第十一話② こんな国は滅んでしまえばいい(後編)


 ――助けて!


 嫌だ。助けて。誰か助けて。


 どうしようもない心の痛みに、秀人は声を上げそうになった。姉との約束を思い出して、慌てて口を塞いだ。お父さん。お母さん。お姉ちゃん。大好きな家族を、心の中で呼び続けた。でも彼等は、もう応えてくれない。


「でもよぉ、本当に大丈夫か?」


 先ほどまでとは様子の違う、少し心配そうな男の声。


「ここまでやっておいて何だけどよ。本当に握り潰せるんだよな?」


 別の男が、鼻で笑った。


「大丈夫だよ。俺の親父、大物中の大物だから。詳しいことは言えないけど、心配すんなって」


 確信を持った男の様子が、秀人にも伝わってきた。


「んじゃ、さっさとって帰るか。散々ヤッて、もう飽きたし」

「お前、何発ヤッた?」

「嫁で六発、娘で三発」

「勝った。俺、嫁で三発、娘で八発」

「俺等、絶倫じゃね?」


 笑い声。少し前の心配そうな様子など微塵も感じさせない、下劣な声。


「なあ、どうやって殺る?」

「こいつ等が着てた服の袖で、締めりゃいいじゃん。俺、腹減ったわ。帰りにラーメンでも食ってこ」

「りょーかい」

「じゃあ、俺は娘の方を殺るわ。気持ちよくしてくれたお礼に、優しく首絞めまーす」


 笑い声。


 ゴソゴソと音がした。数分もしないうちに、また男達が話し始めた。


「うわー。人間って、首絞めて殺ると小便漏らすのな」

「嫁の方は糞も漏らしてんぞ」

「げ。性欲失せるわぁ」

「とっとと行くか。ここ、臭ぇし」

「だな」


 五人分の足音が聞こえた。ドアが閉まる音が聞こえた。男達が、家から出て行ったのだ。


 それでも秀人は、しばらくの間、洗濯槽の中に隠れていた。男達が、忘れ物でもして戻ってくるかも知れない。もし見つかったら、秀人も殺される。姉との約束を破ることになる。だから耐えた。


 頭の中で数をかぞえた。一分は六十秒。一時間は六十分――三六〇〇秒。一時間経っても男達が戻ってこなければ、もう大丈夫だろう。


 秀人は、ゆっくりと数字を重ねていった。涙は、もう枯れていた。涙の通り道となっていた頬が、少しヒリヒリする。


 三六〇〇秒数えて、秀人は、洗濯槽の蓋を開けた。今は昼なのだろう。突然明るくなって、秀人は目を細めた。目をパチパチとさせながら、洗濯槽から這い出た。


 久し振りに両足で立つと、少しフラついた。空腹のせいだろうか。でも、空腹感はなかった。


 リビングに足を運んで。

 かつて家族団らんの場だった、その場所を見て。


 秀人は目を見開いた。


 今までは耳だけで聞き取っていた、地獄。

 今は、目の前に地獄が広がっていた。


 父は、硬い物で何度も殴打されたのだろう。顔が判別できないくらいに腫れ上がり、変形していた。それだけではなく、腕も足も、本来は曲がるはずのない方向に曲がっていた。


 母と姉は全裸だった。父と違い、顔は綺麗なままだった。少し腫れているくらいか。反面、体には、ミミズ腫れのような痕や、煙草の火を押し当てられた痕があった。所々に痣もある。綺麗な彼女達の顔には、涙と鼻水の跡があった。


 三人とも、もう動かなかった。

 三人とも、体温を失い始めていた。


「お姉ちゃん」


 涙声が出た。


「お母さん」


 大好きな家族。


「お父さん」


 両親も姉も、もう応えてくれない。笑いかけてくれない。話してくれない。撫でてくれない。抱き締めてくれない。呼んでくれない。手を握ってくれない。愛してもらえない。


 もう、何もしてもらえない。


 枯れたと思っていた涙が、再び、秀人の頬を伝った。幼いながらも整った秀人の顔が、涙でグシャグシャに濡れた。


 本当は泣き崩れたかった。膝をついて泣き叫び、両親や姉に縋りたかった。


 しかし、八歳にしては優れ過ぎている秀人の知能は、それを許さなかった。


 泣き叫んだところで、両親も姉も生き返らない。幸せな日々は、もう二度と戻ってこない。


 それならば、自分はどうするべきか。


 父は、襲撃を受けた直後に、傷つきながらも「逃げろ」と叫んでくれた。


 母は、姉と秀人を守るために、包丁を持って立ちはだかった。


 姉は、秀人だけでも守ろうと、洗濯槽に閉じ込めた。


 自分だけが生き残った。自分だけが、守られた。


 秀人は自問した。今の自分に、何ができるか。何をすべきか。


 答えはすぐに出た。


 固定電話の受話器を手に取った。電話を掛けた。110番。


 警察が来て、すぐに秀人は保護された。


 秀人には、両親と姉以外に家族はいなかった。父方の祖父母は、すでに亡くなっている。母方の祖父も亡くなっており、祖母は認知症で施設に入っていた。必然的に、児童養護施設に入ることになった。


