第6話 環極竜



「うそだろ、マジか?」



 クレイヴは顔を引きつらせて目の前の少女に言った。

 長かったはずの白い髪が、肩の辺りまで切られているソニアの姿に、クレイヴは顔を覆って抑えた。

 クレイヴに弟子入り志願を断られた次の日、ソニアはまたもや彼の家を訪れていた。



「はあ、クソッタレ……」



 天井を仰ぎ見る。そしてソニアを見下ろす。彼女の瞳は、まだ幼い少女でありながら、あまりにも強い。だがそれでいて、あまりにも光が灯っていなかった。

 憎しみに近い。少女、子供が持っていていい瞳ではない。



「これでも、ダメですか?」



 ソニアが一歩だけ詰め寄る。その瞳には憎しみの他にも、明らかな覚悟が強く滲んでいた。

 クレイヴはそれを見逃さない。詰め寄られても、クレイヴが怯むことはなかった。

 テーブルの上に置かれたカップを手に取り、既に冷えてしまったココアを一気に飲み干して言い切った。



「ああ、ダメだ」

「どうして……!」



 拒否したクレイヴにソニアは声を荒げる。胸に手を当てながら、クレイヴに詰め寄って説明を求めた。

 まだ子供であるソニアには理解できなかったからだ。

 拳を強く握り締めながら、俯いて床の木目を睨む。そして噛み締めるようにして声を漏らした。



「……わたしが、お姉さんを死なせてしまったから、ですか……?」



 クレイヴが舌打ちをした。

 クレイヴがソニアを弟子にしてくれない理由があるとすれば、口に出したそれだ。

 家族の死に関わっている者など、遺族からしてみれば顔も見たくないだろう。



「あのなあ」



 クレイヴの言葉に恐怖で手が震える。それでもソニアは逃げなかった。

 クレイヴを見上げると、彼は大きく溜め息を吐きながら頭を掻く。怒りともいえない呆れを含んだ溜め息だ。

 彼からの憤怒を覚悟していると、頭の上に手を置かれた。



「君の所為で姉さんが死んだ、それが理由で弟子にしないわけじゃない」



 きょとん、と音がなった気がした。

 怒りの声が降り注ぐと思いきや、それとは想像とまったくの真逆──優しげな声がソニアの頭を撫でた。



「どう、して……でも、わたしの所為で、リタさんが……」

「そんなに自分の所為にしたいの?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「なら、直ぐにやめるんだ」



 クレイヴはソニアの短く切られた髪に触れる。さらさらな雪がクレイヴの指に梳けていく。そんな髪を見つめながら「ったく、本当にやるなんて……」と彼は呟いた。



「取り敢えず、座って」



 クレイヴに促され、対面の椅子に腰を下ろす。机にココアの入ったカップを出される。それを指して「飲め」とクレイヴはソニアに告げた。

 ココアを見下ろし、手に取る。温かい感触が手から蚕食していくのを感じる。視線をクレイヴに向けると、彼は顎でまた「飲め」と合図した。


 温かなココアが喉の奥を流れていき、香りの良い風味が鼻を抜ける。一口をじっくりと味わって、思わず息が漏れた。久々の温かみに浸っていると、彼が「美味いだろう?」と優し気に言った。



