第五話② どうして彼女は殺せるのか(後編)
「――これ、僕が亜紀斗君に話したって言わないでよ? 咲花君に怒られちゃうから」
「言いませんから、続けてください」
小さく息を吐く音が、亜紀斗の耳に届いた。藤山が息をついた。溜め息のように。
「実はね、咲花君には婚約者がいたんだよ。三年前までね」
「婚約者?」
「そう。結婚の約束をした恋人」
「なんか、想像もつきませんね」
「今の咲花君からだと、そうだろうねぇ。でも、当時は、そうでもなかったんだよ。相手は刑事課の人なんだけど、それはもう仲が良くてねぇ。幸せそうだったよ」
婚約者と仲睦まじく、幸せそうな咲花。いくら考えても、その姿が思い浮ばない。亜紀斗が知っているのは、人を寄せ付けないような冷たさを感じる、氷の美女だ。
つい、亜紀斗は、藤山の話を嘘だと決めつけそうになった。だが、そんな嘘をついても、藤山には何の特もない。何の意味もない。
ただ、婚約者が「いた」ということは――
「でも、過去形なんですよね?」
「うん。別れたんだよ。突然ねぇ。そんな予兆も様子もなかったから、皆びっくりだったよ」
「もしかして、婚約者と別れた直後からなんですか? 笹島さんが、あんな凶行に走るようになったのは」
「いいや。咲花君が今回みたいなことをするようになったのは、婚約を破棄してから一年くらい経った後だったはずだよ」
亜紀斗は首を傾げた。咲花が凶行に走るようになったのは、婚約者と別れてから一年も経った後。それでは、婚約破棄と凶行に関連性があるとは思えない。
「ただ、ね――」
息を吐くように呟いて、藤山は、椅子の背もたれに体を預けた。どこか疲れているようにも見える。それなのに、口元の薄い笑みは消えていない。
藤山は、再び元の体勢に戻った。先ほどまで口元に当てていた手は、机の上に置かれている。両手を組んで、再び亜紀斗を見てきた。
「亜紀斗君。君には、今の咲花君がどんなふうに見えてるの?」
「どんなふうに、とは?」
「例えば、初めて咲花君を見たときの第一印象とか」
「そうですね……」
亜紀斗は、初めて道警本部に来た日のことを思い起こした。十六階のエレベーター付近で、咲花とすれ違った。まだ、彼女のことなど知らないときだ。名前も知らないし、話したこともなかった。それでも感じた。凍るような冷たさと、底のない暗さを。
「第一印象は、美人なのに暗くて、とにかく冷たそうで、って感じでしたね」
「だよねぇ」
ははっ、と藤山は笑った。
「でも、婚約破棄までの咲花君は、そんなんじゃなかったんだよ。優しくて、しかも美人で。明るいとまでは言えないけど、今みたいな、人を寄せ付けない様子はなかったんだよ」
「……」
実は、咲花には双子の姉か妹がいて、婚約破棄の時期に入れ替わったんじゃないのか。亜紀斗は、そんな想像をしてしまった。もちろん、そんなことは有り得ない。警察官になる際には、必ず身元を明らかにされる。
咲花は、婚約者と別れたことで変わってしまったのか。しかし、婚約破棄と犯人殺害に関連性があるとは思えない。婚約破棄と結び付けるには、発生時期に時間差があり過ぎる。
まったく繋がりがないと思える、二つの事実。その二つを繋げる何かが、咲花にはあるのだろうか。婚約が破棄され、その他に何かがあって、咲花が凶行に走るようになった。
では、その何かとは、何なのか。考えてみたが、分かるはずもない。
亜紀斗は天井を見た。蛍光灯が明るい。思考を放棄すると、単純な疑問が思い浮んだ。
「笹島さんは、どうして婚約者と別れたんでしょうか?」
意図せず、疑問が口に出た。
「うーん。どうだろうねぇ」
藤山は、当然、答えを知らなかった。
「まあ、男女のことだからねぇ。すれ違いもあるでしょ?」
「そうかも知れませんけど。ちなみに、その元婚約者、まだここの刑事課にいるんですか?」
「うん。いるよ。今は確か、捜査一課だったかなぁ」
答えた後、藤山は、少しだけ慌てた様子で机に身を乗り出した。
「あ、でも、捜査一課に行って元婚約者に事情を聞くとか、咲花君について聞くとか、やめてよぉ。僕が喋ったことを咲花君に知られたら、もの凄く怒られちゃうから」
本気で慌てている様子の藤山が、なんだか可笑しかった。
「言いませんよ。どちらにしろ、笹島さんの凶行については、明確な回答を得るのは難しそうですし」
「まあ、そうだねぇ」
「じゃあ、俺は上がります。お疲れ様でした」
亜紀斗は頭を下げた。
藤山は手を振ってきた。
「うん。今日はお疲れ様」
「それと、これから帰って目一杯オナニーするんで。明日寝坊したらすみません」
「モーニングコールしてあげようか?」
