第4話 宵闇、嘲笑う過去

 




 ふらり、ゆらり、朦朧とする意識が波に揺られて浮き沈みを繰り返す。常闇に飲まれたその身体は、もはや形を保っておらず、ただ潮騒に流されて深い海の中へと沈んでいった。


 此処に来て最初に視るのは、過去の景色ばかりだ。

 母親の罵声、父親の怒声。そして真っ白なベッドから、冷気に晒されて枯れてしまった木々を窓から眺めた。


 首をめぐらせれば、そこにはいるはずのない姉さんの姿と、取り繕った笑みを浮かべる医者と看護師の三人がいた。



「ちっ、ふざけんなよ」



 思い出したくない過去の情景に嫌気がさす。それと同時に「なるほどな」と自分が此処にいる理由を察した。

 舌打ちを漏らし、更には溜め息を吐いた。


 虚空に漂う景色。暗澹とした世界で、視界を巡らせてもあるのはただの暗黒。あの頃に慣れたはずでも、やはりこの闇は幾つになっても恐ろしい。


 光を飲み込む無限の闇。其処には一筋の光すら存在しない。奇跡も、希望も、その闇にすべて飲み込まれてしまう。いつもそこで、ただ暗黒に身を任せるしかない。



「ああ、また……俺の邪魔をするのか……」



 悔しさのあまりに拳を握り締める。だが、その拳はどこにいってしまった?


