歌坂瑞月の羨望

 夏本番の7月中旬。俺――間縞まじま伊織いおりは蝉の声を背に受けながら、プールサイドの日陰に体育座りをしていた。

「――それじゃあ、こっからは自由に練習時間だー。体調不良はちゃんと申告しろよー。」

 今日はプール開き。俺は着替えるのが面倒なのと、体育が嫌いなのを理由に見学していた。ワイシャツが汗で背中にへばりつく気持ち悪さを覚えながら、そっと水辺に近づく。ギリギリ日陰になっているプールの縁に腰を下ろしてズボンの裾をたくし上げて足を水につけた。ぴちゃ、という音がして足が濡れていく。

「……ぬっる。」

 水、というより何か得体のしれないドロドロした何かに足を突っ込んでいる様な感覚になったが、少しだけ涼しくなったような気がしたので我慢して足を動かす。若干濁った水の中で、俺の足はやたらと白く見えた。

「サボりとはいい度胸だね、しましま君。」

 正面から聞きなれた声がした。視線を自分の足から正面に移す。――と、思い切り水を顔にかけられた。

「……何してくれてんだおい。」

「ははっ、これで少しは涼しくなったんじゃない?」

顔にかけられた水を手で拭いながら、俺は水をかけてきたそいつ――天野あまの凛子りこを睨んだ。相変わらず癪に障るニヤニヤとした笑みを浮かべながらプールに浸かっている。

「君だけ甘い汁を啜るなんてこと、許される訳無いでしょ?むしろこの程度で済むことに感謝した方が良いね。」

 いつも通り軽口を叩く天野。クラスメイト達は日の当たる方で思い思いに遊んでいるため、こちらを見向きもしない。そのせいで天野は素を曝け出して喋っていた。いつも通りの事だ。……なのに。

「……。」

「……まさかとは思うけど、しましま君。君、私の水着姿であらぬことを考えてるの?」

「なわけあるか、ふざけんな。」

 いやまぁでも、全くそうではないと言ったら嘘になる。長袖ラッシュガードの上からでも分かる女子らしい体つきに、水に濡れてどこか艶やかな佇まい。……あれ、コイツってこんなに出るとこ出てたっけ。着痩せってこういう事なんだろうか。スタイルが良いとは思っていたが、こうも完璧だったっけか……?

「まぁでも君の事だから、下心っていうよりは疑問なんだろうね。」

 褒められているのか、ディスられているのか。ボーダーラインではあるが気にしないでおく。天野はにっこりと笑うと俺に言った。

「そういやしましま君。今日の放課後空けておいてね。」

「何する気だ?」

天野は俺に用がある時、『今日暇?』では無く『今日空けといてね』と言うのだ。俺が付き合うのは絶対に確定というのが前提で話が進む。……コイツこういうところに可愛げの無さが滲み出てるんだよな。

「ふふ、内緒。」

 楽しそうに笑いながら人差し指を口に当てる天野。俺はただ嫌そうな顔をする。

「じゃあ、私は柚巳ゆずみちゃんと遊んでくることにするよ。――またね。」

 天野はそう言って会話を切ると、ヒラヒラと手を振りながら日向へと歩き出した。端の方で居心地悪そうにしている池名いけなさんが見える。

「……暑いな。」

  プール入れば良かったかもな、と不覚にも思った。


「……悪い、うまく聞き取れなかった。」

「だから、告白されたんだよ。」

 放課後。天野は、さも当然の様に俺の家に上がり込むと、ゾンビゲームをしながらイラつき気味に言った。

「しぶとっ……。は、当たってんだろうが。死ねよ。」

 いや、うん。怖いなぁ天野ちゃん。……違う、そうじゃない。天野が普通に俺の家に上がり込んでいることも問題だが、今はそうじゃない。

「……何処のバカだ。お前に告るとは。」

「失礼極まりないね、しましま君。……ちっ、ふざけんな。くたばりやがれー、クソゾンビ。」

「天野、1回落ち着け。」

 コイツ何気にゲーム下手だな。感情に任せてゾンビを撃ち殺してる感じがする。というか、こんなに罵詈雑言吐きながらホラゲする奴もなかなか居ないんじゃないか……?

