第3話 クラリスの願い②

「さあ、では皆さん。今日からいよいよ実戦魔術の訓練です。皆さんの机の上には、それぞれガラスのビーカーが置かれていますね」


 カミア導師は告げた。


 生徒の机には口の広い透明のビーカーが置かれていた。


「まずは中等部までの復習です。このビーカーに水を創り出してみましょう」


 生徒達は一斉にビーカーに手をかざし、一生懸命念を送り始める。


 やり方は人それぞれだ。


 目を瞑り手印しゅいんを組む者もいれば、呪文のようなものを口ずさむ者、ビーカーの縁をトンと指で触れるだけで水を創り出す者もいる。


 中には火の国出身でりきみ過ぎて火を出してしまう者や、銀の国出身者は湧き出た水を凍らせてしまった者もいる。


 水魔術が苦手で、水を一滴創り出すのが精一杯の者も何人かいた。


 だが一滴の水すら出せないのはオロフとクラリスだけだ。


 二人は中等部でもいつも居残りさせられていて、そんな日々もあって距離が縮まったのだが、落ちこぼれなのは相変わらずだった。


「おやおや、あなたは水の国出身ではないの、オロフ? 一滴の水も出せないなんて。隣のスイミーに教えてもらいなさい。ビーカーから溢れるほど創り出していますよ」


「……」


 カミア導師に褒められて自慢げに腕を組んで見下すスイミーに、オロフはぎゅっと下唇を噛んでいる。


「おやまあ、お隣のクラリスも一滴も出せないの? あなたは神の国出身でしょう? 神の国では、この程度の魔術は教育を受けていない平民でもうっかりできてしまうと聞いていたけれど……なんということでしょう」


「……」


 こんな風に言われることは中等部で慣れていたけれど、やっぱり気分のいいものではない。


「カミア導師、この二人は中等部でも落ちこぼれカップルで有名だったのですよ。できない者同士、許嫁の約束を交わしたそうですよ。二人だけの世界で傷をなめ合って生きていくのでしょう。僕はそんな人生はごめんですけどね」


 スイミーの言葉に、周りのクラスメートもくすくすわらっている。


 こんなことを言われることにも慣れていた。


 特にこのスイミーと、同じ神の国出身のバルバラが苦手だ。

 

「まあ! 二人は許嫁の約束を交わしたの? 知らなかったわ。でも……神の国出身の貴族が、魔術も使えない他国の人と結婚だなんて……。さすがに聞いたことがないわ。ふふふ」


 やはりバルバラがからんできた。


 神の国の貴族は、魔術学院では本来一目置かれる存在で、高等部になるとその差が歴然とし始め、やがてみんな高いグレードに進んでいく。


 それゆえ血縁になることを望む貴族は多く、すでに二つのムスターを持っているバルバラなどは、各国の貴族から多くの縁談話が持ち込まれていると聞いた。


 そんなよりどりみどりな彼女から見れば、水の国の田舎貴族で魔術も使えないオロフとの結婚なんてあり得ないのだろう。


(私は魔術なんていらないもの。バカにしたければすればいいわ……)


 心の中で呟くクラリスだったが、オロフはそうではなかった。


 両手を握りしめ、湧き上がる怒りを必死に耐えているようだ。


「さあさあ皆さん、そのように人をおとしめる言い方をしてはいけませんよ。魔術を使う者には、正しい道徳心が必要です。中等部で習ったはずでしょう。悪しき心で魔術を使えば、それはいずれ自分に戻ってくるのです」


 カミア導師がスイミーとバルバラをたしなめる。


 けれど正しい道徳心とはなんだろう。

 他人を傷つけないこと?


