第八話 殺し続けるために別れた
市街地から離れた場所にある、安っぽいラブホテル。
古いホテルに似合わない、綺麗なキングサイズのベッド。
かなり古い、小型の冷蔵庫。
常備灯のみ点けられた、薄暗い部屋。
壁際には、赤い合皮のソファー。二人分の服と鞄が投げ捨てられている。
咲花と川井は、ベッドの上にいた。
川井は、仰向けになって天井を見ている。
咲花は、彼に背を向けて横になっていた。
少しだけ、互いの肌が触れ合っていた。
ゴミ箱に捨てられた、使用済みの避妊具。
川井の肌は、汗で少し濡れている。
咲花は、ベッドの上で上半身を起こした。三年振りにセックスをしたせいか、少し体がだるい。けれど、決して嫌なだるさじゃない。
口から、大きな溜め息が漏れた。
咲花は自覚していた。今の時間に心地好さを感じていた、と。幸せな未来を見ていた三年前に、未練があると。でも、幸せを受け入れるのも辛い。幸せになりたくない。
「咲花」
ベッドのシーツが、少し動いた。川井も上半身を起こした。後ろから抱き締められた。背中に感じる、温かさ。再びベッドに沈み込みたくなるような、温かさ。
自分の欲求を、咲花は振り払った。自分を抱き締めている、川井の両腕と共に。
「私がセックスできることは、もう分かったよね? それなら、もういいでしょ?」
ベッドから降りた。脱ぎ散らかした服を集める。
「なあ、咲花」
「何?」
集めた下着を身につけながら、会話を続ける。
「俺達、やり直せないのか?」
「無理」
「どうしてだ?」
「セックスはできるけど、したいとは思わない。子供も欲しいとは思わない。誰かと結婚したいとも思わない。だから」
「俺は、咲花となら、セックスしなくても、子供がいなくてもいいんだけどな」
「何枯れ果てたこと言ってるの」
服を着込みながら、咲花は、川井に笑みを向けた。呆れた顔で、鼻で笑うことを意識した。上手にできたかは分からないが。
「あんたは優秀だし、出世もしてるし、私以外に女なんて見つけられるでしょ? いい人と結婚して、子供でも作って、普通に幸せになったら?」
「俺は咲花がいいし、今から誰かを探すなんて無理だよ。もう三十七だしな」
「今のご時世で何言ってるの。晩婚なんて珍しくないし、四十過ぎて子供を作る人だっているんだから」
「駄目なのか?」
「駄目。無理」
川井の言葉に、流されそうになる。それでも咲花は、彼を冷たく突き放した。
幸せになりたくない。幸せになってはいけない。
幸せになろうとしていた自分が、許せないから。
咲花は、六歳のときに両親を亡くした。事故だった。残された家族は、十二歳年上の姉だけだった。
姉は、決まっていた大学進学を諦め、高校卒業と同時に働き始めた。咲花を施設に入れるなんて発想は、彼女にはなかった。たった二人の家族なんだから、と。咲花を育てるために、必死に働いてくれた。咲花の運動会や参観日のときは、必ず来てくれた。誕生日には、大きなケーキとプレゼントを用意してくれた。
高校を卒業したばかりの姉が咲花を養うのは、決して楽ではなかったはずだ。仕事をいくつも掛け持ちしていた。疲れが溜まり過ぎて、食事のときに居眠りしている姿も見たことがある。
それでも姉は、優しく、必要に応じて厳しく、咲花を育ててくれた。彼女は、咲花にとって姉であると同時に、母親であり父親でもあった。美人でしっかりしていて、自慢の姉だった。
大好きな姉だった。
そんな姉が行方不明になったのは、咲花が十歳の夏休みの頃だった。
夏休みが始まってから二日目の夜。姉は、帰って来なかった。姉の携帯電話に連絡してみたが、出なかった。
姉が帰って来なくなって五日目。家の冷蔵庫の中味も食べ尽くしてしまった頃。咲花は近所の派出所に行って、姉が行方不明だということを伝えた。
今にして思えば、派出所の警察官の対応は、あまりにおざなりだった。子供を適当にあしらうように、姉を探すと咲花に伝えた。家でお姉さんを待っていて、と。
咲花は素直に家に帰り、姉の帰りを待った。食べ物がないから、残った調味料だけ口にして飢えを凌いだ。ひどく喉が渇いて、水をガブ飲みした。栄養が足りなくて、どんどん痩せて。夏休みが終盤になる頃には、少し歩くだけでも息切れするようになり。
いつの間にか、意識を失って。
気が付くと、病院のベッドにいた。
そこで初めて、姉が殺されたことを知った。
『お姉さんはね、運が悪かったの』
大人達に姉のことを聞くと、みんな、口を揃えてそう言っていた。
でも、事実は、「運が悪かった」の一言で片付けられるようなものではなかった。
大人になって。警察官になって。
