第十一話① こんな国は滅んでしまえばいい(前編)


 五月下旬の早朝。午前四時半。


 自宅の近くを、新聞配達員の少年が駆け回っていた。朝刊配達。近くには、配達用の自転車が停まっている。新聞を山ほど積んだ自転車。


 新聞配達の少年を尻目に、秀人は自宅に帰ってきた。


 狐小路付近で、ナンパ――という名目の強姦目的――をしてきた男達を、返り討ちにした後。秀人は、彼等に銃を手渡した。違法改造銃。殺傷能力は十分にある銃。それを彼等に使わせ、事件を起こす。


 男達は、完全に秀人の言いなりになっていた。


『俺の言うことを聞くのが嫌なら、その銃で襲撃してきてもいいよ』


 銃を渡した後、男達にそう伝えた。しかし、彼等が秀人に逆らうことはないだろう。


 秀人のことを美女だと思い込み、襲おうとし、返り討ちに遭った男達。男の一人は腕の骨をへし折られ、別の男は、手の届かない位置から急所を攻撃された。さらに、電柱に指をめり込ませるという、人外とも思える力を見せつけられた。


 彼等は間違いなく、これ以上ないほどの恐怖を感じていただろう。秀人の外見とその強さのギャップは、恐怖をより際立たせたはずだ。


『じゃあ、色々決まったら連絡するよ。逃げたら殺しちゃうから、そのつもりでね』


 そう男等に告げ、秀人は帰宅した。


 住宅街にある、一軒家。市街地からは車で三十分ほどの場所。


 秀人の家は、一見、普通の一戸建てに見える。周囲に立ち並ぶ家々と同様の、普通の家。しかし、その造りは、普通とはほど遠かった。石膏ボードではなくコンクリートで固めた、頑丈な壁。窓は全て、厚さ一センチもある防弾ガラス。鍵も、特殊な電子ロックだ。


 秀人の家は、檜山組と繋がりのある建設会社が建てた。名義は、その建設会社の重役。


 六年前に檜山組に襲撃を掛けてから、秀人は、着々と行動を進めていた。檜山組の上層組織である当麻會とも繋がりを持った。今は、海外マフィアとも繋がりを持ち始めている。計画は順調と言えた。


 秀人は家の鍵を開けた。ドアを開け、玄関に入る。


「ただいまー」


 家の中に向かって声を掛ける。とはいえ、同居人がいるわけではない。


 いるのは、同居の猫だった。五匹の猫。


 飼っている猫達が、玄関とリビングの境にあるドアの前で、ニャーニャーと鳴いていた。ガラス張りになっているドアの向こうに、猫達の姿が見える。


 ドアを開けると、猫達が、一斉に秀人に擦り寄ってきた。


 五匹の猫。五体満足と言える猫は、一匹もいない。


 黒猫のフクは、左の前足が欠損している雄。推定年齢は十歳。


 三毛猫のニジは、片目が潰された雌。推定年齢は七歳。


 キジトラのタイガは、左の後ろ足が欠損している雄。推定年齢は五歳。


 同じくキジトラのヒョウは、全身に火傷を負い、所々の毛が薄くなっている雄。推定年齢は二歳。


 白猫のミルクは、外見こそ普通だが、かつて体を何カ所も切り刻まれた。神経まで到達した傷もあり、動きがぎこちない雄。推定年齢は一歳。


 全て、人間に虐待された猫だ。


 秀人はこの子達を引き取り、飼っている。


 この五匹を虐待した人間は、全員、拷問の末に殺した。中には十五歳の少年もいたが、知ったことではない。弱者を虐待したのだから、強者に嬲られても文句は言えないはずだ。もっとも、奴等は全員、泣き叫びながら命乞いをしていたが。