 けれどカミア導師の言葉にもオロフとクラリスは傷ついた。


 魔術が使える人には、使えない人が何に傷つくかなんて分からないのだ。


 クラリスから見れば、一緒になって嗤っているクラスメートだって正しい道徳心を持っているとは思えない。


 それでもみんな中等部の道徳授業の一定基準を満たして進学している。


 クラリスが中等部の授業で一番納得できなかったのはこの正しい道徳心というものだった。


「とにかく……水が出せなくては次に進めないわ。出せなかった人は、たくさん出せた人に分けてもらいなさい。スイミー。オロフとクラリスに水を分けてあげて」


「ふん。しょうがないな。落ちこぼれの隣に座ると迷惑をこうむるよ。ほら、ビーカーを貸せよ。俺が水をほどこしてやるからさ」


 スイミーはやれやれという顔で、オロフのビーカーに水を入れようとした。


「い、いらないよ! 自分で出せる‼ 放っておいてくれ!」


「おいおい。せっかく親切に水を分けてやるって言ってるのに、その態度はなんだよ」


「う、うるさい! 君のほどこしなんていらない!」


 オロフは意固地になってスイミーの水を拒否した。


「カミア導師。助けてやろうとしている俺にこの態度ですよ。オロフは魔術が使えないばかりか、心まで歪んでいるようです」


 スイミーが小バカにしたように言って、クラスメート達も呆れている。


「オロフ。そのような稚拙ちせつな精神では魔術など使いこなせませんよ。さあ、水がないと授業が進みません。素直に頭を下げてスイミーから水をもらいなさい」


 カミア導師に叱られて、オロフはますます顔を真っ赤にして拳を握りしめている。


 クラリスはおろおろしながら、なんとかオロフを助けてあげたかった。


(ああ……せめて私に水が出せたら……オロフに分けてあげられるのに)


 ビーカーに手をかざし、水をイメージしてみるがやはり一向に創り出せる気配はない。


 焦って苦肉の策を思いついた。


(そうだわ。スピリットに頼んでみようかしら。今までこんなことを頼んだことはなかったけれど……)


 スピリットとは、クラリスの心の中に住むクラリスだ。


 自分であって、自分でない存在。

 自分でなくて、自分である存在。


 物心ついた頃には心の中に住んでいて、一緒に遊んでいた。


 クラリスは幼い頃から病弱で、何度も死に目に遭っている。


 十歳まで生きられないだろうと言われてベッドの中で過ごした。


 そんな孤独なクラリスが、心の中に生み出したもう一人の自分だと思っている。


 最初は熱にうなされているとき夢の中に現れる光の点のような存在だったけれど、今では心の中の小瓶こびんに住む小さなクラリスとしてイメージできている。


 寡黙かもくなクラリスは、彼女と会話することだけが日々の楽しみだった。


 その小さなクラリスがはっきりとした輪郭りんかくを持つようになってから、クラリスの体調はみるみる良くなって、この魔術学院にも入学できるほどになった。


 言わば、小さなクラリスは救世主のような存在だ。


 小さなクラリスは「元気になって、お父様やお母様を安心させてあげたい」という望みを叶えてくれた。それだけで充分で、それ以外の望みを告げたことなどない。


 どれほど学院で話せなくて落ちこぼれであっても、それを小さなクラリスにどうこうしてもらうつもりもなかった。


 一度だけ母に小さなクラリスのことを話したことがあるが、いつも穏やかで優しい母が珍しく深刻な顔をして「そのことは決して誰にも言ってはいけませんよ。お父様にも。そしてもう二度とスピリットと話してはいけません」と言われた。


 なにか良くないことなのかもしれないと、子供心に悟るものがあった。


 母はこの国の貴族としては珍しく、魔術や不可思議なものをひどく避けていた。


 そんな母の教育もあって、クラリスも魔術というものに消極的だった。


 母が亡くなった後もその教えを守ってきたけれど、小さなクラリスは命の恩人だ。


 だからこっそりと心の中に置いて、日々あったことを話すだけの存在になっていた。


 できることなら小さなクラリスに頼み事などしたくなかったけれど……。


(ねえ……。小さなクラリス。あなたは水を創り出せる?)


 心の中に問いかける。


 会話といっても、小さなクラリスは言葉を話さない。


 言葉よりももっと正確な感情だけを伝えてくる。


『任せて』という感覚。

 それから『クラリスが私を頼ってくれた』という喜び。

 さらに『ずっと待っていたのよ』という興奮。


 そんな感情が一瞬にしてクラリスの心に流れ込んできた。


(え? ずっと待っていたの? お願い事なんかして迷惑じゃなかったの?)


 けれど小さなクラリスは『まさか! 全然』という感情を返してくる。


 そうして、クラリスの前のビーカーにはじわじわと水か溢れてきた。


「え?」


 クラリスのつい漏れた呟きに、驚いたようにオロフが顔を上げた。


 その隣のスイミーも驚いた顔でクラリスのビーカーを見つめている。


(見て! オロフ! 水が出てきたわ! 私、できたのよ!)


 言葉にはできないけれど、喜びを表情でオロフに訴えた。


 これで落ちこぼれカップルなんてバカにされない。


 オロフがたとえ魔術を使えなくても、クラリスが貴族として最低限の魔術を使えたなら体裁ていさいは保てるはずだ。


 きっとオロフも喜んでくれる。


 そう思っていたけれど……。


 水に満たされていくクラリスのビーカーを見つめるオロフの顔は、さっきまでより更に引きつった表情になっていた。



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