探し出して見た、姉が殺された事件の捜査資料。現場の写真。犯人達の供述調書。そこに記されていたのは、ただの殺人事件の内容ではなかった。
目を背けたくなるほど、残酷な光景。でも、目を見開いて動けなくなってしまうほど、凄惨な姉の姿。
コンクリート詰めで発見された、姉の遺体。
かつて美しかった姉は、見る影もなかった。顔は全体的に倍以上腫れ上がり、鼻は折られて大きく曲がっていた。瞼は野球ボールのように腫れ、最後には、目が見えない状態だったと思われる。前歯は全てなくなり、唇は、ズタズタに切れていた。
生前の面影がなかったのは、顔だけではない。
体中に、打撲痕や火傷の痕があった。火傷は、煙草の火を何十カ所も押し当てられたものだ。特に損傷がひどかったのは、性器と肛門だった。犯人達は、姉の性器や肛門を灰皿代わりに使い、ときにライターの火を直接当て、筆舌に尽くしがたい苦痛を与えていた。
体の所々に、コンクリートの粒が付着していた。
供述にある、犯行の動機。
犯人達は、最初は、単なる強姦目的で姉を拉致した。
最終的に逮捕され、後に刑事罰が下されたのは四人。姉が連れ込まれたのは、犯人の一人の家。
四人は、連日、代わる代わる姉を犯した。延々と続く行為に姉が失神すると、水を掛けて目を覚まさせた。
拉致から十日後。
姉は、犯人達の隙を見て逃げ出そうとした。裸のまま、家を抜け出そうとした。服など着ている余裕はなかったのだろう。姉には、守るべき者がいたから。
咲花のところに帰らなければならなかったから。
しかし、犯人の一人に見つかってしまった。
犯人達は、逃げようとした姉に対し、的外れな怒りを覚えた。
結果、壮絶なリンチに晒された。
リンチの最中、犯人達は、集団性の狂気を発揮した。ある者がひどい暴行を加えたら、別の者は、さらにひどい暴行を加える。暴行の内容が尽きたら、次は、わざと姉に服を着せ、踊りながらストリップをさせて辱める。
姉の怪我がひどいものになり、性的興味が失せると、犯人達の暴行はさらに加速した。
肉体的、精神的に、姉は限界を超えて追い詰められた。
監禁部屋の壁には、姉の血痕が点々と付着していた。火傷が化膿し、膿が出て異臭を発すると、犯人達は理不尽に姉を責め、痛めつけた。
そんな、現代どころか中世ですら稀に見る、残酷な拷問。そんな日々が、約一ヶ月。
人生最後の一ヶ月で、姉は、何度も「殺して」と言ったという。
人生最後の一ヶ月で、姉は、涙すら出せなくなったという。
人生最後の一ヶ月で、姉の綺麗な髪の毛は、あまりのストレスから全て抜け落ちたという。
人生最後の一ヶ月で、姉は、精神に異常をきたしたという。
事件後の司法解剖にて、姉の脳が萎縮していたことが判明した。表現の方法がないほど凄惨な暴行と、それによる恐怖によって。
さらに、姉が妊娠していることも確認された。拉致当初に何度も繰り返された、強姦によって。当然、腹の中の赤ん坊は、生きてはいなかったが。
筆舌に尽くし難い犯行。人のものとは思えない所業。
この事件によって逮捕されたのは、四人。
四人の少年――未成年だった。
最初に家庭裁判所に送られた少年達は、事件の性質と残虐性から、刑事裁判が相当とみなされた。少年審判が不適切と断言されるほどの残虐性。
しかし、どれほど残虐性を謳っても、未成年の彼等には、罪に見合う罰は下らなかった。
主犯格の少年には、懲役二十年。
準主犯格の少年には、懲役十五年。
他二人に関しては、懲役五年から十年の不定期刑。
主犯格の元少年以外は、もう出所している。姉に耐えがたい屈辱を与え、目も覆うような苦痛を味合わせ、その下劣な思考で思い浮ぶ限りの拷問を行い、地獄に叩き落とした奴等が。
裁判員制度が導入されたことで、凶悪犯罪について、一般の意見も取り入れた判決が下るようになった。その事実に異論はない。しかし、法律の素人である裁判員は、どうしても、専門家である裁判官に誘導される。犯人を庇う人権派弁護士の意見を、耳に入れることになる。過去の最高裁判所の判例に縛られている。永山基準は未だ健在だ。
被害者遺族は、大切な人を失った悲しみや苦しみを抱えながら、一生を過ごすことになるのに。
加害者がこの世にいるだけで、事件に区切りを付けることさえできないのに。
姉の最後と、犯人達に下った判決を知ったとき。
咲花は、何も知らなかった自分を恥じた。
姉がどんな気持ちでこの世を去ったのか、知らなかった。何も知らず、自分だけ幸せになろうとしていた。姉の墓前で「幸せになるね。ありがとう」なんてほざいていた。
姉は――大好きな姉は、あんな最後を迎えたのに!
