第七話 別れの事実


 特別課の仕事は、武力犯罪の鎮圧や訓練だけではない。街のパトロールや、状況によっては緊急時の人命救助なども行う。必要に応じて、通常の事件の捜査にも同行する。


 もちろん、行った仕事の報告書も作成する。また、仕事に関するものだけではなく、実戦訓練に関する報告書も作成する必要がある。


 時刻は午後六時。


 実戦訓練で、亜紀斗と戦った後。

 咲花は報告書の作成を終え、特別課を出た。


 訓練後、亜紀斗は、医務室から病院に直行したという。肋骨にヒビが入っていたそうだ。


 手加減せずに撃ったのに、ヒビ程度で済んだのか。複雑骨折か粉砕骨折くらいの怪我をさせるつもりだったのに。


 想像以上の亜紀斗の能力に、咲花は舌打ちしたい気分だった。


 ――人の悪意も残酷さも理解してない、甘ったれのくせに。


 亜紀斗に対して、咲花は、表現しようのない苛立ちを感じていた。もっともそれは、犯人殺害をとがめられたからではない。


 亜紀斗は、「更生」や「償い」という言葉を、心の底から信じている。自分自身が体験したかのように。彼の目や態度を見ていれば、それがよく分かる。


 しかし、咲花は信じることができない。信じてもいけない。亜紀斗の理想を信じてしまったら、自分の心にある苦しみを、全て否定することになる。怒りも、悲しみも、悔しさも。


 それだけではない。亜紀斗の理想は、全ての犯罪被害者やその遺族にも、抱えようのない怒りや苦しみ、悲しみを与えるものだ。


 だからこそ咲花は、今日の訓練で、本気で亜紀斗を潰すつもりだった。夢物語のような理想を掲げる男。物語のような理想を、咲花だけではなく、被害者や、被害者遺族に押し付ける男。


 ――私達の気持ちなんか、分からないくせに。


 大切なものを、理不尽に奪われたわけでもないのに。


 亜紀斗の一挙一動が、しゃくさわった。


 世の中には、痛みも知らないくせに綺麗事を唱える者達がいる。死刑回避のためだけに、詭弁とも言える弁論を口にする弁護士もいる。


 咲花は、亜紀斗のことを、そんな奴等と同類だと思っていた。口先では好き勝手言いながら、自分が被害者になると意見を変える愚か者。他人の痛みを想像できない、腐れた脳ミソの持ち主。


 だけど、違った。


 亜紀斗は肋骨を折られながらも、咲花に立ち向かってきた。打ちのめされても、信念を貫こうとした。クロマチンを発動できないほどの呼吸困難と痛みに襲われながら、それでも拳を振るってきた。その拳に、自分の信念を込めるように。


 だから、気に食わない。だから、苛立つ。


 特別課を出て、エレベーターまで足を運んだ。下向きのボタンを押した。


 咲花には、これといった趣味はない。人生で何かを楽しむつもりなど、ありはしない。これから一生、今のように生き続ける。可能な限り殺し続ける。


 何も知らずに幸せになろうとしていた自分を、許せないから。


「咲花」


 エレベーターを待っていると、後ろから声を掛けられた。

 振り向く。見知った顔があった。


「ああ。お疲れ様です、川井さん」


 捜査一課の、川井かわい亮哉りょうやだった。咲花より十歳年上の三十七歳。短髪に、やや鋭い目付き。他の刑事と同じように、若干近寄り難い雰囲気をかもし出している。しかし、咲花は知っている。彼はどこまでも誠実で、真面目な男だ。何より、愛情深い。


 川井は、咲花に苦笑を向けた。


「相変わらず他人行儀なんだな」

「他人ですから」

「まあ、今はそうかも知れないけど。とりあえず、敬語はやめてくれないか?」

「嫌です。TPOくらいはわきまえましょう」

「じゃあ、いつなら敬語をやめてくれるんだ?」

「……」


 咲花は答えなかった。ただ、目を逸らしたかった。川井から――幸せになろうとしていた、昔の自分から。


 川井は少しだけ溜め息をついた。


「もう仕事は終わったのか?」

「ええ」

「じゃあ、もう業後だよな。それでも敬語は必要か?」

「まだ職場ですから」

「少し話をしたいんだけどな。できれば、家まで送らせてくれないか?」


 川井は、車のキーを手にして咲花に見せてきた。


 咲花の心が、少しだけ波打った。かすかに口を開いた。「嫌です」という言葉を、喉から絞り出そうとした。


 でも、できなかった。


 エレベーターが十六階に着いた。川井と一緒に乗り込む。彼が、一階のボタンと「閉じる」のボタンを押した。途中で、他の階の警察官も乗り込んできた。何度か途中で止まってから、一階に着いた。