「寂しい時や、辛い時は、いつもこのココアを姉さんは作ってくれた」

「リタさん……」

「姉さんは大人になってから、子供たちの安全をいつも考えてた。俺みたいな子供がいつだって笑えるようにね」



 クレイヴは棚に飾られた写真立てに視線を移す。そこには二人の幼い姉弟が笑顔を浮かべていた。心が温まるようないい笑顔だった。



「そんな姉さんが、命を懸けてまで君を救ったんだ」



 クレイヴはゆっくりと立ち上がって、椅子にちょこんと座るソニアの横で腰を曲げて視線を合わせた。

 優しく微笑む彼の声色は、とても優しくて──だから、と言葉を繋いだ。



「君を恨むわけがないよ」



 とても、優しい言葉だった。

 本来なら叩かれてもおかしくないのに、彼は優しく微笑んでいた──わたしが罪悪感で押し潰されないように。



「俺が君を弟子にしない理由は、ただ一つ。姉さんから救って貰った命を無駄にしようとしてるからだ」

「無駄なんかじゃありません……!」

「──自惚れるな!」



 ソニアの言葉に、クレイヴは初めてその声色に怒りを滲ませていた。

 だが、そこに憎しみが含まれているわけではない。本気でソニアの身を案じている、優しさを含ませた怒りの叱咤だった。



「戦いに傷つき、血で手を汚すのは、俺たちのような大人だけでいい。俺たちは平和を望み、将来のある子供たちが笑って過ごせる世界にしようとしてるんだ」



 ブラードの侵攻で村や国が滅ぼされ、人々は大切なものを失う。それを防ぐために王国の騎士団が存在して、兵士たちは未来の安寧を祈り、命を賭してその身を燃やす。

 リラレスタ・ダンヴァースは、未来で子供たちが戦わない為に命を懸けた。その結果が、ソニアである。ソニアのやっていることは、リラレスタに願いを潰す行為だった。



「君は、戦いのない時代に生まれたはずだった。平和に生きるはずだったものが壊された。だから、姉さんの祈りを無駄にしないでくれ。これから先は、戦いを知らないで生きてほしいんだ」



 クレイヴは懇願していた。

 ソニアには平凡に生きてほしい──リラレスタはそう願ってソニアを助けたはず。その願いを無かったことにする。それはリラレスタの命を無駄にするようなことだった。

 クレイヴにはそれが許せなかった。



「姉さんが言っていた。子供の未来は世界の宝。それを守るのは、大人の役目だって」



 だが、それでもだ。

 ソニアの意思は決して曲がらなかった。



「わたしのこの命は、リタさんのおかげであります。だから、この命をどう使うかは、わたしが決めます」

「それじゃあ、姉さんの命は無駄になるんだよ……!」

「──違います!!」



 ソニアは声を荒げてクレイヴに詰め寄った。

 その瞳は少女の持つそれではない。光の灯っていない瞳でありながら、そこには明らかな覚悟が籠っている。それの放つ威圧感に、クレイヴは僅かに後退った。

 首に掛けられた蒼い輝石のネックレスに触れながら、ソニアはあの惨劇をまぶたの裏に思い浮かべる。そして覚悟を決めてクレイヴを見据えた。



「わたしは、リタさんにこの命を救われました。だから、今度はわたしが皆の命を救いたいんです。リタさんのようになりたい──それが、わたしの夢なんです!!」



 瞳を閉じる。そのまぶたの裏には、彼女の姿が映る。振り返り、その蒼い双眸でわたしを見つめて彼女は言った。




『──諦めるな』




 あの言葉が、ソニアの大海に火をつけた。

 あれだけの絶望も、その言葉があったからソニアは今も前を向いて歩くことができている。断られただけで諦めるほど弱くはない。ソニアの想いは確固たるものに築き上げられていた。



「──わたしは、絶対に諦めません」



 ソニアはクレイヴを睨むように強く見据え、正面から啖呵を切った。



「わたしは、戦えない人たちのために──戦わなくても良い世界にするために、冰剣の聖騎士になりたい!!」



 世界から戦いを消す──そのために戦う。まだ幼いソニアが見出したその矛盾こそが、彼女の原動力でもあった。

 復讐のために燃えるはずの心は、あの時出会った冰剣の聖騎士のよって塗り替えられた。

 そんな大言壮語を吐き捨てたソニアの瞳に灯る覚悟を、クレイヴは決して見逃しはしなかった。



「ああクソっ」



 汚い言葉を吐き捨てて、クレイヴは頭を抑える。そして「不器用なくせに……」と小さく口の中で打ち漏らした。

 自分の中で渦巻く果てしない感情に、姉から託された想いが混じる。両手で顔を覆い尽くし、大きく溜め息を吐いた。

 ソニアの想いに対するクレイヴの覚悟は決まった。

 クレイヴの答えは────、




「──やっぱダメだ」




 それがクレイヴの答えだった。

 ソニアはクレイヴにつまみ出され、背後で勢いよく扉が閉められた。

 家の外に一人で追い出されたソニアは、ゆっくりと振り返り、大きくそびえ立つ家を見上げる。無情にも、その家がなにか理由を答えてくれるわけではない。それでも、ソニアはどうして追い出されたのか、その理由を求めてしまった。



