1.嘘と、隠しごと。(2)


 10月も、半ば。夜は、ずいぶん冷える。


「寒い…、」


 退勤処理を済ませ、職員玄関を出た瞬間に冷たい風が肌を刺す。こんな夜遅くに、独りごちてもだれからもなにも返ってはこない。


 今日も、仕事が終わったのは日付も変わる間近。もちろん日勤だったし、明日も朝から仕事である。

 病院薬剤師3年目。主に抗癌剤に関わる業務を担当する化学療法チームに配属されてからは、ほとんど毎日こんな生活だった。


 仕事の合間に食べ損ねた夕飯はコンビニで買うことにして、スマートフォンに繋いだイヤホンを耳に突っ込んで歩き出す。


 あのあとも、結局2時間に1回程度のペースでかかってき続けていた電話。夜になって、少しだけその頻度は落ちたけれど。

 ついさっきロッカールームで着替えている間も、変わらず10コールで切れる非通知設定の電話がかかってきた。そして私は、やっぱりそれを無視した。


「いらっしゃいませー。」


 病院から歩いて5分もかからない、全国チェーンのコンビニの1軒。通勤途中にある利便性から、仕事の日はほぼ毎日利用している。主に、食事を調達するため。

 とにかく早く帰って寝たい私にとって、「食費が、」とか、あまり細かく気にしている場合ではなかった。


 いつもと同じコンビニ。いつもと同じくらいの時間。いつもと同じお弁当コーナーで、私はいつもと同じようなパスタサラダを手に取る。偏りがちな食生活への、些細な抵抗というか、なんというか。


「今日もお疲れさま。」

「ありがとうございます。」


 いつもこの時間にいる店員のおばさんとは、この2年半ですっかり顔馴染みになってしまった。お会計のたびに、毎回こうして声をかけてくれる。ときどきおすすめの新商品を教えてくれたり、とか。

 疲れた仕事終わりの心に、そんな細やかな気遣いが沁みる。明日も仕事だなんて憂鬱な心が少しだけ癒されて、私がコンビニを出ようとする、と。


「あら、相川さん。」


 お疲れさま、と、つい先ほどまで話していた店員さんの声が聞こえて、その名前に思わず自動ドアの前で足を止めて振り向いてしまった。そしてばっちりと、先生と視線が合ってしまった。


「あ。」

「…お疲れさまです。」


 そう声をかけると先生は一瞬だけびっくりした表情を浮かべるが、びっくりしたのはこちらも同じである。


 いつまでも現金支払い派の私とは逆に、先生はスマホでサクッと支払いを済ませたらしい。コンビニからいっしょに出ると、いつのまにか相川先生はしれっと私の隣を歩く。

 ついでにしれっと、歩道の車道側を歩いてくれる。…そういうところ、だってば。


「今終わりですか?」

「です。」

「遅いですね、相変わらず。」

「先生も、」


 先生の帰りが遅いのは外来の診察をしたり入院している患者さんの診察をしたり、夕方まで手術をしていたり。万年人手不足で残業ばかりの私たちとは、訳が違うのだけれど。

 私たちは本当にときどき、数ヶ月にいちどあるかないかだけど定時に上がれるときもあるし。


「白衣じゃないと、だれだかわかんなくなるね。」

「そんなもんですよね。」


 そう言う、先生だって。病院で会うときはだいたい黒のスクラブに白衣を羽織った姿。今は、白いシャツにグレーのニット、黒いストレートパンツを合わせた私服姿。シンプルだけど、その高い身長のせいか地味には見えない。っていうか、ちゃんと似合ってる。


