第3話 決意、そして不安

「やるよ。私、水泳」


 そうつぶやいた声は、少し震えていた。

 でも、この気持ちは本物のはず。

 すうっと息を吸い込むと、目の前でポーズを決めていたあかりんがぱちりと瞬きした。


「やっぱり、やるの⁉」

「入ってくれるのっ!?」


 いつの間にかそばに来ていた水菜先輩も、私のことを見てぽかんとしている。

 私をじーっと見て、それからニコーッと思いっきり微笑んだ。


「やっったあああっ!!!」


 またも両手を天に向かって突き上げ、「後輩ゲットっ!」と叫ぶ先輩に、私は苦笑いする。

 えーと、まだ泳ぐのが、怖いから……泳げるようになるまでは、まだ少しかかると思うけど……。


 最近はあまりやっていなかったし、やっぱり今すぐにガンガン泳ごう!というのは無理そうだった。


「……でも、今日は水泳、できないんだね?」

「あ……ハイ……ちょっと、足が痛くて……」


 本当は足は痛くないのだが、申し訳ないけど嘘をつく。

 ごめんなさいっ。本当のことは言えないんですっ……。


 そう答えて、ふと思った。

 なんで私は拒否してるんだろう、今からでもやりたいと言えばいいのに。

 別にいきなり泳ぐわけじゃないのなら、やってもいいはずなのに。


 なんで、嘘までついて、私は拒否してしまったんだろう?


「そっか」と少し残念そうな声色でそう言った水菜先輩を見ると、ぎゅうっと胸が痛んだ。

 でも、いつものように「よーしやるぞ!」と元気よく言った水菜先輩は、さっそくという感じであかりんと一緒に準備体操を始めた。


 先輩と笑いながら体操する様子を見て、思わずこっちもふふっと笑いがこぼれた。




 泳ぎたいのに、

 スクールに通っていた時も、毎回楽しみで仕方なくて、水の中に潜れば何も考えなくてよくて、ホントに楽しかった。


 また、あの時みたいな気持ちを味わいたいと思うのに、それでも怖いと思う自分がいる。

 水に包まれたい、と思うのに、それができない自分がいる。

 矛盾して、自分でもうまく分からない気持ちがある。


 ぼーっとプールの波を見ていると、上で晴琉先輩の声がした。


「……ここで大丈夫か? イス、出すけど」

「あっ、晴琉先輩……私、立って見てるので、大丈夫です」

「そうか。ならいいが……イスが欲しかったらあそこから持ってきていいからな」


 そう言いながら指差したのは、体育館で言う、器具庫、的なところ。

 ドアについてる小窓を見ると、中にプールチェアがいくつも入っているのが見えた。


 ただ、お化け屋敷に出てきそうなほど、ぼろっぼろだけど。

 周りは新しいのに、ここだけなんか……やけに古くない?

 蜘蛛の巣とかもありそうだし、絶対きれいじゃないよね?


 とりあえずうなずいて、ハッと聞きたいことがあったのを思い出した。

 忘れないうちに聞いておかなくちゃ……!


「あの、顧問の先生は……?」


 さっきから姿が見えないが、水泳中に大人がいないというのは……いいのかな?

 でも、何かあったら困る、よね?


「ああ、顧問はあそこにいるよ」

「え、あそこっ?」


 またまた晴琉先輩がびしりと指をさす。


 そこには監督っぽいプールの椅子に座った、ぽんやりとした雰囲気を漂わせている男性の先生が、いた。 

 ほ、ほ、ホントにいるっ⁉


 びっくりしすぎて荷物落とすところだった。

 だって、だって!

 さっきまで、あかりんと二人だけだと思ってたのに、あそこにいたってことでしょ?


 ……ん?

 あの先生、寝てない?

 よくよく見れば、こっくりこっくり首を傾けていた。

 いや、役立たずすぎでしょ、あの顧問。


 私の心の中を読んだのか、晴琉先輩が「ああ、いつものことだよ」と言った。


「いつもの、こと……」


 マジですか……。


「安心して、いい先生だから」


 寝ている時に、安心して、とは……。

 寝ている時に万が一生徒に何かあったらどうするつもりなんだろう?