 なにもできない。そんなすべてを飲み込む闇の中で、昔となにかが違っていた。


 眼前で、一筋の光が瞬いた。

 誰の介入も許さない闇に輝く、遥か彼方の星のような光。それはあまりにも酷く輝いていて、耐え切れずに手で視界を遮った。

 瞬間、声が聞こえた。



『──師匠っ!!』



 聞きなれた声だ。

 ずっと、この場所で誰かを待っていた。

 あの時、誰も助けてくれなかった。


 誰でも良かったから、この闇から連れ出してほしかった。だけど、誰もが見捨てた。それでも誰かが手を差し伸べてくれると信じて、その手を伸ばし続けた。

 闇を切り裂くその光を求めて────。



「ああ、チクショウ……」



 開口一番に、そんな言葉が漏れ出た。

 恨み言を吐き捨てて、ゆっくりと瞳を開く。僅かに吹き込んだ風が光を運び、その眩しさに意識が眩んだ。


 視界が明滅する中、未だぼんやりとする意識で何度かまばたきを繰り返しながら、安寧の光に視界を慣れさせた。

 鮮明になる意識と共に、視界がハッキリと映るようになって、クレイヴはまず窓の外に目を向けた。



「桜、まだ散っていないんだな……」



 あの時と違って、桜はまだ枯れていない。むしろ満面に咲き誇って、恍惚とした桜が外の喧騒を運んでいた。

 美しい景色に溜め息を漏らすと、肺が刺されるような痛みが奔った。



「クッソ……」



 胸を抑える。脈打つ鼓動に苛立ちを覚えた──いや、その苛立ちを

 ゆっくりと瞳を閉じて、肺から全身に伝わる痛みに耐えながら深呼吸を繰り返す。そうすれば、静謐な空間に胸の内に灯る鼓動が喧しいほど鳴り響いていた。

 静寂で彩りのない真っ白な部屋キャンパスには、見覚えがあった。何度も見た思い出したくもない病室だ。



 ────お前の身体は、もう死んでいる。



 かつての言葉が、脳裏を過ぎった。

 腕に力を込めると、筋肉が痙攣したように痺れ、全身に痛みが奔る。そして何かを握り締めていることに気が付いた。

 この駆け巡る激痛に顔を歪めながら、その正体を探ってクレイヴは思わず笑った。



「まったく、君ってやつは……」



 呆れを含んだ笑いを漏らして見てみれば、握り締めていたのは彼女──ソニアの手だった。

 当の本人は椅子に座りながら、項垂れるようにしてぐっすりと眠っている。どうやらかなり迷惑をかけてしまったようだ。



「ソニア、起きて」



 痛みを噛み締めながら、声色は平然を装ってソニアの肩を揺らす。すると彼女は「ん、んん」と何度かまばたきを繰り返して目が覚めた。



「起きた?」

「はい……」



 寝起きに弱い所為で、まだ思考がぼやけているらしい。

 ソニアは目を擦り、そこでようやく異変に気が付いた。



「えっ、あっ、師匠!! 目が覚めたんですか!?」

「おはよう」

「おはようって……心配したんですよ!? 丸一日も目が覚めなくて、私っ、本当に心配で……っ!」



 いまにも泣き出してしまいそうなソニアの震える声に、胸が痛い。

 丸一日──感覚的にはそんな感じはしていないが、彼女の姿を見るにどうやら本当のことらしい。記憶に新しいソニアの姿は、身だしなみが整っていた。

 だがいまのソニアは髪が乱れ、その表情から疲労が見て取れる。さらには悲哀が目尻から頬を辿っていた。

 その理由は考えずとも直ぐに理解できた。



「心配かけたね。ごめん」



 謝罪の言葉と共に、呼吸を漏らす。その度に肺と喉が焼けるように痛い。心臓が脈打つ度に、そして血液が血管を通る度に、身体は激痛にその呻きを上げた。

 その言葉をかけると、ソニアが飛びついてきた。

 内側で弾けるような痛みが迸る。それでも苦痛を噛み締めて、必死に声を抑え込んだ。



「おおっと」

「ほんとに、心配で……! 師匠が死んじゃうんじゃないかって、怖くて……!!」



 抑え込んだ感情が一気に吐き出される。ソニアはクレイヴの腰に手をまわし、胸の中で嗚咽を漏らす。その感情を大きく露わにしながら、クレイヴを強く抱き締めていた。

 その伸ばされたソニアの腕に力が込められる度に、クレイヴは身体を引き裂かれるような激痛を味わった。だがそれすらも嚙み殺して、クレイヴは耐えた。

 耐えて、ソニアの背中に手をまわし、優しく抱き締めた。



「ごめんね、ソニア」



 謝罪の言葉を呟きながら、クレイヴは彼女の頭をゆっくりと優しく撫でる。感情の渦が、流れることを抑えていた防波堤を粉砕。箍が外れたように、ソニアの瞳からポロポロと溢れるように涙が流れた。