 …とか、余計なことは考えない。


 他愛ない話と、少しの沈黙を挟みながら10分ほどいつもの帰り道をふたりで歩いた。あと5分もあれば、私のアパートに到着してしまう。


「おうち、こっちの方なんですか?」


 先生はこんなに近所に住んでいたんだろうか、と、ふと思って訊ねてみる。それにしては彼が赴任してきてから1年ちょっと、病院以外で会ったことはない。

 しばらく逡巡した先生から、いや、と予想通り否定の言葉が返ってきた。


「へ、」

「もう通り過ぎた。」


 私の間の抜けた困惑の声に、先生がつけ足す。それにさえ、私はさらに困ってしまった。


「あの、大丈夫ですよ。この辺で。」


 もうすぐそこだし、と、遅い時間につき合わせてしまったことがものすごく申し訳なくなる。っていうか、早く気がつかなかった自分が嫌になる。

 ゆっくり話せて嬉しいなんて、先生からしたら迷惑だったかもしれないのに。


「危ないですよ、今さらかもしれないですけど。」


 私の心配をよそに、紡がれる先生の言葉。たしかにこの時間に帰るのは珍しいことじゃないし、先生の言う通り今さらといえば今さらだ。


「まあ、あと、」


 でも、と、食い下がる私に、柔らかなテノールで先生は続ける。


「真野さんと、珍しくゆっくり話せたので。」


 きっといつもと同じ、先生の気まぐれ。それでもほとんどぴたりと私と同じことを思っていてくれたのが、少しだけ、本当にちょっとだけ、嬉しい。


「でも、この辺にしとくね。さすがに家知られるのは嫌でしょ。」


 角を曲がれば、目と鼻の先。住んでいるところを知られるのが嫌なわけではないが、単身用の殺風景な家なので見られるのもどうなんだろう、と思ってここで別れることにする。


「ありがとうございました、遅い時間に。」

「じゃあ、また明日?」

「また明日、ですね。」


 勤務は不規則で、平日がお休みだったり世間的な休日が出勤だったりする。だからたぶん先生も疑問形で言ってくれたのだと思うのだけれど、幸か不幸か明日もちゃんと日勤である。

 そしてついでに同じ日勤でも先生には会えたり会えなかったりするので、“また明日”、先生に会えるかどうかはわからない。

 そのあたりはきっと、言葉のあやというか、そんなところだろう。


「おやすみなさい。」

「おやすみ。」


 頭を下げながら言うと、先生は片手を上げてそう応えつつ私に背を向けて歩き出した。私も自分の家に向かって方向転換をして、だけどほんの少し名残惜しくなって先生の背中を見やる、と。

 ほぼ同時に、先生がちらりとこちらを振り返る。私は慌ててぺこりと頭を下げると、先生もまた笑いながら片手を上げる。

 病院で見るみたいな、お仕事モードの愛想笑いというか、作り笑顔じゃなくて。あまりに子どもみたいに、楽しそうに笑うから。

 本当にこのひとは、10も歳上なのかと疑いたくなる。


 もう日付は変わって、20分ほど経つけど。今日も、朝から仕事だけど。そんな憂鬱、ぜんぜん感じさせないくらい。気分が、ふわふわしていた。

 …本当は、心のどこかでわかっていたのに。私に“幸せ”なんて気持ち、まったくもって似つかわしくないと。

 だから余韻に浸る間もなく着信を告げるスマートフォンのディスプレイに現実に引き戻されても、「ああ、またか。」って、それしか思わなかった。


 “非通知設定”。


 その文字列に、いちいち憂鬱になることも面倒くさくなってくる。


 あと、7コール。耐えたら、切れるから。


 私は右手にスマホを持ったまま、左手で上着のポケットから部屋の鍵を取り出した。


 アパートの敷地に入る、直前。

 もう何年も見ていなかった、その姿。

 でも、ひとめで誰だかわかってしまう。

 そんな自分が、嫌になる。


「久しぶり、なつめ。」

「…っ、」


 息が、詰まる。

 なにかを言いたいのに、うまく声が出ない。


 なんで、いるの。

 どうして、ここを知ってるの。


 会いたくなかった。

 見たくなかった。


 溢れ出しそうな言葉たちをぜんぶまとめて、叫びたい衝動に駆られる。

 それでもやっぱり途切れ途切れになる呼吸に、声が出せなかった。


「なつめ、ぜんぜん電話出てくれないんだもん。」


 会いにも来てくれないし、と、娘の私にすら媚びたような表情で、媚びたような声を出す。


 しばらく染め直していないのであろう、緩くウェーブのかかった長い金髪は、黒が目立つ。つけまつげとアイラインで、黒く縁取られた目。部屋着をそのまま着てきたようなスウェットに、サンダル。


 最後に見たときと、なにも変わらないその姿。


 心底、吐き気がした。


「ねえ、」


 お願いがあるんだけど。


 と、彼女は私の言葉など待つつもりもないという風に、少しだけ私との距離を詰めながら言った。


 ああ、やっぱりか、と、心の中でため息とともに吐き出した。

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言葉足らず。 羽澄 蓮 @hasumi_

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