「で、誰だよ。」

「ぐおっ。はぁ?ズルいズルい。今の避けられる訳無いじゃんっ。クッソ死――」

「誰だ?」

コイツのキャラがどんどん崩壊していく。潜在的にそれを止めなくてはと思い、天野の暴言を遮って尋ねた。

「――歌坂うたさか君、って人。」

 天野は眉間に皺を寄せてPCのモニターに映るゾンビを睨み付けながら、凄く不機嫌そうにその名を告げる。俺の頭の中では――警戒レベル100ぐらいの警報が鳴っていた。

「しましま君、知ってる?」

こっちを見向きもしないまま、ご機嫌斜めな声で天野が聞いた。俺は軽く頭を抱えながら溜め息をつく。

「歌坂って……歌坂うたさか瑞月みづきだろ?」

「お、そうそう。――ちょ、ぐ、やめ、ずっ、だぁぁぁぁぁ!」

会話の途中で奇声あげるの止めてくれませんか。天野さん。怖いんですけど。

「いや、歌坂って――超絶有名人じゃねぇか。」

 歌坂瑞月。白川高校2年生。サッカー部のエース。運動神経抜群にして、成績優秀。そして、誰に対しても分け隔ての無い明るい性格。安易に言ってしまえば、完璧を絵に描いた様な人間だ。

 まぁそれに関しては、今現在ホラゲで騒ぎ続けているコイツも負けてはいないのだが。成績優秀、スポーツ万能、所作が淑やかで、本好きの少女。――というのがコイツの外面である。その上天野は、学力は学年で2、3位ぐらい、運動面は体力テストで学年5本の指に入るほどの猛者なのだ。本当に優等生ぶるのが上手い。だが、悔しい事にそれが天野の実力ってことだ。

「……あれ?」

俺って、とんでもない奴と一緒に居るんだな。今更ながら思った。ちなみに俺は運動面はからっきしだが、勉強はまぁ何とか学年で10から20ぐらいに入るぐらいではある。一時期ネットが使えなくなり、やることが無さ過ぎて勉強に明け暮れたことがあったのだが、その時の総合成績が学年4位だった。

『マ……、何て読むのこれ。』

『こんな名前の奴いたっけ?』

『急に上位に浮上してきたけど、今まで名前乗ってたか?』

……まぁ散々だった、とだけ言っておこう。それから本腰を入れて勉強することは無くなった。

「んで……その、歌坂に告られてどうしたんだ?お前。」

 ゲームオーバーの画面をじっとりと睨みながら、天野は俺にコントローラーを投げてきた。俺はそれをキャッチして違うステージを開く。

「別にどうもしてないよ。」

「振ったって事か?」

ゲームが始まり、俺はただ湧いてくるゾンビを冷静に打ち倒す。ストレスが溜まりまくった時にこうしてゾンビをただひたすら殺しまくっているため、そこそこ上手く出来る様になった。

「まぁ、そういうことだね。――やんわりとしか言わなかったけど。」

 天野はリビングの低いテーブルセットから俺のベッドに移動して、腰を下ろした。俺はPCのモニターに視線を集中させながら会話を続ける。

「珍しいな。お前の事だから骨も残らない様な言い方したのかと思ったんだが。」

「君、私を何だと思ってんのさ。」

 断り無く俺のベッドに大の字になる天野。――何というか、嫌じゃ無いけど凄く複雑な気持ちになった。

「今日、歌坂君休んでたから。ちょっと気になっただけだよ。」

「ふぅん。」

 ゲームクリア。俺はモニターにその文字が表示されたのを見て、天野に視線を移した。天野はそれを見て、物凄く不服そうな顔をしていた。


 それから更に1週間後。また体育はプールだった。今回も俺は見学して、プールに足を漬けてぼんやりしていた。

「――マジマ、だっけ?」

唐突に隣から声を掛けられた。俺は驚いてくるっと横を向く。――そして後悔した。

「俺、歌坂。よろしくな、マジマ。」

……いや、全く持ってよろしくない。目の前には、黒髪をセンター分けにした好青年が立っていた。それは紛れもない、歌坂瑞月だ。俺マジで声出ないんだけど。一気に喉乾いちゃって。

