四節 落日に燃ゆる*

 一人の女性が船のデッキに佇んでいる。彼女の顔には疲労と苦痛が浮かんでいた。膨らんだ腹部を押さえ、手すりに捕まり何とか立っている状態だった。

 彼女の服は薄汚れ所々破けている。男達を魅了してきたその顔も今は痩せこけ、肌は乾燥し唇はひび割れていた。烏の濡羽のような黒髪も艶を失い痛みが目立つ。しかし星空のような青い瞳は、輝きを失わないまま目前の海に向けられていた。


 初めて見る海は、穏やかな美しさに満ちていた。空と海の青が溶け合い、水平線が見えない程広大な景色が広がっている。太陽の光が水面に反射して宝石のように輝き、船に打ち付ける波は白いレースのようだった。渡り鳥の鳴き声、波の音、彼女は目を閉じそれらに耳を傾ける。


 妊娠を彼に打ち明けた。店の避妊術式に不備があった日、相手にしたのはあなただけ。他の客は私を殴って満足していた。だから考えられるのはあなたしかいない。そう説明すると彼は笑って喜んでくれた。そして、必ず迎えに来ると告げ去っていった。


 しかし彼は二度と店に来ることはなかった。


 徐々に大きくなる腹部を隠し通すことなんて出来ず、店長に見つかり、無理矢理にでも堕ろすと言う。

 だから彼女は逃げた。この子を堕ろすことなんてできない。彼女は今でも彼を愛していた。


 店から逃げて約九ヶ月、もう追ってくる者はいない。彼女は逃げたことで初めて自由を手に入れた。

 自由がこんなにも心地の良いものだとは思わなかった。薄く目を開き、今までの人生に思いを馳せる。


 彼女はエレフ共和国の貧しい家庭に生まれた。妹が一人、弟が二人。両親は経済的な余裕がないにも関わらず、避妊もせず無計画に子供を作った。当然家計は困窮。彼女も幼いながら早朝から夜遅くまで休みなく働いていた。

 ある日、一人の男が現れた。男が両親に何か言うと、彼らは喜んで彼女を手放した。売られた、幼いながらもすぐ理解することができた。引き渡しの際、家族の目は二度と合えない娘ではなく手渡された札束に向けられていたのを今でも忘れない。


 年齢を偽り彼女はすぐに店に出された。初物として高く売れ、その後は同じ日々の繰り返しだった。

 本当に碌な人生ではなかった。下らな過ぎて、喉からは乾いた笑いが上がる。


 腹部が動いたのを感じ、彼女は腹部を撫でる。慈しむように何度も、何度も撫でる。


 それでも、彼女はあの男を愛していた。


 女をただの道具と見なす館で初めて優しくされたのだから。いや、優しさを感じたのは人生で初めてだったかも知れない。例えそれが口だけのものだったとしてもそれで良かった。その思い出だけで良かった。


 だから、愛しいあの人の子、この子だけは幸せになって欲しい。男の子か女の子かは分からない。でも、私と彼に似たのならきっと美しく育つだろう。生まれてくる子供の人生を想像し、彼女は静かに微笑んだ。

 友人に囲まれて、普通の生活を送って、いつか結婚して、私とは違う人生を歩んで欲しい。


 どうか、幸せな──、


 腹部に激痛が走る。立っていられずその場に倒れこんだ。経験したことのない痛みに視界が歪む。薄れゆく意識の中、何人もの人が駆け寄ってくるのが見えた。



「彼女は?」

「駄目だった」


 船の乗組員である男は、そう言うと目を伏せた。目の前で起った悲劇に黙するしかない。

 妊婦は極度の栄養失調でやせ細り、逃亡と長旅による疲労で体力も限界を向かえていた。そんな彼女が出産に耐えられるはずがなかった。


「子供が助かったのは奇跡みたいなもんだ」


 そう言って彼女の隣に寝かされる赤子を見た。乗組員や乗客の協力により何とか子供だけは一命を取り留めることができた。今は乗客の善意により施された、清潔なシーツに包まれ安らかな寝息を立てる。起こさないよう乗組員達は声を顰める。


「とりあえず、港についたら病院へ預けよう」

「その後は?」

「分からない。でもここなら悪いようにはしないだろう」


 乗組員は目前へと迫る大聖堂のある島に目を向けた。


 この妊婦が娼館から逃げきた者であると予測は出来ていた。身なりから、相当過酷な旅路を歩んできたことも。出産の際、朦朧としながらも「この子だけは助けて」と何度も繰り返していた事を思い出し目頭が熱くなる。


 出産には一般の観光客から傭兵まで様々な人が協力し、なんとか二人を生かそうと努力した。人はここまで団結できるものなのだと胸が熱くなったのを覚えている。


 人々の善意の中生まれてきたこの子はきっと幸せに育つだろう。そうでなければ彼女が浮かばれない。

 乗組員は妊婦の遺体に祈る。彼女の顔は眠っているかのように安らかだった。

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