二節 女神の御許*

 薄暮が過ぎ、夜の帳が街を覆う。石畳の狭い路地は行き交う人々のざわめきと共に賑わいを見せていた。通りの両側には建物が並び、煌びやかな街灯が街を照らしている。居酒屋からは笑い声や歌声が絶えず聞こえ、酒を交わす人々は上機嫌で語り合う。楽師達が奏でる弦楽器の音色が風に乗り、夜の静けさを彩っていた。


 路地の奥、そこには一際目立つ建物があった。

 石造りの二階建ての構造で、上階には小さなバルコニーが設置されており、鉄製の柵がその周りを囲んでいる。建物の正面には他の家屋とは異なる目立つ看板が掲げられていた。看板には美しい女性のシルエットが描かれており、細部まで丁重に彫刻され、その豪華さが一層の注目を集めていた。

 窓は小さく厚いカーテンがかかっているが、僅かな隙間から光が漏れている。時折窓の向こうに女性達の影がちらつき、笑い声や音楽が微かに聞こえていた。


 その一室、女達が集まる部屋があった。部屋にはクッションの置かれた長椅子が並び、壁際には幾つもの鏡台が置かれている。化粧を直す女、椅子に横たわり寝る女、談笑する女。皆肌を大きく露出したドレスを身にまとっていた。廊下へと続く扉の前には黒服の男が立ち、彼女達を監視していた。


 一人の女性が窓に張り付き外を眺めている。腰まである烏の濡れ羽色の髪に、星空を写したような青い瞳。陶器のように滑らかな肌の頬には薄紅色の薔薇のような色が差していた。彼女は、一目で人の心を奪うような美しさを持っていた。


「またあの客を待っているの?」

「ええ」


 後ろから声をかけられ彼女は短く答える。瞳は窓へと向けたままだった。


「あまり信用しないほうが良いわよ」


 黒髪の女性は答えない。話しかけてきた女性はため息をつき、彼女から離れていった。


 皆、客を信用するなと言う。確かにそうだ。彼らは自分たちを人間として見ていない。自分を物のように扱い、気に入らなければ殴る。それでも周りは止めやしない。金を多く払えば咎められず、むしろ店側は喜ぶのだから。

 これが日常であり、彼女の一生だった。家族に売られてから彼女はそうやって生きてきた。


 でも彼は違う。だって、彼は私を──。


 女性は名前を呼ばれ振り返る。どうやら買われたらしい。


 黒服の男に案内され、彼女は部屋へ向かう。扉を開けると一人の男性がいた。綺麗に整えられた茶色の髪の下には精悍な顔。スーツを身に纏い、袖からは金の時計が覗く。

 男性を見た彼女の唇がゆっくりとほころび、頬が僅かに紅潮した。


「来てくれたのね」

「約束しただろう?」


 その言葉に彼女は満足げに目を細めた。彼から上着を受け取り、皺にならないようかけていく。


「なあ」


 声をかけられ振り返った。


「愛してるよ」


 そういって男性は腕を広げた。彼女は小走りで彼の元に寄り、その腕の中へと入る。二人の顔が近付き唇を重ねていく。お互いの愛を貪るような長い長い抱擁。名残惜しそうに離れると、目を合わせ笑い合った。

 そして二人は奥の部屋に向かう。


 歩いてる最中、彼女は慈しむように自分の腹部を撫でた。

 この体がもう一人のものではないと告げたら彼はどう思うのだろうか。きっと彼は喜んでくれるはずだ。


 だって私を愛していると言っていたのだから。


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