 猫達は不自由な体を一生懸命動かし、皆が皆、秀人に擦り寄って甘えていた。


「わかったわかった。ご飯か? それもと、ただ甘えたいだけか?」


 少し前屈みになり、秀人は、それぞれの猫を代わる代わる撫でた。


 猫達はゴロゴロと喉を鳴らし、さらに秀人に甘えてくる。


 この子達のことを、可愛いと思う。大切だと感じる。この国に寄生する下劣な奴等よりも、ずっと。この国の人間なんかよりも、はるかに大事にしたい。


 愛おしいものを目にすると、庇護欲と義務感が湧き上がる。同時に、業火のような怒りと復讐心も湧き上がる。


 弱い者を虐げ、愉悦に浸る奴等への怒り。下衆共を庇い守る、国への復讐心。


 秀人の家族は、そんな奴等に殺された。

 秀人の家族は、そんな奴等におとしめられた。


 それは、もう二十五年も前の出来事。四半世紀も前だが、怒りも復讐心も、決して色褪せない。


 当時、秀人はまだ八歳だった。


 父親は、少年課の刑事だった。母は専業主婦。少し歳の離れた姉は、高校生だった。


 秀人によく似た母は、四十歳には見えないほど美しかった。姉も、学校内で評判になるほどの美少女だった。


 真面目に働く父に、美しく優しい母と姉。市内の郊外に建てた、広い一戸建て。絵に描いたような幸せな家庭だった。


 だが、幸せな日々は、無残に壊された。何の予兆もなく、ある日突然。


 秀人の記憶に間違いがなければ、午後七時頃だった。


 仕事を終えて帰宅した父が、家の鍵を開けた瞬間に、襲撃された。鉄パイプで頭を殴られたのだ。


 父が殴打される異様な音は、家の中まで聞こえてきた。


 母や姉、秀人は、何事かと玄関の方に視線を向けた。いきなりの出来事に、三人とも固まっていた。驚愕が要因の硬直。


 響き続ける、殴打の音。


 殴打の音に交じり、争う音が聞こえてきた。ガタンッ、バタンッ、という音。


 激しい音が、秀人達の驚きを大きくしていた。


 突然の襲撃で重傷を負いながらも、父は、家の中に向かって叫んだ。


「逃げろ!」


 争う音は、さらに激しくなっていった。物音の合間に届く、「逃げろ!」と叫ぶ父の声。


 夕食の準備をしていた母と姉は、目を見開いていた。幼かった秀人も、同様に。驚き、顔を恐怖で歪ませ、慌てふためいた。不測の事態に冷静に対処できるほど、人間は機械的な生き物ではない。


 ただ、それでも。


 母と姉は、まず第一に、幼い秀人を守ろうとした。


 ――今になって冷静に考えれば、最悪の結末を避ける方法はあった。玄関とは真逆の方向にある窓から逃げ、近くにある民家を訪ね、通報する。そうすれば、少なくとも、母と姉はにはならずに済んだ。


 しかし、母と姉は、勇気ある女性達だった。恐怖と混乱の中でも、一番弱い家族を守ろうとする勇気。


 姉は秀人を抱きかかえ、洗濯機がある洗面所まで連れて行った。


 母は時間稼ぎをするために、リビングのドアの前に立ちはだかった。料理に使っていた包丁を持って。


「何だよお前。このオヤジの嫁か?」


 秀人の耳に、男の声が届いた。母が一人で残った、リビングの方から。


「メチャクチャ美人じゃん。このオヤジ、こんないい女とヤりまくってたのかよ?」

「なあ奥さん、俺達のガキも産んでくれよ」


 秀人の耳に届く、下品な言葉。下劣な声。品性の欠片も感じられない嘲笑。


 幼い秀人には、男達の言葉が何を意味するのか、理解できなかった。けれど、一つだけ分かっていた。男達は、秀人の母や姉も傷付けるつもりなのだ。小さな子供が、羽虫の羽を少しずつ引き千切るような残酷さで。


