第六話③ 亜紀斗対咲花~訓練であって訓練ではない戦い~(後編①)
開始の合図と共に、亜紀斗は構えた。
咲花も構える。
クロマチン素養者が受ける訓練は、クロマチン能力の使用方法だけではない。一定の格闘技の訓練も受ける。空手、柔道、レスリング、ボクシング等。犯人の制圧が仕事である以上、当然と言える。
練習した格闘技の中で亜紀斗がもっとも得意だったのは、ボクシングだ。訓練終了後も市内のボクシングジムに通い、腕を磨いていた。
SCPT隊員は、プライベートでのスポーツ活動を禁止されている。もっとも、それは、試合の出場を禁止するものであり、練習まで禁じられるものではない。試合出場を禁止している理由は単純で、クロマチン能力を使用して戦えば簡単に勝ててしまうからだ。
また、SCPT隊員の職務の性質上、仕事の詳細を一般人に話すこともできない。SCPT隊員であるということも含めて。
亜紀斗は、通っているジムで、何度も試合出場を勧められた。そのくらいの能力は身に付けていた。
しかし亜紀斗は、咲花を相手に、ボクシングの構えは取らなかった。体を縮め、低く小さく構えた。レスリングのように。
内部型である亜紀斗が咲花を仕留めるためには、手の届く距離まで接近する必要がある。彼女の弾丸を防ぎながら。大きく構えると、それだけ的が大きくなる。彼女が狙いやすくなる。そのため、小さく構えた。
亜紀斗と咲花の現在の距離は、約十五メートルほど。
亜紀斗に対して、咲花は自然体だった。左足を前、右足を後ろにし、斜め四十五度の角度で斜に構えている。両手は、胸の辺りの高さ。前後左右どの方向にも動け、かつ、亜紀斗の動きに素早く対応できる構え方。
外部型クロマチンは体外にエネルギーを放出して戦うが、その射程距離は無限ではない。正確に的に当てられる距離は、個々の技術練度により差があるものの、約十五メートル。放出したエネルギーの威力を保てるのは、せいぜい二十メートル。
つまり、今現在の距離が、咲花が攻撃可能な最長距離だと考えられる。
亜紀斗は、少量のエネルギーで全身を強化した。咲花の攻撃に耐えるためではない。強化した身体能力に、自分の体が耐えられるように。
亜紀斗の中で、暴力性と凶暴性が大きくなってゆく。目の前の女を叩き潰し、平伏させてやる。この十年で作り上げた知性や能力を維持したまま、暴力性と凶暴性に身を任せた。
亜紀斗は床を蹴り、咲花に向かって踏み込んだ。
咲花が弾丸を放ってくる。体内のエネルギーは有限。無駄打ちはできないはずだ。
亜紀斗は額にエネルギーを集中し、強化した。咲花の弾丸を額で受け、そのまま止まらずに前進した。
咲花までの距離は、約十メートル。
咲花が、亜紀斗から見て右に動いた。横に動いて距離を保つつもりなのだろう。だが、逃がすつもりはない。
亜紀斗は咲花と同じ方向に動き、さらに距離を詰めてゆく。
二人の距離は、約八メートル。
咲花が弾丸を放ってきた。今度は、亜紀斗の足元を狙って。
亜紀斗は足元にエネルギーを集中した。この弾丸に耐えながら、さらに距離を詰めてやる。
咲花の弾丸が亜紀斗の足に当たった。
その瞬間。
咲花の弾丸は破裂し、亜紀斗の体を浮かせるほどの衝撃を生み出した。彼女が放ったのは、破裂型の弾丸だ。爆風で、亜紀斗の突進を止めるつもりらしい。
亜紀斗の体が、衝撃で十五センチほど浮き上がった。足が床から離れた。この状態では、咲花との距離は詰められない。
咲花は距離を取り直した。二人の距離は、再び十メートルほどに開いた。
床に着地して、亜紀斗は構え直した。咲花の次の攻撃を警戒する。
しかし咲花は、仕掛けてこなかった。チャンスだったはずなのに。
咲花は相変わらず、亜紀斗を小馬鹿にするように笑っていた。
――舐めてんのかよ?