「どうして……」



 分かっている。分かっているはずなのに、その理由を声に聴いて自分を納得させたかった。

 彼からそれさえ聞ければ、自分はこの夢を夢で終わらせることができる。だから、家の扉を叩いて彼を呼んだ。

 自分勝手な願いだ。それを彼に押し付けることがどれだけ傲慢であるのか、そんなこと理解している。それでも、この願いを叶えるには、彼の力が必要なのだ。



「おねがい……です。わたしを、見捨てないで……」



 そんな身勝手な言葉が漏れた時、茂みの奥でなにかが音を立てて揺れる。直ぐに視線を向け、恐怖で身体を強張らせてしまう。あの時の恐怖がこみ上げ、王国の中にブラードがいるはずがないことさえも忘れ、ソニアは尻もちをついた。



「い、いや……」



 逃げようにも、完全に腰を抜かして脚が上手く動かせない。叫ぼうにも、顎は痙攣したように歯をカチカチと鳴らすだけだ。

 茂みが葉音を立てる。枝が折れる音、その響き渡る足音が、なにかがゆっくりと近づく何かの存在を一歩づつと知らせている。鼓動が激しく鳴り、息遣いが荒くなっていくのを自分の身を以て理解した。



「あ、あ、ああ……」



 目の前の茂みが一層激しく揺れた瞬間、ソニアはまぶたを強く瞑った。

 痛みと恐怖の支配を短い間で克服できるほど、ソニアはまだ大人ではない。目の前に迫る絶望を見据えることもできない。あの時の惨劇が脳裏にフラッシュバックした直後に、茂みからなにかが飛び出した。



 ────死ぬ。



 全身に疾走る衝撃は、激痛に変化する──



《 なんだお前は! 》



 素っ頓狂な声が直接頭に響くと共に、額をデコピンされたような一瞬の痛みが走る。思わず額を抑えながら片目を開けると、そこにはがいた。



「えっ、なにこれ……」

《 これとはなんだ人間! 》



 なにやら憤慨している様子のは、蛇のような見た目をした小さなドラゴンだった。

 一概に蛇といっても、その背中には翼を生やし、それを羽ばたかせることなく宙に浮いている。更にその身は竜の鱗で覆われていた。

 人間の赤ちゃんほどの大きさをした可愛らしい生き物に、ソニアは思わずきょとんとした表情を浮かべてしまう。



《 まったく、最近の子供はしつけがなっていない! 》



 くるりとその場で回転して見せると、鋭い牙の生えた口を大きく開きながらその竜は憤慨していた。



《 フン、だがまぁ、許してやるぞ人間。お前からはなんだか懐かしい感覚があるからな 》

「懐かしい感覚……?」



 そうだな、と呟いた竜は身体をくねらせながらソニアの周りを飛んでじっくりと観察する。時にソニアを嗅ぎ、息がかかるほど近くに顔を寄せた。



《 気に入ったゾ! 他の人間だったら噛み千切ってやるところだが、お前は許してやろう! 》

「あ、ありがとう、ございます……?」



 呵々かか、と笑う蛇の竜。初めて見た生物な上に、意味の分からないこの状況にソニアは困惑するしかなかった。

 円を描いて飛翔する竜は上機嫌な様子でソニアの周りを何度も回っていた。



「あ、あの、あなたは……?」

《 お前、オレ様のことも知らないのか? 仕方ないな、なら教えてやろう。覚悟して聞け! 》



 そういうと、竜はソニアの前で大きく翼を広げて叫んだ。



《 オレ様はこの世の全てを総べる存在! 次元を喰らいし無限と円環を司る唯一無二の竜!! そうだ、オレ様の名は──! 》



 そこまで叫んで、最後にその名を語ろうとした時、その竜はクレイヴに首をがっしりと掴まれて名乗りを遮られた。



「なにしてんだお前。ギャーギャーやかましい」

《 離せ! オレ様の久々の名乗りを邪魔するな!! 》



 クレイヴの手から逃れると、竜はその小さな口でクレイヴを噛みつこうとする。だが易々と躱され、頭をがっしりと掴まれてしまった。



《 あああああ! 離せ離せ!! クレイヴのくせに生意気だぞ!! 》

「今日はなんでそんなに叫んでるんだ」



 身体をめいっぱいくねらせることで勢いをつけ、クレイヴのその手からもう一度逃れると、ソニアの背後に隠れる。その様子を見ていたクレイヴは、なにやら驚いた表情を浮かべていた。