 洗面所に連れて行かれた秀人は、姉に、洗濯機に入れられた。狭い洗濯槽の中。


「いい、秀人。絶対に出てきたら駄目。お姉ちゃんとの約束」


 姉の目には、涙が浮かんでいた。恐怖と絶望の涙。それでも、あらん限りの勇気を振り絞って、秀人を守ろうとしていた。


「秀人までひどい目に遭ったら、私達は、もう生きていけないの。せめて、秀人だけは守りたいの。だから、約束して」

「お姉――」


 言うことだけ言って、姉は、洗濯槽の蓋を閉めた。秀人の返事も聞かずに。


 洗濯機の外から、カランという乾いた音が聞こえた。姉が、何か武器になる物を手にしたのだろうか。そういえば、洗濯機の近くには、洗濯物を干すための突っ張り棒を置いていた。


 秀人は耳が良かった。絶対音感を持っているのだが、このときは、そんな自分の能力など知らなかった。知能も高かった。小学校三年にして、中学生の勉強も理解できた。


 秀人が洗濯槽に閉じ込められて、間もなく。


 姉の絶叫が聞こえた。同時に、何かを叩き付ける音。姉が、突っ張り棒を振り下ろしたのだろうか。けれど、人間を殴った音ではなかった。


 男達の怒声が聞こえた。母と姉の悲鳴が聞こえた。一方で、父が痛めつけられる音も聞こえた。重く固い物で、人を殴る音。父の、苦悶の呻き声。


 母と姉の声の質は、唐突に変わった。男達の笑い声とともに。


「俺が最初にヤるぞ? いいよな?」

「ずりぃぞ! 俺にヤらせろよ!」

「じゃあ、俺は嫁とヤるわ! 歳食ってっけど、美人だし。大人の魅力ってやつかぁ?」

「俺、嫁の口使ってみてぇ。人妻のテクニックっての? 味わってみてぇし」

「ほらオッサン! 見てみろよ! てめぇが俺等を捕まえたせいで、嫁も娘もひでぇ目に遭うんだよ!」


 男達の声は五種類。五人いるのだ。たぶん、まだ若い声。彼等の言葉から、父に逮捕された少年達だと推測できた。捕まった仕返しをするために、襲撃してきたのだ。


 殴られ、痛めつけられながらも、父は必死に男達を止めようとした。やめてくれ、と。しかし、その声は、鈍い音とともに言葉にならなくなった。言葉にしようとしているが、言葉にならない声。男達に暴行され、顎を砕かれたのだ。


 同時に聞こえてくる、母と姉の悲鳴。苦悶の声。彼女達が何をされているのか、当時の秀人にはわからなかった。分かるのは、母も姉も苦しんでいること。悲しんでいること。尊厳をズタズタにされていること。


 母と姉が何度「やめて」と繰り返しても、男達は決してやめない。何度「許して」と繰り返しても、許してなんてくれない。


「次こそ俺な!」

「じゃあ俺は、今度は嫁の口を試してみるわ」

「俺は嫁とヤるからな!」

「くそ! 娘の初めてをヤれなかった!」

「なあ、娘が持ってきたこの棒、入れてみねぇ?」


 両親と姉は、間違いなく、この世の地獄を見ている。地獄の中で、苦悶している。


 秀人も地獄を見ていた。耳に入ってくる苦痛の声は、大好きな家族の声。聞こえる醜悪な言葉は、大切な家族を蹂躙する男達のもの。


 暗い洗濯槽の中で、秀人は、泣きながら体を震わせた。


 両親と姉を助けたい。彼女達のこんな声など、聞きたくない。彼女達に、辛い思いをさせたくない。


 知能の高い秀人は、理解していた。理解できてしまった。自分達家族の幸せは、今日この瞬間に終わってしまったのだ、と。たとえ命が助かったとしても、心の傷が癒えることはない。


 でも。たとえ癒えることのない傷を負ったとしても。その傷が少しでも浅いうちに、大好きな家族を助けたい。


 秀人の震える手は、無意識のうちに、洗濯槽の蓋に触れていた。ここから抜け出して、両親と姉を助けよう。逆恨みで襲撃してきた男達を、追い返してやろう。


 両親も姉も、心身に深い傷を負っただろう。それなら、自分が彼等を支えたい。たとえ今までと形は違っても、幸せな家族の日々を取り戻したい。


 ――俺が! お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも助けるんだ!