姉が、単なる殺人事件の被害者だと思っていた頃。咲花は、警察官を志した。人々を守れる人間になろう、と。優しい姉なら、きっと、そんな咲花を応援してくれると思って。
けれど、守るだけじゃ駄目なんだ。下劣な人間を捕まえるだけじゃ、駄目なんだ。
獣にも劣る、凶悪な犯罪者達。奴等は、死ぬべきだ。
だから殺す。
全ての被害者遺族の、せめてもの慰めになるように。自分のように心が焼き尽くされる人が、一人でも減るように。
幸運と言うべきか。咲花は、成すべきことのために必要な力にも恵まれた。約一〇〇人に一人しか持ち得ない素養。圧倒的な力。
でも、自分は、自分のためには殺さない。
姉は、咲花が復讐に走ることなど望まないだろう。だから、姉を殺した犯人も追わない。犯人達の動向を知ろうとも思わない。
被害者に寄り添うために戦おう。理不尽な犯行を許さないように。罪と罰の天秤を、水平にするために。
咲花が、自分自身に誓った決意。
決意を実現するためには、下準備が必要だった。犯人を殺しても問題にならないようにするための、下準備。
まずは川井と別れた。咲花にとって、幸せの象徴だった彼。幸せになる資格などないから、もう一緒にはいられない。
犯人を殺してもSCPT隊員を続けるためには、犯人殺害を揉み消す必要がある。
あらゆる手段を使って、警察内部の事情を探った。警察機関の中でも、上層にいる人物を懐に入れるために。
一般的な調査だけではなく、違法な調査にも手を出した。結婚のために貯めていた金を、底が尽きるまで使った。貯金だけでは足りず、二千万近い借金もした。
約一年かけて、徹底的に調べ上げた。
当初の咲花の想定としては、警視正クラスの人間を取り込めれば成功だと考えていた。しかし、予想以上の大物が釣れた。
警視庁長官。全国の警察組織を統轄する、最高責任者。彼自身と、さらに彼の息子が、児童買春に手を染めていた。
咲花は徹底的に証拠を集め、デジタル化してあらゆるクラウドに保存し、紙媒体としても大量に収集した。
警視庁長官と歪んだ繋がりを得た咲花は、免罪符を手に入れた。罪に対して、罰を与えられる権利。畜生にも劣るゴミを駆逐する免罪符。
同時に、クロマチン能力者に関する秘密も知った。国外に漏らすことができない秘密。
その秘密も、免罪符の一部にした。
だが、この免罪符は、自身の命を危険に晒す可能性がある。それだけではなく、自身と親しい人物の命すら危険に晒す可能性がある。
もっとも、川井と別れた咲花には、大切な人などいない。
姉が受けた凄惨な性的暴行と、彼女の妊娠を知ったとき。性に対して、嫌悪感を覚えた。当時は、川井とセックスをしたときに嘔吐してしまった。
それでも川井は、咲花との結婚を望んでいた。
咲花は、性的嫌悪を建前上の理由として、川井と別れた。
幸せを捨てて、人面獣心の者を殺す道へと踏み込んだ。
一度踏み込んだ道から抜け出すつもりはない。
これからも、この道を進み続ける。
川井と触れ合うことに、未練があっても。彼と離れることに、痛みを感じても。
咲花が服を着終えたとき、川井は、まだ裸だった。名残惜しそうに、咲花を見つめていた。
夫婦間の性的交渉や自分達の子供を諦めてでも、咲花との結婚を望んだ川井。彼はそれほど、咲花を愛してくれていたのだろう。たとえそれが、その瞬間だけの熱情だとしても。
咲花に、彼の気持ちを受け入れるつもりはない。大きな幸せが得られると分かっているからこそ。
「……着替えないの?」
まだ裸の川井に、聞いてみた。
「もう行くのか?」
川井は、名残惜しさが見て取れる顔をしていた。
「もうセックスはしたからね。あなたがまだここにいるなら、私は一人で帰るけど」
「……」
川井は少しだけ目を伏せて、小さく息をついた。再び顔を上げて、寂しそうに笑った。
「分かった。送っていくよ。服着るから、少し待っててくれ」
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