「……あ、うぉ。よろしく。」

 明るい笑顔を俺に向けながら、歌坂は隣に座った。それからズボンの裾を捲りあげてプールに足を漬ける。――なんか俺に御用なんですね。歌坂さん。

「マジマってさー。天野さんと仲良いよね。」

「え、あぁ天野?」

少し前にした天野との会話を思い出すまで少し時間がかかった。そういや、歌坂は天野に振られたんだっけか。

「天野さんってさ……綺麗だよな。」

「んー……。う、ん。」

 申し訳ないが歌坂。天野凛子という奴はお前の想像とは全くかけ離れているぞ。

「俺、天野さん好きでさ。でも、フラれちゃって。」

「す、そっか。」

 何、なんなの。怖い。殺すんならひと思いにやってくれよ歌坂さん。

「だからさ……。まずは天野さんと仲良いマジマと仲良くなろうと思って。」

「え?」

不覚。素で驚いてしまった。コイツ正気なのか、と思いながらも言葉の先を待つ。

「マジマがプール出ないって聞いて、チャンスだーって思って。――まぁ、後は陸から見た方が天野さんもよく見えるし?」

少し照れくさそうに笑う歌坂。……うわぁ、絶対良い奴だぁ。コイツ。

「という訳なんで、俺と仲良くしてくんない?マジマ。」

「……まぁ、俺でよければ。」

 そんな変な返事を返した俺に対して、底抜けに明るい笑顔を振りまいてくる。

「ありがとっ、マジマ!」

 あぁ、久しぶりにこんな屈託ない笑顔見たな。天野の笑顔とかもう、なんか黒いから。

あぁ、駄目だ。この馬鹿みたいな暑さに加えて、こんな阿保みたいに明るい笑顔向けられたら、俺そろそろ体ごと溶ける。死んじまいそう。あれ、もしかしてもう体蒸発し始めてる?

「――間縞君。ちょっと良いかな。」

 暑さで焼ききれそうな思考回路が突然終わりを告げた。真後ろから、いつも聞いているが雰囲気がまるで違う清らかな声がして、そっと振り返る。

「あぁ、天野か。」

 天野は先週と寸分違わぬ水着姿で俺と歌坂の後ろに立っていた。ぽた、ぽた、と水が垂れ落ちている。俺は首を傾げながら言った。

「どうかしたか?」

「……いや、やっぱり何でもないよ。」

 優等生モードの天野との会話は凄く久しぶりに思えた。それ故に何か気持ち悪い。

「あ、あぁぁぁぁぁ!天野さん!好きです、付き合って――」

突然俺の隣で歌坂が叫び声に近い何かを出した。内容は聞かないことにしておきたい。天野はそれを遮るように口を開いた。

「やぁ、歌坂君。――君はいつも元気だね。」

「まぁ、元気が俺の取り柄なんでねー。で、お付き合いし――」

「嫌だって、言ったと思うんだけど。」

 天野……。優等生モードのあの仏みたいな微笑みから嫌悪感がダダ漏れだ。そんなに嫌なんだろうか……?

「悪いんだけどね歌坂君。私はあまりそういうしつこいのは好きじゃなくって。」

「でも俺は天野さんが振り向いてくれるまでずっと、ずっとずっと言い続けますよ。」

 ……あぁコイツ、ただの馬鹿だ。俺は直感した。そしてそれは恐らく大当たりだろう。

『恋は盲目』という言葉がある。まぁ要は、己の想い人以外の事が見えなくなってしまうという事なのだが、――歌坂そのものじゃねえのかコレ。

「あらそう。でもね歌坂君。私が君に靡くことは無いよ。」

「えぇー。ま、でも絶対振り向かせて見せるので。」

 馬鹿だな。うん。愛すべき馬鹿とでも言うんだろうか。

「全くだね。君はどうしたら諦めてくれるのかな。」

「諦める?そんな選択肢ありませんよ。」

 ただ1つだけ、外野の俺から言えることがある。――歌坂は何処までも真っすぐだ。

天野に魅せられて、惚れ、その思いを恥じることなく一生懸命に天野本人に伝える。そんな荒業ができるというのは、本当に性根が真っすぐな人間だけだろう。俺は2人を見る目を細めた。案外、似合うのではないか。学年トップクラスの2人が並ぶ姿は悪くない様に思えるのだが。

「大体、性急すぎないかな。歌坂君。」

「そうかなー。俺としては段階踏んだ方だと思うんですが。」

 天野。頼むからそんなあからさまに顔を歪めるんじゃない。マジで絶対コイツ良い奴だぞ。

「いやいや、性急だよ。だって君、初対面で告白してきたじゃない。」

 あぁ、これに関しては歌坂が悪かった。

「じゃあ、段階って具体的にどうすれば良いんですか?」

天野が珍しく真剣に悩んでいる顔になった。……面白れぇなこれ。

「まずは敬語を辞める。」

「うん。」

 はっや。順応早すぎねぇか歌坂さんよ。

「次に友達になる、とか?」

こてん、と首を傾げて見せる天野。その様子を見た歌坂が変な声を出したが、俺は何も聞いていないことにする。

「友達……かぁ。天野さんと、友達……。すごく良い、なりたい。」

 天野の一言一句を噛み締める様に呟く歌坂。そんな名誉あることじゃ無いぞー歌坂ー。

「じゃあ、よろしくね。歌坂君。」

 天野はそう言って形式的に手を差し出した。歌坂は明らかに硬直している。

「どうしたの?大丈夫?」

天野が下から歌坂の顔を覗き込んだ。恐らく目が合ったのだろう、歌坂はプールに落ちそうな勢いで後ろに跳んだ。それから息を整えて、手汗をズボンでガシガシ拭いて、やっとのことで天野の手に自分の手を重ねた。