 心の中で絶叫し、秀人は、洗濯槽の蓋を押し開けようとした。


 しかし。


 蓋を開ける前に、姉の言葉が蘇ってきた。恐怖に震える彼女が、涙目で、勇気を振り絞って告げた言葉。


『いい、秀人。絶対に出てきたら駄目。お姉ちゃんとの約束』

『秀人までひどい目に遭ったら、私達は、もう生きていけないの。せめて、秀人だけは守りたいの。だから、約束して』


 秀人は唇を噛み締めた。


 分かっていた。自分が助けに入ったところで、両親や姉を助けられるはずがない。むしろ、自分が男達に痛めつけられることで、両親や姉の絶望を深めるだけだ。


 秀人はゆっくりと、洗濯槽の蓋から手を離した。泣きながら、両手で耳を塞いだ。目を閉じ、涙を流し、声を押し殺して泣いた。


 母と姉は、自分を犠牲にして秀人を守ろうとした。それならば、せめて秀人だけでも助からないといけない。それが、大好きな母と姉の望みなのだから。


 途切れることのない、母と姉の悲鳴。泣き叫び、許しを請う声。耳を塞いでも、秀人の頭に入ってくる。


 いつの間にか、父の声は聞こえなくなっていた。

 母と姉の声も、少しずつ小さくなっていった。


 悦楽と享楽にふける男達の笑い声だけが、その声量を失わなかった。


 秀人にとって、例えようもないほどの痛みを伴う、苦しみの時間。そんな時間が、どれくらい続いただろうか。


 尿意を堪え切れなかった秀人は、洗濯槽の中で粗相をした。同様に便意も我慢できず、漏らしていた。運よく、洗濯槽の外に臭いは漏れていないようだ。男達が、秀人の存在に気付く様子はない。


 男達の襲撃から、一日くらい経っただろうか。それとも二日か。あるいは三日か。


 自分の糞尿に浸りながら、秀人は、何度か意識を失っていた。それは、睡眠などという安らかなものではない。意識が鮮明になるほどの苦痛の中で、しかし、その苦痛に耐え切れずに意識を失う。そんなことを、何度か繰り返した。


 気が付くと、母と姉の声も聞こえなくなっていた。


「あーあ。これ、嫁も娘も、もう壊れてねぇ?」


 男の声が聞こえた。


「オッサンの方はどうよ?」

「あー。くたばってるわ。なんか臭ぇと思ったら、糞と小便漏らしてやがる」

「うわ。だせぇ」

「まあ、俺等捕まえたバチが当たったんじゃね? 恐喝カツアゲくらいでよぉ」


 ゲラゲラと、下品な笑い声が聞こえた。


「なあ、オバサン、起きろよ。お前の旦那、死んだぞ」


 パチンッと、乾いた音が聞こえた。男の一人が、母を叩いたのだろう。直後、か細く消えそうな母の声が聞こえた。


 もう殺して、と。


「駄目だわ、この嫁。もう楽しめそうもないわ」

「娘の方はどうよ?」

「なんか、訳の分からないことブツブツ言ってるわ。こっちも駄目だな」

「何て言ってるんだ?」

「んーと、な。なんか、ヒデト、とか言っている。彼氏か?」

「でも、処女だったぞ」

「彼氏君、ごめんなぁ。彼女、俺等が先に食っちゃいましたー」


 また、奴等が笑った。


 一通り笑うと、男の一人が少し困ったように言った。


「なあ、どうする? こいつら」

「殺せばいいんじゃね? もし生かして正気にでも戻られたら、面倒だろ?」


 ブルッと、秀人の体が震えた。


 父が殺された。母と姉も、これから殺される。

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