「驚いたな。俺と姉さん以外には近づかないのに」



 背後に隠れる竜を一瞥して、ソニアは恐る恐るその手を伸ばす。するとソニアの手のひらに頭を擦り付けた。



「あ、あの、この子は……」

「そいつは環極竜かんごくりゅうウロボロスのだ」

「環極竜……?」

「円環を司り、無限を象徴する竜で、竜種の中でも最上位の存在……とされてる」



 最後の言葉になにか含みを持たせたクレイヴの視線が、ロビーに向けられる。それを辿ってソニアもロビーを見つめるが、その姿はあまりにも竜種最上位の竜とは思えなかった。

 可愛らしいのだ。竜のような恐ろしさもなく、子供の竜としてもかなり小さい。まるでマスコットだ。



《 なんだ、なんか文句でもあるのか! 》



 睨むロビーにソニアは慌ててふるふると首を振った。

 「手を出せ」と言われるがままに腕を出すと、ロビーはソニアの腕の中で身体を丸める。そのまま落ちないように抱き抱えれば、クレイヴが感嘆の声を漏らした。



「初対面でそこまでロビーが心を許した人間は、君が初めてだよ」

「いい子ですね」

「君と姉さんだけだよ。俺には微塵も懐いてくれないさ」



 それはそう、とさっきの出来事を思い返しながらソニアは苦笑する。無理やり頭を掴んだりして懐かれるはずがない。

 対して、ロビーはソニアにかなり懐いている様子だった。



「可愛いですね、ロビーさん」

《 特別だ! お前はロビーと呼べ! 》

「ありがとうございます、ロビー。わたしはソニアです」



 良い名前だ、とその名を称賛するロビーにソニアは軽く頭を下げる。その様子を首を傾げながらクレイヴが見ていると、突如として遠くで激震が奔った。それと同時に原因であるであろう爆発が大気を吹き飛ばしながら、轟音を天に轟かせた。

 一気に昇った爆炎の有様を理解し、逡巡を押し切ってクレイヴはソニアを抱き寄せた。煙が巻き上がったのも束の間、耳を聾するほどの轟音が響き、地鳴りと強烈な衝撃波がクレイヴの身体を吹き飛ばさんと襲った。



「────ッ!!」



 震える激震は足元からクレイヴとソニアの臓腑を揺すり、自分の身体を盾にしてソニアの矮躯を庇った。

 辺りの木々が衝撃波に耐えかねて根本から倒れる。その内の一本が不幸なことにクレイヴたちの頭上に降りかかった。

 クレイヴはロビーの鳴き声でその倒木の存在に気が付き、慌てて左腕を伸ばして叫んだ。



「──アイアスッ!!」



 その言葉に呼応してクレイヴの左腕が僅かな光に包まれると、蒼碧とした淡い輝きがクレイヴと倒木の間に障壁を生み出す。それに倒木が触れた直後、燐光を瞬かせながら勢い良く弾かれ、別の方向へと倒れた。



「大丈夫か?」

「は、はい……けど、いったいなにが……」



 クレイヴがソニアの無事を確認しながら爆発の方向へと目を向けて「分からない」と首を振った。

 突如として起こった出来事に困惑していると、道の奥からセラフ王国の騎士団である『リヴァーレ騎士団』の兵士二人が肩を大きく上下させながら顔を出した。



「ダンヴァース殿!!」

「手を貸してください!」



 なにか重大なことを漠然と察したクレイヴは立ち上がりながら、兵士に「なにがあった?」と冷静に問いかける。すると二人は慌てた様子で声を荒げた。




「──ブラードの軍勢が結界を突破しました!!」




 兵士の言葉に、クレイヴの表情が怒りに満ちていくのをソニアは見逃さなかった。

 握り締められる拳が震えている。自身の姉を殺した奴らへの憎しみが募っていくのを、まだ幼いソニアにも理解できるほどクレイヴの怒りは明らかだった。

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