「どうせなら、優しいお姉さんに頼みたいですね」
軽口を叩いて、亜紀斗は特別課を後にした。エレベーターに乗り、一階に降りる。建物から出ると、雨は小降りになっていた。これなら、傘はいらないだろう。
ポツポツとした雨を頭に受けながら、亜紀斗は、昔のことを思い出していた。
最悪と言っていい家庭環境だった。父親は酒浸りの暴力野郎。母親は、そんな父と亜紀斗を捨てて、家を出た。彼女には、父以外に恋人がいた。
母親が出て行き、父の暴力癖はますます酷くなった。亜紀斗にとって、暴力は、もっとも身近なものだった。遊びよりも、勉強よりも、恋愛よりも。
父の暴力に耐える日々が、成長するにつれ、父と喧嘩をする日々に変わった。父とだけではなく、外でも喧嘩をするようになった。
やがて、父は暴力を振るってこなくなった。亜紀斗に勝てなくなったから。
名前を書けば合格できるような高校に入学した後も、喧嘩に明け暮れた。街中で絡んできた他校の不良七人を病院送りにしたとき、とうとう警察が介入してきた。
傷害で捕まり、留置所に入れられた。
留置所でも問題行動を起こした。夜にオナニーしようとして見つかり、さすがに我慢した。しかし、自分の中にある暴力性は消えなかった。
先生と出会ったのは、そんなときだった。自分を捕まえた少年課の刑事だった。
留置所に入ってから数日後。亜紀斗は、罪に問われることもなくシャバに戻った。
シャバに戻った後に知ったが、亜紀斗の相手やその親を説得したのは、先生だった。
不良に大怪我をさせたのは亜紀斗だったが、先に絡んできたのは相手だ。さらに、七対一の喧嘩だ。その事実を相手方に突き付け、亜紀斗が罪に問われるのは理不尽だと伝えた。逆に、相手方が傷害の罪に問われる可能性があることも説明したらしい。
先生がしてくれたことを知った亜紀斗は、彼に会うために警察署に行った。どうしてこんなことをしてくれたのか、聞きたかった。
亜紀斗は、実の父親に暴力を振るわれていた。母には捨てられた。他人を救うという思考が、まったく理解できなかった。
警察署で、先生に会うことができた。亜紀斗は、自分を助けてくれた理由を聞いてみた。非行に走る少年を助けることは、彼の仕事ではないはずなのに。
先生は、静かに語っていた。
『ちゃんと生き直せば、一角の人間になるかも知れないだろ。そんな可能性の芽を残したかったんだ』
『加えて、お前は、理由はどうあれ必要以上に人を傷付けた。その償いはしないといけない』
『償いというのは、許されることを期待して行うものじゃない。自分が壊してしまったもの以上のものを作り上げることだ』
ドクンッと、亜紀斗の心臓が脈打った。
可能性の芽。償い。この人は、自分の未来に可能性を見てくれた。過ちを償えると。壊したもの以上のものを作り出せる、才能の芽があると。どうしようもない父親のもとに生まれて、母親に捨てられて、喧嘩に明け暮れて、勉強もろくにしていない自分に。
涙が出そうだった。
俺は頭が悪い。だから、先生が言うような「一角の人間」にはなれないだろう。でも、可能性の芽を守れるようになりたい。そんな憧れを抱いた。
亜紀斗は生き直しを決意した。自分を馬鹿だと自覚しつつも、必死に勉強するようになった。先生と同じ、少年課の刑事になるために。彼と交流を続けながら、ひたすら努力した。
真面目に生きていたら、恋人もできた。しかし、幼い頃から持ち続けた暴力性が、彼女に対しても出そうになった。恐くなって、
先生は、亜紀斗をカウンセリングに連れて行ってくれた。非行少年達の相談にも乗るカウンセラーだった。何度も面談と診察を受けるうちに、沸き上がる暴力性をコントロールできるようになっていった。閉じ込められるようになった。大好きな彼女と、平穏に過ごせるようになった。
自分の可能性を見てくれた先生。相談に乗ってくれた先生。償うことを教えてくれた先生。
彼に憧れた。彼のようになるのが亜紀斗の目標であり、人生の目的となった。
「先生――」
道警本部を出て、少し歩いた後。
亜紀斗は立ち止まり、夜空を見上げた。星も月も見えない、曇り空。小雨が顔に当たる。
今日の事件の犯人は、全員、二十代前半だったそうだ。非行を繰り返していた青年達。少年とは言えないが、まだ若い。生き直すには十分と言える年頃。
でも、六人のうちの五人は殺された。
助けられなかった。
気持ちが重かった。思わず、溜め息が漏れた。
「――俺はまだ、先生みたいにはなれないです」
気持ちが沈んでいる。
どんなに少なくとも、帰ってオナニーをする気にはなれない。
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