 頬に軌跡を描き、クレイヴの胸に染みを広げた。



「私……っ! どうしたら、いいかっ、分からなくて……! もう、師匠がいなくなっちゃうんじゃないかって……!」



 引き裂かれるような激痛が身体中を跋扈するよりも、彼女の瞳から溢れる涙がなによりも胸を締め付けた。

 ぶちまけられる感情を真正面から受け止めて、クレイヴはとっくに捨てたはずの過去に覚悟を灯して「ねえ、ソニア」と切り出した。



「話したいことがあるんだ」

「あっ、すいません……!」



 慌てて離れたソニアは、椅子に座り直す。乱れた髪を整えて、頬に描かれた軌跡を拭い、最後に赤くなった鼻をすすった。

 盛大に感情をぶちまけ、些か恥ずかしげに頬を朱色に染めていた。

 胸が締め付けられるような痛みを抱きながら、クレイヴは口を重々しく開いた。



「こんな形でを話すことになるなんて思わなかった」

「師匠の身体になにが起こっているんですか……?」



 微笑みながら語り始めるその台詞に、ソニアは僅かに目を見開いて覚悟を決める。固唾を飲んで、息を呑み、クレイヴからの言葉を待った。

 クレイヴは深々とベッドに体重を預けて、何色にも染まっていない真っ白な天井を仰ぎ見ながら口を開いた。



「俺は子供のころ、とあるブラードにをかけられた」

「のろ、い……?」

「死の刻動──エン・ヴォルシン。それがこの呪いの名前だよ」



 クレイヴは自身の胸──心臓に手を当てた。

 呪いとはブラードが扱う魔法の一つであり、人類では解明できず、それを解除する方法もいまはない。故に、呪いが発動すれば終わり。人類にとって最悪の魔法だ。

 かつて戦いに巻き込まれた時にかけられた死の呪い。医者はそれを『死の刻動エン・ヴォルシン』と名付けた。



「呪いなら、発動の条件はいったい……?」



 いずれも呪いには発動に必要な条件がある。どういった原因なのか、いまの人類では解明できないが、呪いは条件を満たせなければ、呪いは発動しない。

 ソニアの言葉に対して、クレイヴは無言でゆっくりと視線を落とす。そして自身の心臓に手を当てた。



「条件は──鼓動だ」



 意味の分からない言葉に、ソニアは思わず困惑の表情を浮かべていた。



「条件が鼓動って、どういうことですか……?」



 クレイヴの言葉を何度か呟いてから、ソニアは疑問を投げる。呪いが発動するのに必要な条件。クレイヴの鼓動が指すものは────、



「俺の心臓は、呪いの所為で本来は綺麗な血液を送るのが、逆に悪い血液を全身に送る」



 生命すべてが持っている心臓。それは生命が生命であるために必要な存在で、心臓無くして生きることはできない。

 心臓が鼓動する度に、本来は全身に満ちた血管を駆け巡っていく。だが、クレイヴの場合は文字通り逆なのだ。

 心臓が鼓動することで呪いが発現する。



「それに最悪なのは、その血液が俺の動きや感覚、刺激にあわせて激痛を与えるんだ」



 症状の意味を理解して、ソニアは自分の行動ハッとを思い出す。「そ、それじゃあ今も……」と漏らした声にクレイヴは苦笑しながら頷いた。



「ご、ごめんなさいっ! わ、わたし、そんなことも知らなくて……!」



 慌てて頭を下げるソニアにクレイヴも首を振った。



「いやいやいや、謝らなくていいよ」

「で、でも、師匠は今も辛いのに……!」



 今にも泣きだしてしまいそうなソニアの頭に手を置き、クレイヴは優しく撫でながら微笑む。大粒の涙を目尻に浮かべるソニアに向けた笑みは、どこにも苦痛に歪む感情はどこにも存在していなかった。



「ごめん、なさい……」



 それでも、ソニアの頭を撫でる手は僅かに震えていて、それが彼女の胸を更に締め付けた。

 クレイヴは「大丈夫だよ」と優しい声色で微笑みかける。取り繕ったはずのその微笑みは、いつもと変わらない笑みに見えた。



「症状自体は、線維筋痛症せんいきんつうしょうに似ているんだ」

「それって、全身の様々な場所に激痛が起きる病ですよね……」



 よく知ってるね、と感慨深く声を漏らすクレイヴの額には汗が滲んでいた。

 線維筋痛症は、人によっては光や風といったものでさえも激痛を伴う。風を受ければ、身体を切り裂かれるような痛みを。光を浴びれば、全身を灼かれるような痛みを。



「心臓は鼓動する度に血液を循環させる。つまり、この呪いは俺の鼓動を止めなければ解除できない」



 即ち、死の刻動は解除できない。

 クレイヴから語られた言葉に、ソニアは絶句するしかなかった。

 言葉がでない。なんと声をかけるべきなのかもわからない。すると、クレイヴは自分の心臓の辺りを白衣が引き千切れんとばかりに握りしめた。



「ああっ、チクショウ……この心臓が動いてる限り、俺の身体は蝕まれ、心身共に削られていく。昔から、何度もこれを叩き壊してやろうと思ったことか」



 鼓動が止まれば、呪いから解放される。だが、クレイヴの命は消える。

 鼓動が動いている限り、クレイヴの身体は常に激痛に侵される。

 訥々と告げられる真実に、ソニアは唇を噛み締めた。

 自分にできるなにかがないかと、思考を巡らせても現実はあまりにも無常だった。だが、そこで疑問に思うことがあった。



「その呪いって、小さい頃にかけられたんですよね。条件が鼓動なら、どうしていまになって呪いが発動したんでしょうか……」



 クレイヴの年齢から考えて、少なくとも呪いをかけられてから約20年の時は経っている。呪いが発動していなかった条件を見つけられれば、クレイヴを苦しみから解放できるかもしれない。

 クレイヴは儚げに微笑んで答えた。



「呪いをかけられたあの日から、俺はこれに苦しめられ続けた。だけど、ある日──姉さんが聖剣に選ばれた」



 クレイヴの姉──冰剣の聖騎士が、冰剣と呼ばれる所以はその聖剣にある。不滅の聖剣デュランダルは、その名前の通りで所有者に不滅の加護を与える。あらゆる攻撃を防ぎ、あらゆる能力をも受け付けない。まさに無敵の聖剣だ。