 警察官宅襲撃事件。秀人の家族が殺された事件は、瞬く間に話題になった。犯人達もすぐに捕まった。未成年の男が。実名は報道されなかった。


 ニュースを見たとき、秀人は首を傾げた。逮捕されたのが、四人。けれど、あのとき秀人が聞いていた声は、五種類あった。犯人は五人のはずだ。


 幼い秀人は警察に行き、犯人の数がおかしいことを訴えた。だが、警察に受け入れられることはなかった。


「きっと、あまりに恐くて、君も混乱していたんだよ」


 秀人を慰める警察官は、どこか気まずそうだった。


 犯人の少年達が逮捕された後。秀人にとって、さらに衝撃的な報道がされた。四人の少年が、いずれも、留置所で自殺したというのだ。その理由も、信じがたいものだった。


 犯人の少年達は、秀人の父に誤認逮捕された。無実の罪で、あらゆるものを失った。だから、復讐のために、秀人の家を襲撃した。目的を達成したから、もう生きている理由はない。そんな言葉を残し、彼等は命を断ったという。


 ――そんなはずがない!


 あまりに滅茶苦茶な報道に、秀人は震えた。洗濯槽の中で、秀人は確かに聞いていた。犯人達の言葉を。


『まあ、俺等捕まえたバチが当たったんじゃね? 恐喝カツアゲくらいでよぉ』


 決して誤認逮捕などではない。


 それなのに警察側は、父の誤認逮捕をあっさりと認めた。報道陣の前で、頭を下げていた。


 世間は、秀人の家族を襲撃した少年達よりも、誤認逮捕したという父を責め立てた。家族も同罪だと言って、母や姉も批難していた。


 こんな家族は殺されても仕方がない、と。少年達は人生を狂わされ、自殺までしたのだから、と。


 ――違う!


「お父さんは、間違って逮捕なんてしていない! 犯人も四人じゃない! こんなの、間違ってる!」


 秀人の言葉は、誰にも受け入れて貰えなかった。むしろ、正しいことを言う秀人を、蔑み、軽蔑するようになった。秀人を引き取った児童養護施設の者達さえも。


 秀人は、児童養護施設で虐待を受けるようになった。職員や施設内の子供達から、暴力を振るわれた。嘘をついた罰と言って。虐待が明るみにならないよう、顔だけは傷付けられずに。


 許せなかった。


 この気持ちが怒りなのか、悔しさなのか、惨めさなのか。あるいは、その全てか。自分の感情の正体は、明確には分からない。


 ただ、許せない。


 許せないから、知りたかった。どうして、父の行為が誤認逮捕だとされたのか。どうして、犯人は四人なのか。


 知りたかったから、秀人は、警察官になると決めた。警察内部に入り、事実を突き止めるために。


 秀人は、わずか八歳にして幸せを奪われた。もしこの世に神様がいるのなら、自分は神様に嫌われているんだ。警察学校に入るまでは、そんなことを思いながら生きていた。


 けれど、秀人は、神様に嫌われてなどいなかった。少なくとも秀人自身には、あらゆるものが与えられていた。母や姉に似た、誰もが振り返るほどの美貌。絶対音感。優れた運動能力と身体能力。IQにすると一四八もの知能。


 そして、一億人に一人とも言われる、内部型と外部型双方のクロマチン素養。


 警察学校を出て、SCPT隊員としての訓練も修了した秀人は、特別課に配属された。時折、警備部のSATからの応援要請も受けながら、着実に実績を上げていった。


 同時に、内密に、家族が殺された事件についても調査した。


 警察機関における捜査資料の保存期間は、原則として五年間。刑事警察資料などの保存期間は十年。だが、一部特定の事件資料は、法的な要件や証拠保全の観点から、保管機関を経過しても保存されることがある。


 秀人の家が襲撃された事件の資料は、残されていた。


 だが、記載されている記録は、秀人の想定とは異なるものだった。つまり、報道された通りの内容。犯人は四人の少年。動機は、誤認逮捕されたことに対する復讐。


 資料を見たとき、秀人は額を押さえた。自分の記憶力にも聴力にも、絶対の自信がある。何より、自分はあの場にいたのだ。あの地獄に。後から現場に来て、現場に残った証拠から犯人を逮捕した警察よりも、正しい情報を持っているはずだ。


 ――証拠?