 川井と一緒に、エレベーターから降りた。


 咲花の胸は、ザワついていた。苛立ちにも似た感覚。川井の誘いを拒みたくて。でも、受け入れたくて。受け入れたい自分が、許せなくて。


「ここから一番近い駐車場に停めてるから」

「そうですか」

「じゃあ、行こうか」


 こくりと、咲花は唾を飲み込んだ。


「はい」


 川井と一緒に、並んで歩く。まだ午後六時過ぎなので、暗くなっていない。


 咲花より十五センチほど背が高い彼。隣りに顔を向けると、彼の肩が見えた。見覚えのあるスーツ。彼が好んでよく着ていたスーツ。


 幸せだった、昔の思い出。何も知らなかった頃の思い出。


 すぐに駐車場に着いた。


 川井は、三年前と同じ車に乗っていた。咲花は車には疎いので、車種までは分からない。車は、ナンバープレートで判別するものだと思っている。


 川井が、車の鍵を開けた。


「じゃあ、乗って」

「はい」


 三年ぶりに、咲花は川井の車に乗った。懐かしい、助手席のシートの感触。


 彼も運転席に乗り込んだ。エンジンを掛ける。

 車が動き出し、駐車場から出た。


 一、二分ほど車を走らせた頃。川井が、聞いてきた。


「まだ昔の家に住んでるのか?」

「はい。同じところに住んでます」


 川井は苦笑した。


「もう業後だし、職場でもないんだけどな。そろそろ、敬語はやめてもいいんじゃないか?」

「……」


 他人行儀に敬語を使う言い訳が、見つからなかった。咲花は、どうにか敬語で話そうとして、少しだけ唇を動かして、言葉が出なくて、口を閉じた。


 自分でも分かっていた。敬語を使う言い訳が見つからないのではない。見つけたくないのだ。


 三年前は、時間が許す限り、こうして川井と会っていた。結婚の約束をしていた。咲花にはもう家族がいなかったから、彼の家族にだけ挨拶に行った。彼の家族は穏やかな人達で、咲花を優しく迎えてくれた。


 二人で、一緒に住む家を探した。いつかは家を購入して、子供も作って、幸せに暮らしたい。そんな未来図を、二人で描いていた。


 三年前に別れを切り出したのは、咲花だった。自分は、幸せになってはいけないから。


 幸せな妻になる資格。幸せな環境で子供を産み、幸せな環境で育てる資格。幸せな母親になる資格。幸せに生きる資格。全ての資格を、放棄した。


「そういえば、話題になってたよ」


 咲花の思考を遮るように、川井が口を開いた。


「何が?」


 川井の言う通り、咲花は敬語をやめた。ただし、親しみのある口調ではない。意図的に、突き放すように話した。


 運転席で、川井は眉をハの字にしていた。困っているような、いたずらっ子を見ているような。そんな表情。


「江別署から移動してきたSCPT隊員の人と、訓練で戦ったんだろ。確か、佐川君、だったっけ?」

「そうだけど。なんで、そんなことが話題になってるの?」


「佐川君、割と有名なんだけどな。知らないのか?」

「知らない。何で有名なの?」


「江別署で、かなり有能だったらしい。能力もだけど、武力犯罪の場で、犯人を傷付けずに説得して確保したことがあるそうだ。一回や二回じゃなく、何度も」

「へえ。無傷で、ねぇ」


「ああ。だから、藤山隊長なんかは、佐川君の異動が決まって、かなり期待してたらしいな」

「そう。で、佐川が期待されてることと今日の訓練が話題になるのと、何の関係があるの? 私が、期待の隊員君を潰そうとしたとでも言われてるの?」


「そんな感じじゃないけどな。ウチの課の奴が実際に見たわけじゃないけど、咲花も佐川君も、かなり本気だったらしい、って。佐川君は病院に直行にしたみたいだしな」

「あいつはどうだか知らないけど、私は、別に本気でもなかったけど? ただ、理想ばっかり見てる甘ちゃんに、少しムカついてたけど」


 嘘である。咲花も本気だった。一度は懐に入られ、危機に陥った。亜紀斗のパンチを防いだ右腕は、赤く腫れている。挑発するように笑いつつも、余裕など微塵もなかった。


 最終的には、奥の手も使った。近距離での弾丸。強力な回転を加えることにより、外部型クロマチンの弾丸を、近距離でも有効にする技術。


 この近距離砲を使わなければ、間違いなくやられていた。


 咲花の強がりを聞いて、川井はハハッと笑った。


「咲花の言う佐川君の理想って、あれか? 犯人を無傷で捕まえて、更生させる、っていう?」

「何? そんなことまで有名なの?」

「有名も有名。佐川君って、江別署では、女性職員に対してセクハラ発言連発して、何度も上司に注意されてたらしいんだよ。だから、女性職員には避けられてて」

「ふぅん」

「それなのに、時間を見つけては、自分が関わった犯人に面会とかしてたらしくてさ。佐川君が捕まえた犯人の中には、出所後に、わざわざ挨拶に来る奴もいるらしいんだ。ちゃんと就職できたとか、結婚したとか」


