第三話① 異動先での出会い(前篇)


 四月になった。


 ようやく気温が上がってきて、春らしい陽気を感じられる季節。もっとも、たまに気温の低い日もあり、雪が降ることもあるが。


 亜紀斗が異動の辞令を受けたのは、約二ヶ月前。それから慌ただしく引っ越しの準備をし、業務の引き継ぎを行った。


 ようやく新しい家に荷物を運び終えたのが、三日前。荷解きを終えて必要な生活用品を揃えたのが昨日。


 今日は、異動先での初出勤日。


 異動先は、北海道警本部――北海道警察本部庁舎。札幌の市街地付近ある、地下三階から地上十八階まであるビル。ここの、刑事部特別課――道警本部のSCPT部隊に配属された。


 札幌出身の亜紀斗にとっては、地元に戻って来たことになる。


 亜紀斗は、警察学校の最終カリキュラムとなる検査で、クロマチン素養者でることが確認された。最初の配属先は江別署。そこで、SCPT隊員として、あるときは殺人事件などの捜査に駆り出され、あるときは凶器を所持した犯人の制圧を行っていた。


 つい三ヶ月前も、銃を持ったコンビニ強盗を捕らえたばかりだった。


 もっとも亜紀斗は、凶器を持った犯人の約半数を、武力制圧ではなく説得にて投降させていたが。


 クロマチン素養を持った者は、全人口の約一パーセント程度である。そんな素養を持った亜紀斗は、キャリアとは違った意味でのエリートと言える。さらに、厳しい訓練により、誰もが認める実力も身につけていた。


 そんな亜紀斗だが、道警本部への異動に関しては、少し緊張していた。初めて出勤する道警本部。目の前にある、高いビル。


 普段から――捕らえた犯人の前でさえも「趣味はオナニー」を公言する亜紀斗だが、今は、そんな砕けた気分にはなれなかった。


 警察学校を卒業し、SCPT隊員の見習いとして訓練を受けていた頃。亜紀斗には、一年近くの空白期間がある。訓練を無断欠席し、家の中で塞ぎ込んでいた時期。


 正式に取得した休暇でもないのに、長いこと休み続けた。クロマチン素養という稀少な資質を持っていなければ、免職になっていただろう。そんな経験を糧に、亜紀斗は、必死に仕事に取り組んだ。


 自分にとって、恩師と言える人。その人のようになるために。大切な人に報いるために。


 その結果として、本部への異動が決まった。


「おはようございます、佐川さん」


 突然声を掛けられて、亜紀斗は思わず肩を震わせた。声の方に顔を向けた。


 江別署で事務職をしていた、奥田おくだ麻衣まいがいた。歳は確か、亜紀斗の二つ下――二十四歳だったか。身長一五〇そこそこの小柄な体。高校生にすら見える童顔。胸が大きい。Gカップくらいか。江別署では、当然のように男性職員に人気があった。


「ああ、おはよう。って、どうして奥田さんがここにいるんだ?」

「知らなかったんですか? 私も、今日からここに異動になったんです」

「そうなのか?」

「そうなんですよ」


 言いながら、麻衣は苦笑を浮かべた。


「一緒に同じ場所に異動になったのに、全然知らなかったんですね。私は、佐川さんが本部に異動になること、知ってたのに」

「あ。いや。ごめん」


 謝りつつ、亜紀斗は、少しだけ気が楽になったのを感じた。元同僚がいるだけで、緊張がほぐれた。


「ほら、俺って、いつも、今晩のは何にするとか、そんなことばっかり考えてたからさ。奥田さんに興味がないわけじゃないんだ。エロいことばっかりで、他のことに気が回らなかっただけなんだって」


