医からそのような指示を受けたことがなく、また全員の同じ薬剤を投与することはなかったので、かなり不信を覚えました。
ユミコは病室から出ようとして、外から様子を見ている私に気づくと、慌てて目を逸らしました。
そして私と目が合わないようにしながら、急いで病室から出て行こうとします。
「ユミコさん」
私が呼び掛けると、彼女は肩をビクンとさせ、その場で立ち止まりました。
「今、患者さんに、何を投与していたの?ちょっと見せてもらっていいかな」
まさかとは思いましたが、当時看護師が患者さんに毒物を投与して死亡させるという事件が話題となっていたため、私は確認せざるを得ませんでした。
するとユミコは、手に持った薬を、私に見せるのを頑なに拒否しました。
「こ、これは、ヨシムラ先生の指示で投与してるんです。先生から、他の人には見せるなと言われているので、サエコさんには見せられません」
「それって本当なの?ヨシムラ先生に確認していいの?」
私はつい、きつい口調で問い質しました。
するとユミコは、消え入りそうな声で、「どうぞ」と言って、逃げるように去って行ったのです。
私はそのままにしておけないと思い、病棟主任に状況を説明し、対応を相談しました。
「ヨシムラ先生かあ」
私の話を聞いた主任は、少し顔を歪めました。
そして諦め顔で続けます。
「あの先生はかなり難しいのよね。聞いてみるのはいいけど、気を付けてね。へそを曲げられると、後からややこしくなるから」
まだ若かったのでしょうね。
主任の無責任な応えを聞いた私は、カチンときてしまい、絶対ヨシムラ医師に聞いてやろうと考えたのです。
機会はその日の午後、すぐに訪れました。
予定にはなかったのですが、ヨシムラが突然、605号室の回診に現れたのです。
回診を終えて病室から出てきたヨシムラに、私は今日の午前中のユミコの行動について問い質しました。
ヨシムラは、私の言葉を聞いた途端に顔色を変えました。
「あれは僕がユミコ君に指示してやらせているんだ。君は余計な詮索をしなくていい」
彼から返ってきたのは、木で鼻を括ったような返事でした。
ご存じかも知れませんが、病院内では医師と看護師の間に、厳しい上下関係が存在します。
通常ならそれで引き下がるべきなのですが、私は少し意地になっていたようです。
「でも、見た所あのバイアルには、ラベルが貼られていなかったようなんですけど。それって問題じゃないんですか?」
薬剤には法律上、表示義務というものがあり、病院で扱われる薬剤にラベルがないということはあり得ないのです。
「もういい。関係ないことに首を突っ込むんじゃない」
ヨシムラは、そう言って私を睨みつけると、そそくさと病棟を後にしました。
その後姿を見送りながら、私は彼に大きな不信感を抱いていたのです。
その後私は、看護師長に呼び出され、散々怒られてしまいました。
ヨシムラから強硬なクレームがいったようです。
しかしそのことで、返って私は意地になってしまいました。
おそらくユミコに聞いても、碌な反応は返って来ないだろうと思った私は、医療記録を調べることにしたのです。
当時は既に電子カルテが普及しており、患者さんの診療録や薬剤の処方記録、検査記録などの医療情報は、すべてその中で一元管理されていました。
そして患者情報へのアクセス権は、病棟の看護師全員に付与されています。
私は当直の夜、周囲に人がいないことを確認して、605号室の患者さんの情報を確認することにしました。
日中に行ってもよかったのですが、他の看護師に不審に思われるのを避けるために、万全を期したのです。
私は一人ずつ、万遍なく記録を調べました。
しかしユミコが患者さんに投与していた薬剤の情報は、電子カルテのどこにも見当たらなかったのです。
それはあり得ないことでした。
ヨシムラとユミコの行為は、完全に法律に違反するものだったのです。
私は、内部告発することを考え始めました。
このまま病院内で問題提起しても、もみ消されてしまうのではないかと思ったからです。
しかし証拠がありません。
私の目撃証言だけでは、ユミコがしらを切れば終わりです。
私のような人間が現れることを想定して、ヨシムラはカルテに何も記録を残していなかったのではないかと疑いました。
私がどうしたものかと思い悩んでいた時、ナースコールが鳴りました。
605号室の患者さんからでした。
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