 川井に聞こえないように、咲花は小さく舌打ちした。苛立ちを覚える、亜紀斗の理想。その一部が実現されていることが、腹立たしかった。


「なあ、咲花」


 川井の声は、急に低くなった。


「気に食わないんだろう? 佐川君が」

「まあね。言ったでしょ? 理想ばっか見てる甘ちゃんにムカついた、って」

「咲花は犯人を殺してるからか?」

「……」

「なあ。どうして犯人を殺してるんだ?」

「別に、不必要に殺してるわけじゃないけど? 被害者を確実に守るためには、犯人を殺す必要があった。だから殺してるだけ」

「そうか。じゃあ、質問を変えるぞ」

「何?」

「咲花が犯人を殺すようになったのは、俺と別れてからだったよな」

「そうだっけ?」


 とぼけたが、咲花は分かっている。むしろ、そのために川井と別れたのだ。


「そうだよ。俺と別れてから、確か、一年くらい後だったかな。咲花が、初めて現場で犯人を殺したのは」

「覚えてない。覚えてないけど、もしその通りなら、ただの偶然」

「そうなのか?」

「そう。偶然」


 川井は車を走らせ続ける。咲花の家は、道警本部から車で三十分弱ほどの距離だ。まだ時間がかかる。


「じゃあ、また質問を変えるぞ」

「何? ずいぶん質問が多いね」

「こうやって二人きりで話せるのも、久し振りだからな」

「まあ、そうだけどね」


 川井は、車を道路の左側に寄せた。ハザードを点けて、車を停めた。


「何? どうしたの?」


 停車した車の中。


 車に乗り込んでから初めて、咲花は、しっかりと川井を見つめた。


 彼も、咲花の方を見ていた。


 三年前までは、いつもこうして見つめ合っていた。今とは違う気持ちで。今とは違って、何の苦しさも感じずに。


「なあ、咲花」


 川井が抱いている気持ちも、三年前とは違うだろう。あの頃は、優しく温かい目で咲花を見ていた。今は、どこか苦しそうだ。


「どうして俺達、別れたんだ?」

「……」


 咲花の頭に、川井と婚約していた頃が思い浮んだ。ただ純粋に、職務を全うしていた頃。自分のような子供を増やしたくなくて――一人でも多くの命を犯罪から守りたくて、警察官になった。クロマチン素養が確認されて、特別課に配属された。


 川井と付き合って、プロポーズされて、結婚が決まって。


 自分が家庭を築くことになって、どうしても知りたくなった。自分の唯一の家族は――姉は、どうして殺されてしまったのか。どんな事件に巻き込まれたのか。どんな最後を迎えたのか。


 咲花を残して亡くなった姉は、どんな気持ちでこの世を去ったのか。たった一人の家族を残して、どんな気持ちで……。


 姉の死の詳細を知りたくなって、当時の事件の記録を探した。山のような捜査資料。


 十歳のときに天涯孤独となった咲花は、警察関係者に保護された。児童養護施設に入ることになった。


 警察官や児童養護施設の人に、姉のことを聞いた。彼等は口を揃えて「お姉さんは運が悪かったんだ」と言っていた。通り魔事件に巻き込まれたのだ、と。


 当時起こった通り魔殺人事件の資料を探したが、どこにも、姉の記録はなかった。通り魔事件に限定せず、殺人事件全てに範囲を広げて探した。


 探して、探し続けて。


 姉が殺された時期の、殺人事件。確認していないものは、残り一つとなった。


 まさか、と思った。まさか、姉が、あの事件の被害者だなんて。信じられない気持ちで、残った資料を手にした。当時、全国的に有名になった事件。


 姉は、間違いなく、あの事件の被害者だった。


「言ったでしょ」


 川井との幸せな思い出を切り捨てて、咲花は、彼の質問に答えた。


「私、セックスできなくなったの。気持ち悪くて、最中に吐くようにもなって。あなたの前でも吐いてたでしょ?」

「そうだったな」


 凄惨な経過を経て、残酷な最後を迎えた姉。咲花は、異性と肌を合わせることに、幸せを感じられなくなった。子供を宿すことに、嫌悪感を覚えるようになった。幸せになることを、罪だと思うようになった。


「こんなんじゃ、当たり前だけど子供なんて作れない。だから別れたの。もう結婚なんてする気もない。だから、よりを戻す気もない」


 もちろん、川井に事実は話していない。話す必要などない。


「今はもう大丈夫なのか?」

「何が?」

「誰かと付き合ったり、誰かとセックスしたり」

「誰とも付き合う気はないけど、セックスは平気」

「平気になったのに、誰とも付き合う気はないのか? 本当に大丈夫なのか?」


 咲花を見つめる、川井の目。どこか苦しそうで、どこか切なそうで。下心もなく、ただ咲花を心配している。


 胸の内を吐き出しそうになって、咲花は唇を強く締めた。一文字に結んだ唇を、ゆっくりと開いた。


 自分の願望を満たそうとは思わない。幸せになんてなりたくない。でも、目の前の人を求めている心がある。


 心の声を誤魔化すように、咲花は冷たい笑みを浮かべた。挑発するように吐き捨てた。


「嘘だと思うなら、試してみる?」

「いいのか? 大丈夫なのか?」

「だから、試してみたら? でも、私の家じゃ駄目。ホテルにでも行って」


 川井はハザードを切った。

 車が走り出した。

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