亜紀斗の中で、苛立ちが大きくなった。苛立ちが、凶暴性を加速させてゆく。暴力性を強化してゆく。
亜紀斗は床を蹴った。咲花に向かって踏み込む。
咲花が再び、亜紀斗の足元を狙ってきた。
同じ
二人の距離は、約七メートル。
咲花の弾丸は、亜紀斗が想像していたよりも速い。この距離であれば、反応して避けられる。だが、距離が四メートルほどまで近付いたら、反射神経だけで避けるのは困難だろう。
凶暴性と暴力性を帯びながら、それでも亜紀斗は冷静だった。冷静に、咲花を仕留めることを考えていた。
目の前の咲花は、亜紀斗にとっての敵であり、獲物でもあった。肉食獣のように牙を突き立て、喉笛に食らいついてやる。
咲花は、亜紀斗から見た右側に移動しつつ、弾丸を放ってくる。
弾丸を避けながら、亜紀斗は距離を詰めた。
二人の距離が、約四メートルまで縮まった。
この距離では、咲花の弾丸を避けられない。亜紀斗は戦い方を変えた。左右に細かく動くことで、咲花の弾丸の的を散らした。彼女が狙いを定められないようにしつつ、距離を詰めてゆく。
咲花が、亜紀斗の前進を止めるために弾丸を放ってきた。
左右に細かく、かつ不規則なリズムで動く亜紀斗には、当たらない。弾丸は床に当たり、亜紀斗の体に爆風が伝わってきた。亜紀斗の前進を止めるほどではない、爆風。
二人の距離は、約三メートル。
あと二メートル近付けば、亜紀斗の攻撃が咲花に届く。
咲花の顔から、小馬鹿にするような笑みが消えていた。
亜紀斗は、さらに一歩踏み込んだ。
あと二・五メートル。
咲花は、一瞬で六発の弾丸を作り出した。銀行での事件で、犯人達の命を奪った技術。あのときは五発だったが、今回は六発。
六発のうち亜紀斗に向けられたのは、一発だけだった。他の五発は、亜紀斗が動く範囲に撃っていた。亜紀斗がどのように動いても弾丸が当たるように。低空飛行の弾丸。狙いは、亜紀斗の足元。
この距離では、反射的に咲花の弾丸を避けることはできない。彼女の放つ弾丸は、亜紀斗が経験したことがないほど速い。
咲花が弾丸を放った直後。
亜紀斗は、自分でも想定外の動きをした。それは、凶暴性が生み出した動物的本能か。低空飛行の弾丸を、前方に跳んで避けた。
咲花の弾丸は、床に当たって爆風を生み出した。六発分の衝撃波。
跳び上がった亜紀斗は、その衝撃波を背中に受けた。衝撃波の勢いに押されて、咲花との距離が一気に縮まった。
二人の距離が、一メートルを切った。
手が届く距離に入った瞬間、亜紀斗は拳を振るった。格闘技でもっとも得意な、ボクシング。その中でも、もっとも得意なパンチ。左フック。
咲花は咄嗟に、右腕を上げた。亜紀斗のパンチを防ぐために。
亜紀斗の左拳に、柔らかい感触が伝わってきた。威力が吸収されるような柔軟性。すぐに理解した。咲花がバリアを張ったのだ、と。パンチをブロックした右腕に。
亜紀斗はすぐに追撃を掛けた。エネルギーで強化した右ストレート。
咲花も対応してきた。亜紀斗の右拳に向かって弾丸を放つ。この距離では、威力のある弾丸なんて撃てないのに。
咲花の弾丸は、貫通タイプではなく破裂タイプだった。亜紀斗の右拳に当たった瞬間、爆風が生まれた。彼女は亜紀斗を攻撃するためではなく、防御と同時に距離を取るために弾丸を放ったのだ。
衝撃波で、亜紀斗も咲花も後方に吹き飛んだ。
また、二人の距離が開いた。約四・五メートル。
拳を迎撃された亜紀斗よりも、迎撃した咲花の方が、いち早く体勢を立て直した。彼女は構え直し、亜紀斗の動きに備えている。
一瞬遅れて、亜紀斗も構え直した。距離を詰めるための、低く小さな構え。
咲花をじっと観察した。彼女は先ほどと同じように、自然体で構えていた。右手が少し震えている。亜紀斗の左フックを防いだときに、怪我でもしたのだろう。とはいえ、骨折まではしていないはずだ。殴った感触から考えて、打撲といったところか。
体中に酸素を送るため、亜紀斗は大きく深呼吸をした。再び咲花に接近するため、思考を巡らせる。
少し運の良かったところはあるが、一度は、咲花に接近することができた。感覚は掴めた。もう一度接近して、今度は確実に仕留める。
踏み込むため、亜紀斗が右足にエネルギーを送ろうとしたとき。
咲花に変化があった。
彼女の口元に、笑みが浮かんだ。少し前まで消えていた、小馬鹿にするような笑み。
亜紀斗の苛立ちが、さらに強くなった。絶対に仕留めてやる。叩き潰してやる。凶暴性が渦巻き、暴力性が高まった。十年前の自分に近付く感覚。
しかし、現在の知識と経験が、亜紀斗を踏み止まらせた。すぐにでも咲花に仕掛けようとする、昔の自分。それを、現在の自分が制御した。凶暴性と暴力性を保ったまま。
亜紀斗の中で、経験と知識が考察を始めた。
咲花が、再び小馬鹿にするような笑みを浮かべた。先ほどまでは真顔だったのに。それはなぜか。結論は簡単に出た。彼女には、余裕があるのだ。一瞬とはいえ、距離を詰められたのに。
どうして咲花に余裕があるのか。亜紀斗を返り討ちにする方法があるからだ。先ほどの攻防で、亜紀斗を迎撃する手段を確立したのだろう。
つまり、このまま同じように踏み込んでも、今度はやられる。
――どうする? どうやって叩き潰す?
どうやってぶっ殺す?
咲花は外部型だ。亜紀斗を返り討ちにするなら、一瞬だけ踏み込ませた後に、何らかの手段で距離を取るのだろう。亜紀斗の攻撃を空転させ、距離を取り、直後にカウンターで仕留めようとするはずだ。
咲花が亜紀斗から距離を取る方法は、分からない。ただ、ひとつだけ分かることがある。
咲花はこう考えているはずだ。
『亜紀斗は、距離を詰めた瞬間に攻撃してくる』
――それなら……
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