「よ、ろしくね。天野さん。」

「こちらこそ。」

 ……あれ、一体俺は何を見せられているんだろう。


「なぁ天野。」

「どうかした?」

その日の放課後。天野は俺の家に来た。俺はゾンビゲームをひたすらプレイし、天野は横でそれを見ている。

「歌坂と……くっつく気は無いのか?」

「今は無いね。全くもって。」

 清々しいほどに切り捨てる天野。俺はカチャカチャとコントローラーを操作しながらゾンビを倒す。

「私、追われる恋よりも追う恋の方が好きなんだよね。それに、あんまり歌坂君とは人間性が合わなさそうだし。」

「へぇ。」

 俺は適当に相槌を打ちながらモニターを睨みつける。天野はプールで濡れた髪をきっちり1つのお団子にまとめ上げた。

「まぁでも、友達ぐらいなら出来なくは無さそうだね。彼面白いし。」

 ゲームクリア。画面の表示を満足しながら見て、天野にコントローラーを渡した。天野はそれを操作して、違うステージを開きプレイを始める。

「歌坂は心底お前に惚れてるみたいだな。」

「らしいね。本当、何処が良いんだか。」

 自虐的に笑いながらゾンビを打ち倒す天野。……相変わらず下手。

「正直な事を言うとね、しましま君。私は恋愛感情的なものを抱いたことが無いんだよ。」

「なんか意外だな。」

 天野が放った銃弾がゾンビの群れを通り過ぎていく。乱射している割には全く当たらない。

「まぁ、だから好きだとか言われても正しい返しが分からないんだよね。」

「そうか。ま、それでも良いんじゃないか。」

 ゲームオーバー。天野はただゆっくり溜め息をついた。俺はくすりと笑う。

「なんかまぁ、安心したよ。」

「どういう意味かな。それ。」

 不機嫌そうな声と、不服そうな表情。俺は少しだけ口角を上げた。

「天野もちゃんと人間なんだなって思っただけだ。」

 ゲームが驚くほど下手で、人の好き嫌いもあって、恋愛について疎い。そういう天野の人間味のあるところが見えて、俺は何だか安心していた。そして何よりも意外だったことは。

「どちらかと言えば、歌坂君よりも君の方が好きだね。楽で良い。」

 天野が俺を選んだことだった。この天野が言う『好き』は『Like』ではあるが、コイツは自分と同じ次元に生きている歌坂では無く、俺が良いと言ったのだ。素直にそれが嬉しかった。

「歌坂君は完璧だからね。見ていて苦しいよ。」

「完璧はお前もそうだろ。」

 天野はコントローラーを俺に投げると肩を竦めて笑って見せた。

「歌坂君はずっとあれなんだよ。ずっと、ずーっと明るい歌坂瑞月のまま。私はほら、君といる時はこんなんだからさ。完璧には程遠いさ。」

 完璧にも種類がある。というのだろうか。俺はキャッチしたコントローラーをじっと見つめながら言った。

「すごいな、天野。」

「……なんかしましま君に正面切って褒められると鳥肌立つな。」

「テメェ、人が珍しく褒めたってのに……。」

 天野はケラケラ笑いながら俺を見る。俺はただ溜め息をついた。ふと、携帯が鳴る。

―『やほマジマ』

―『明日遊び行こ』

歌坂だった。さっき交換したばかりだが、軽い調子でメッセージが送られてくる。

「天野、これ。」

「ん……。おぉ。行っておいでよ。」

 自分は行きません。という確固たる意思表示。だがそれは砕け散ることになる。

―『天野さんも誘っといてね』

―『じゃ頼んだ』

続けざまに送られて来た短いメッセージ2つ。天野はそれを見てがっくり肩を落とした。

「……明日、空けとけよ?天野。」

「ぐっ……分かってるよ。」

 いつになく悔しそうな天野の顔がやけに面白かったのをよく覚えている。俺はまだ始まったばかりの夏に、何処か期待していた。

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