すみれ

@otayu

すみれ

 ある四月の晴れた朝のことです。どこまでも広がる広い牧場に、一輪のすみれの花が咲いていました。

 一晩中降り続いた雨は、草を濡らし葉を濡らし、地面に水たまりを残して去っていきました。草や葉からは雫が垂れ、それが晴れ上がった太陽に照らされて輝いていました。

 すみれの花は、小さくうずくまるようにして咲いています。誰に知られることもなく、静かにそっと。本当に可愛らしいすみれの花でした。


 そこへ羊飼いの少女が現れました。少女は甘い草の香りを嗅ぎながら、軽やかな足取りで歩いています。濡れたくるぶしに濡れた草がつき、緑色の素敵な模様ができていました。少女はほがらかな心で、牧歌を歌いながら、すみれの方に向かっていきます。


 もしも私以外の人間が 架空の人物だったとして

 一体どのような影響がもたらされるのだろう?

 私には分からない 風に訊いても分からない

 トンボも泣く モグラも穴を掘るのをやめる


 少女が近づいてくるたびに、すみれは胸が苦しくなった。なにかグッとが込み上げてくるような感覚がする。すみれにはこの感情に、どのような言葉を割り当てたらいいのか分からない。それどころか、すみれは何かを感じるということがはじめてだった。すみれには分からなかった。どうしたらいいのだろう? すみれはいままで、ただそこにいて、風に吹かれてなびいていればそれでよかった。でもいまはそうじゃない。どうしたらいいのだろう?

 ああ、とすみれは思った。もしも僕が世界で一番美しい花だったのなら。彼女にそっと掴み取られて、ぎゅっと抱きしめてくれることだろう。たとえそれがほんの僅かな間でも、僕はそれのためにすべてを捨てられる。

 しかしすみれはなにもできません。すみれにできることは、考えることと待つことだけです。

 すみれは考えた。いままで自分が手に入れてきたものについて。僕はいったい、いままで何を手に入れたのだろう? 誰かを幸せにできたか? 何かを求めて手に入れたか?

 すみれは考えた。自分の存在意義について。僕はなんのためにここに存在しているのか? もし僕が消えてしまっても、誰も僕が消えたことに気づかないだろう。そんな僕に一体どのような存在意義があるというのだ?

 すみれには分からなかった。どうしたらいいのだろう?

 でも、すみれにはただひとつ分かっていることがあった。それはあの少女を求めているということ。それはたとえ世界がコーヒーカップであろうと、揺らぐことのない確かな想いでした。


 羊飼いの少女はどんどんすみれに近づいてきます。少女は一晩中降り続けた雨のあとの、澄み切った空を眺めながら歩き、牧歌は口笛のソロパートへ移行しました。広い牧場に、少女の温かな口笛が響きました。

 すみれは思った。少女が少しでもこちらを振り向いてくれば、僕の存在に気づいてくれれば……。

 しかしすみれの願いは叶いませんでした。少女はすみれの目の前まできても、すみれの存在にちっとも気づかずに、すみれを踏み潰してしまいました。すみれは倒れ、少女は去り、口笛の残響だけが残りました。


 でも、それでもすみれは喜んでいた。これで僕は死ぬけれど、死ぬけれど! あの子のせいで、あの子のせいで、僕は死ぬんだからな! あの子の足元で!


 一晩中降り続いた雨は、草を濡らし葉を濡らし、地面に水たまりを残して去っていきました。草や葉からは雫が垂れ、それが晴れ上がった太陽に照らされて輝いていました。

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