 いつもの調子で下品なことを言う亜紀斗に、またも麻衣は苦笑を浮かべた。


「本当に、いつもそんなことばっかり言ってますよね」

「そりゃあ、男だから。男がエロくないと、人類は絶滅するんだし」

「まあ、間違ってはいないでしょうけど」


 麻衣は、亜紀斗の発言に呆れた様子を見せた。けれど、嫌がる様子はない。江別署にいた頃からそうだった。亜紀斗は、セクハラと言える発言を繰り返しているのに。


「そんなことより、早く行きましょう。異動初日から遅刻とか、笑えないですし」

「そうだな」


 二人で並んで、道警本部の中に入る。


 セクハラ発言を繰り返す亜紀斗を、避けようともしない麻衣。そんな彼女に疑問を抱きつつ、亜紀斗は、いつもの調子で口を開いた。


「いや、でも、奥田さんと一緒に異動とか、ラッキーだったかも」

「そうですか? 嬉しいですね」

「……本当に?」

「ええ。なんだかんだ言って、佐川さんって、仕事できるじゃないですか」

「そんなこと言われたら、俺、奥田さんを今夜のオカズにしちゃうけど?」

「そうなんですか? じゃあ、私の、どんなところを想像するんですか?」


 からかうような目で、麻衣は亜紀斗を見ていた。


 亜紀斗は、麻衣のことを真面目な人だと思っていた。それほど深い付き合いがあるわけではないので、詳しいことは知らないが。ところが、こんな下品な話題にも、嫌な顔ひとつ見せない。


 もしかして、本当は奔放な子なのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、亜紀斗は続けた。


「そうだなぁ。やっぱり、奥田さんのおっぱいかなぁ。こう、激しく揺れる感じの」

「ふーん」


 楽しそうに、麻衣は目を細めた。


 エレベーターの前に着いた。三機あるエレベーター。


 亜紀斗が向かう刑事部は十六階。麻衣が向かう総務部は地下二階。


 丁度、下に向かうエレベーターが着いた。扉が開く。一階に降りてきた人が、エレベーターから出てきた。


 エレベーターに乗り込みながら、麻衣は、亜紀斗に手を振ってきた。


「じゃあ、佐川さんの想像の中で私がどんなだったか、今度聞かせて下さいね」


 つられて、亜紀斗も麻衣に手を振った。


「う……ん。じゃあ、また」


 彼女が乗ったエレベーターの扉が閉まった。


 麻衣に向かって振った手で、亜紀斗は、エレベーターの上向きボタンを押した。扉の上にある階数表示が、少しずつ動いてゆく。


 亜紀斗は、江別署にいた頃から、たびたび下品な発言をしていた。直接女性の体に触れるようなことは、もちろんしていないが。


 だから女性職員達は、業務連絡を除いて、亜紀斗と話そうとはしなかった。もちろん、女性職員と親しくなることもなかった。


 それでいい、と思っていた。


 しかし、麻衣だけは違った。すれ違えば笑顔で挨拶してくるし、仕事以外の話も振ってくる。亜紀斗がどんなにセクハラ紛いの発言をしても。


 ――たぶん、下品なことを言われ慣れてるんだろうなぁ。あの子に言い寄る奴、多かったし。


 エレベーターが一階まで降りてきた。扉が開いた。


 エレベーターに乗り込み、十六階のボタンを押す。上に昇る浮遊感。亜紀斗一人しか乗っていないので、エレベーターは、すぐに十六階まで着いた。


 エレベーターから下りてすぐのところに、十六階の見取り図が掲示されていた。特別課は、エレベーター正面の通路を真っ直ぐ進み、右に曲がったところ。


 見取り図から視線を外した。特別課への通路を見た。


 亜紀斗の目に、一人の女性が映った。私服を着ている。通路の奥――特別課のある方から、こちらに向かってくる。


 美人だ。麻衣には「可愛い」という言葉が当てはまるが、前方の女性には「美人」という言葉がよく似合う。切れ長な目。一文字に結ばれた口元。通った鼻筋。綺麗な肌。背中まである長い黒髪。背はそれほど高くない。一六〇弱、といったところか。


 暗く、冷たい印象を――凍るような印象を受ける美人。


 亜紀斗の頭の中に、一人の人物が思い浮んだ。噂で聞いていた人物。


 道警本部の特別課の中で、犯人の殺害率が異常に高いSCPT隊員がいるという。その隊員は、武力抗争を扱う部署には似合わない美人らしい。凍るような冷たさを感じさせる美人。


 こちらに向かってくる美女は、亜紀斗が聞いていた特徴と一致する。


 美女とすれ違い様に、亜紀斗は軽く会釈をした。

 彼女も会釈を返してきた。


 すれ違った彼女は、エレベーターの下向きボタンを押した。今から帰宅するのだろうか。ということは、今は夜勤明けか。


 亜紀斗は美女から視線を外し、歩き始めた。廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右に曲がった。


 すぐに「特別課」と札のある部屋を見つけた。廊下の奥には「訓練室」という札のドアがある。SCPT隊員達が訓練を行う部屋だろう。


 亜紀斗は、特別課の部屋のドアをノックした。ドアノブを握り、開ける。


「失礼します」


 部屋に入ってすぐのところに棚があり、その奥に、机がたくさん並んでいる。


 北海道警本部の、刑事部特別課。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る