 付け加えるようにそう言って、「それじゃあ、何かあったら言って」と言って、自分の練習に戻ってしまった。


 そして、ここの水泳部はみんなそれぞれで活動をしていくらしく、かなり自由だ。


 晴琉先輩は一人でクロールの練習を。

 水菜先輩は、あかりんと一緒に水遊びを。


 さっきからキャッキャと楽しそうな笑い声が響いている。

 楽しそうだなあ……。


 それを見ていたら、急に今ならできる気がした。


 そう、別に、水というそのものが怖いわけじゃなくて、泳ぐことが怖いのだ。

 触ることなら、できる、かも……。


 制服が濡れないように気をつけて、と言われていたから、スカートが濡れないように手で抱えて、プールの近くにしゃがむ。


 そこまで近づけば、プール独特の塩素のにおいがして、懐かしさに目を閉じる。


 手をのばして、ゆっくり、水の中に手を入れた。


 冷たい。

 手首まで入れて、一気に体が冷えた。

 でも、心は不思議と大丈夫で、さわさわ、と水の中で手を動かしてみる。

 なんだ、私、いけるじゃん。


 結構早くに泳げるようになるかも。

 ちゃぷちゃぷと一人で遊んでいると、私の耳にひくーい声が届いた。


「お前、体験?」


 んっ⁉


 晴琉先輩ではないことを悟り、ハッとうしろを向くとそこには私と同じくらいの男子がいた。

 鼻の筋は高く、さらっとした黒髪の男子。目はきりっとしてて、顔は結構イケメンだ。


「あの、ごめんなさい、だ、誰、ですかっ?」


 見たことない。というか、入学からまだ3週間しか経ってないんだから、さすがに学年全員の名前と顔を覚えることはできないって。


 反射的にそう問えば、その男子はふんと顔をそらしながら言う。


「……オレ、海崎うみざきなぎさ


 海崎、渚君……。

 海崎君、でいいのかな?


「あ、私は舞です。水森舞。……えっとー同学年……だよね?」

「オレが1年なんだからそうだろ」


 むっ……。

 なんかこの人、とっつきにくい。

 そういえば……この男子の格好は水着。

 ということは……。


「えっ、海崎君って水泳部なのっ⁉」

「……水着着てるんだからそうだろ、普通」

「え、でも、1年生って、もう部活入ってるの……?」

「もともとクラブってるんだ。先輩とは顔見知りだ」

「ふうん」


 なるほどね。

 一応水泳部の中では先輩ってことか。

 あんまりいい気しないっ!

 むうっとしながら海崎君を見ると、「さっきから思ってたが」と言って、私のことを見る。


「お前、水泳やんねえの。ここに来て」


「え……」


「だから、やればいいじゃん、せっかくなんだから。水着、借りればできるだろ。やらねえの?」


 目を見開く。

 澄んだ目を見て、心がのぞき込まれるような錯覚に陥る。

 何もやっていない私を見て、そう言ったのは分かっているけど。

 軽い気持ちで。きっと。


 ただ、ケガしているだけっていえばいいのに……。

 でも、言葉が出てこなかった。


 私だって、好きでやっていないわけじゃ、ないのに……っ!

 やりたいのに、できないんだよ。


 気持ちが高ぶって、たまっていた熱が爆発する寸前で、ふっととどまる。

 そんなの、八つ当たりじゃん。


「あ、はは、私、友達に誘われたから仕方なく付き添いで来ただけで……」


「……さっきのは」

「え?」


 ぼそり、とつぶやいた言葉に首をかしげる。

 さっきの……?


 思い出す私に、いらだつように海崎君が言った。


「やるって言ったんじゃねえのか。さっき」


 さっき、自分で言った言葉を思い出す。


 ――やるよ。私、水泳。


 聞かれていたことに恥ずかしさを感じ、一気に顔が熱くなる。

 そう言っておきながら、友達に誘われてしかたなく来たなんて。

 バカだ、私。

 自分でも自分のことが分からない。

 ぐちゃぐちゃの感情の中に、果たして本当の気持ちはあるのかな。

 

 過去のことにとらわれずに前を進めば、いい方に転がっていくのかな?


 ぼうぜんと濡れた手を見る私を一目見ると、興味をなくしたかのように奥に行ってしまった。


 ドキドキとなる胸を押さえてふっとあたりを見れば、いつの間にかみんなプールサイドに上がって、何かを話しているようだった。


 海崎君を除く3人が、何やら真剣な顔で話している。


 何が始まるんだろう……?

 そう思っていると、やがて水菜先輩が「今日は水泳オニ、やりまーす!」と言った。

 水泳オニ?


 聞きなれない単語に耳を傾ける。

 水泳部の晴琉先輩は分かっているようで、「またか……」と言ってため息をついている。

 知らないはずのあかりんも、「ええーなんですか、それ?」と言って、楽しそうだ。


 私はその様子をぼーっと見ながら、静かにその場を立ち去ったのだった。






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