「姉さんはあの日から、俺に加護の一部を与えたんだ。だから、あいつが倒されるまで俺の呪いは発動しなかった」



 だけど、そう言葉を続けたクレイヴの表情が一気に曇った。



「姉さんは死んだ。聖剣の行方は分からず、俺の加護は消えた。それでも姉さんがこの呪いをかけたブラードを倒してくれたおかげで、俺は普通の生活ができたんだ」

「それじゃあ、いまになってその呪いが発現したのは……」



 ようやくそれを理解したソニアに「そうだ」とクレイヴは頷いた。

 吐き出された吐息には悔恨が吹きこぼれ、憎悪となって言葉に現れた。



「──そいつが蘇ったんだ」



 クレイヴは白いシーツを強く握り締めた。

 彼の漏らす呻きは、やがて向ける場所のない憎しみへと成り果て、悲しみと共に滲み出ていった。

 向き合うべき現実は、あまりにも非情だった。



「俺は、姉さんがいなきゃ生きることすらできない。俺の命に、意味なんてなかったよ……」



 珍しく弱音を吐くクレイヴが、胸を抑えながら天井を仰ぎ見る。その瞳は慟哭が響き、ソニアは思わず顔を伏せた。

 自分の手は首にかけられたネックレスに伸びた。蒼い輝石に触れて、すべきことを見い出した。

 ゆっくりと手を伸ばし、クレイヴを優しく抱き締めた。



「ちょ、ソニア……?」



 ソニアの突然の行動にクレイヴは困惑を隠し切れなかった。

 抱き締められて身体が痺れる。痛みで麻痺した感覚の中で、包み込まれるような温かな感覚が痛みを和らげた。

 漠然とした感覚だ。



「そんな悲しいこと、言わないでください」



 訥々と、悲哀が漏れた。

 ソニアの胸に中で、クレイヴは心地の良さえを感じて瞳を閉じる。包み込む温かな感覚を、懐かしく思っていた。

 背中に回されている腕が微かに震えている。その手に触れて、クレイヴは「ごめん……」と小さく呟いた。



「私には、師匠の苦しみは分かりません。痛みも、過去も……」



 頭の上から鼻をすする音が聞こえる。鼻息も僅かに荒い。それでいて、吐き出された言葉は震えていた。

 それでも、とソニアはそう言って離れる。柔らかな感触と温かな感覚が遠退いていき、彼女の顔が映った──涙で顔を汚しながらも、優しく微笑む彼女の顔が。

 そんな彼女が、自身の胸に手を当てて言った。



「だからって、諦めていい理由にはなりません」



 クレイヴは目を見開いた。

 ソニアはシーツに投げ出されたクレイヴの手を取り、包み込むように自分の手を重ねた。



「同じものが分からなくても……分かち合えなくても、手を差し伸べることはできます」



 ソニアは目尻に大粒の涙を浮かべながら、柔らかく微笑んだ。



「命に意味がないなんて、そんなこと言わないで。私は、師匠に出会えて本当に良かったと思っていますから」



 瞳を閉じて、ゆっくりと頷く。そして自身の胸に手を当てたソニアは「なので」と言葉を繋ぎながら、瞳を開いた。



「──諦めるな。師匠からも、お姉さんからも言われてきた言葉です」



 昔から、ずっと胸に刻まれ続けたこの言葉を、ソニアは忘れずにいる。彼女の真っ直ぐな言葉を受けて、クレイヴは眼を見開いた。

 彼女の言葉を胸に抱き、彼女の瞳を真っ直ぐ見据える。そして優しく微笑むと、クレイヴはソニアの手を取った。



「ありがとう。君を弟子にしてよかったよ」

「えへへ、そんなの当たり前です」



 胸を張って威張るソニアに対し、クレイヴはベッドにもたれかかった。

 僅かに微笑んで返すと、ソニアの格好を一瞥。「ちょっとそこに立って」と横に立つように促した。

 ソニアは首を傾げながらも、ベッドの横に立つ。姿勢を正して、クレイヴを言葉を待っていると、彼は値踏みをするように彼女の真っ白な姿を眺めた後に言った。



「いまさらだけど、その格好はなに?」

「可愛いですか?」



 くるりと一回転して見せて、ソニアは微笑む。真っ白なスカートをはためかせ、可愛らしい女の子のように笑って見せた。

 そんな彼女の姿をじっくりと眺めた。

 身体のラインが見える黒のインナーに、白を基調とした上着とスカート。腰に巻かれたベルトは剣が下げられていて、僅かにたるんでいる。その姿を見つめた後に、クレイヴは言った。



「スカート短すぎ」



 すらりとした綺麗な脚を指さして告げた。

 ソニアはクレイヴの視線を察して、慌てて脚を隠す。僅かに頬を赤くした彼女はクレイヴを睨むように目を眇めた。



「変態」

「これは師匠としてのアドバイスだ。その格好でハイキックはやめておけ。パンツが見える」

「ショートパンツ履いてます!!」



 怒りともいえない羞恥心で声を荒げるソニアに、クレイヴは悪戯な笑みで微笑んだ。

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