 ふいに、秀人の頭に疑問が浮かんだ。犯人達は、意外なほど簡単に逮捕された。つまり、犯人を特定する証拠が、事件現場には山ほど残っていたのだ。もちろん、犯人が五人いるという証拠もあったはずだ。


 体液や指紋などの痕跡もあっただろう。犯人の人数分だけ。痕跡が五種類あるのに、どうして、警察側は犯人を四人としたのか。なぜ、五人目を追わないのか。


 秀人の疑問は、猜疑心へと変わった。事件を直接調べた地方警察ではなく、もっと中枢を調べるべきだと判断した。


 秀人は長期休暇を取り、警察庁へと向かった。とはいえ、もちろん、馬鹿正直に訪ねたりはしない。もし秘匿している情報があるなら、忍び込み、極秘に調査する必要がある。


 リスクを承知で、秀人は、警察庁へ忍び込んだ。


 事実は、そこにあった。秀人の一家を――大切な家族を殺した、犯人の正体。


 事実を知ったとき、大声で笑いそうになった。もちろん、面白かったわけではない。口は笑みを型取りながら、目からは涙が溢れていた。怒りや悔しさが限界点を突破して、笑うしかなかったのだ。


 事実は、秀人が想像していたよりも単純で、簡単だった。単純で、簡単で、残酷だった。


 警察は、犯罪者を逮捕し、治安を守る行政機関だ。


 そんな警察は、さらに強い権力を持つ行政機関の圧力により、事実を捻じ曲げていた。醜く汚らわしく、秀人の家族を貶めた。


 秀人の心から消えることのない、あの日の地獄。何年経っても、薄れることなどない。癒されることもない。炎のような熱を持つ鎖となって、秀人を縛り続けている。


 心を縛り続ける、怨嗟えんさの鎖。


 秀人の家族を地獄に堕とした犯人。この国は、そんな犯人を守っていた。正義を謳う国の機関を――警察を従えて。


 それなら、自分は何をすべきだ?

 腐り切った正義がまかり通るこの国で、どう生きるべきだ?


 答えは簡単に出た。

 他に選択肢などなかった。


 この国を転覆させる。こんな国など、滅びてしまえばいい。


 秀人はすぐに行動を開始した。失踪し、目的のために突き進んだ。暴力団事務所を襲撃し、さらに上層の組織にコンタクトを取った。海外マフィアとも繋がりを持った。外国語を勉強して自ら交渉を行えるようにし、並行して、クロマチン能力に磨きをかけた。


 愛しい者達を奪ったこの国に、復讐するために。


 この国の人間は、国が流した偽りの情報に踊らされ、秀人の家族を批難した。残酷で凄惨な最後を迎えた、秀人の家族を。それなら、この国の人間は、国もろとも沈めてやる。


 ――苦痛と恐怖と絶望の中に沈めてやる。父さんや母さんや、姉さんと同じように。


 にゃーという鳴き声で、秀人の意識は現在に戻った。白猫のミルクが、夢中になって秀人に甘えていた。他の四匹も、負けじと甘えてくる。


「大丈夫だよ」


 優しく、秀人は声をかけた。


「この国がどうなろうと、お前達は俺が守るから」


 今の自分なら、大切なものを守れる。昔とは違う。


「でも、近い将来、別の国に移住することになるかもだけど」


 無邪気に甘える猫達に、優しく触れる。


「今度こそ、俺が守るから」


 失踪し、特別課から姿を消して六年。自分の障害になりそうな者達のことも、調べ尽くしていた。その中には、かつての後輩もいた。


 素質に恵まれている後輩だった。努力も惜しまない子だった。現在、彼女に関して、気になる情報も得ている。秀人が起こさせた事件の現場で、ことごとく犯人を殺しているという情報。


 その後輩のことを――咲花のことを、現在のことだけではなく、過去についても調べた。


 彼女の姉は、全国的に有名な事件の被害者だった。美人女性監禁虐殺事件。事件の犯人は、全員が当時未成年であり、犯行の残虐性に見合わない判決が下された。主犯ですら懲役二十年。主犯以外は、もう全員出所している。


 咲花が凶悪事件の犯人を殺すようになったのは、二年ほど前からだ。おそらく彼女は、姉が殺された事件の真相を知り、犯人殺害に走るようになったのだろう。


 秀人とは経緯も内容も違うが、同じように、大切な人を理不尽に奪われた被害者遺族。


 咲花の行動が物語っている。彼女は、この国の司法に絶望しているのだ。秀人が、この国そのものに絶望しているように。


 猫達を撫でながら、秀人は考えた。


 咲花なら、仲間にしたい。


 同じ痛みを知る友人として。似たような絶望を持つ仲間として。怨嗟の炎を心に宿す、共感者として。


 捨て駒として利用しているクズ共とは違う。隣りに並び、あるいは背中を任せられる相棒。咲花が、そんな存在となってくれたなら。


 ――そうしたら、もしかしたら……。


 心の中で漏れた呟きに、秀人は苦笑した。ひたすら甘えてくる猫達に、語りかけた。


「もし人間が一人増えたら、そいつとも仲良くしてくれるか?」


 秀人の真意を知ってか知らずか、猫達は、甘え続けていた。


 かつての秀人が、大好きな両親や姉に甘えていたように。

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