言葉足らず。

羽澄 蓮

1.嘘と、隠しごと。(1)

『真野さんってさあ、』

『はい。』

『あの真野さん、だよね?』

『…そう、ですけど、』


 思えば半年くらい前のこのよくわからない会話が、すべてのはじまりで。半年経っても、未だに『あの真野さん』の“あの”の真意はわからないまま。


 そして、今も。


「ね。真野さんもそう思いません?」

「…そう、ですね?」

「いや、絶対真野さんなんの話かわかってないでしょ。」


 8階病棟から1階に向かうエレベーターに入った瞬間、すでに上の階からのっていたらしいドクターふたりに絡まれた。もちろん話しかけられる以前の話の内容なんて私は知る由もないので、適当に応えてみただけである。


「真野さんがそうやってなんでも肯定するから。」


 すぐ調子に乗る、と、2人組の若い方、瀬戸先生が呆れた顔をする。

 そう、言われても。このひとの話は、いつも前置きも突拍子もないのだからしょうがない。


「優しいから、真野さん。」


 そしてこのひとは、おそらくだれにでもしれっとこういうことを言う。

 いつも通り私は相川先生の言葉を黙って聞き流して、エレベーターの隅っこを陣取る。間違っても、一瞬でも、決してドキッとなんてしていない。


「ちなみに、なんで相川先生に彼女ができないんだろうね、って話。」


 わざわざご丁寧に話の流れを説明してくださった瀬戸先生には悪いけれど、私には関係なくてめちゃくちゃどうでもいい話だった。


「…ソウデスカ。」


 棒読みを自覚しつつ瀬戸先生にそう返して、私はエレベーターの隅からコントロールパネルの前に立つ相川先生をちらりと見やる。

 180cmはある長身に、黒い短髪。大きめの黒縁眼鏡のせいで、少し冴えなくは見える。しかし、たぶんこういう仕事以外は適当なところをなおせば、すぐに彼女はできるんじゃないかとは思うが。


 10歳も上のひとたちのオトナの恋愛事情は、そんなに簡単じゃないのかもしれない。

 私の知ったことでは、ないけれど。

 …もしこのひとに彼女ができたら、なんて想像して、ちくりと胸が痛んでしまったのは気のせい。


 ぼーっとそんなことを考えていると、院内用のPHS、ではなく、白衣のポケットに忍ばせた私物のスマートフォンが振動する。なかなか途切れないそれは、メッセージやアプリの通知ではなく着信であることを知らせていた。

 こっそりとスマホをポケットから取り出してディスプレイを確認すると、“非通知設定”の文字。

 今日だけで、5回目。この1週間、毎日。仕事中だろうが深夜だろうが関係なく、2時間おきくらいに10コール程度鳴っては止む着信が続いている。


「真野さん?」


 またか、と、小さくため息を吐くと、その様子を見ていたらしい相川先生が声をかけてきた。


「私用の電話です、すみません。」


 うるさくて、と、今回もちょうど10コールで鳴り止んだスマホをポケットの中に押し込んだ。


「ずいぶん熱心でしたね。」

「ほんとに。」


 相川先生の言葉に、私はえへへ、と苦笑する。


 何時にかかってこようがどれだけ呼び出されようが、私は非通知の電話に出るつもりはない。かけ直す術も、私にはない。非通知設定である以上、着信拒否もできないし。

 こんなことをしてくるひとに、おおよその心当たりはある。それに内容もおおよそ見当がついてしまうからこそ、私は電話に出ることを避け続けていた。


「じゃあね、」


 お疲れさま、と、言いながら医局のある3階で降りた先生たちを見送って、私は再びスマートフォンを取り出す。着信履歴は、すっかり“非通知設定”で埋まってしまっていた。


 その文字列を見ただけで、私の気分は憂鬱なものになる。


 もういちど小さくため息を吐いて1階に着いたエレベーターを降りると、向かいのエレベーターから同じ化学療法チームの同期が降りてきた。


「お疲れさま、成海。」

「真野…!」


 薬剤部に戻る廊下を歩きながら、成海が泣きそうな顔で聞いてよお、と、表情通り泣き言を口にする。


「どうしたの、」

「外科の高幡先生って知ってる?」

「し…、ってる、けど、」


 成海の口から聞かされた、その名前。私は知っているどころか、できれば聞きたくない名前として記憶している。

 答えに少しだけ迷ってしまったのも、そのせいだった。


「…私、あのひとニガテ。」

「…私も苦手。」


 成海から具体的になにをされたという話題は出ないものの、こちらも想像に難くない。


 今月からこの病院に異動してきた高幡先生とは学部は違うが同じ大学で、同じサークルの同期で。6年間、上辺ではない関係のあった、ひと。


「なんか、馴れ馴れしい、って言ったら失礼か、」


 距離が近い、と、“馴れ馴れしい”をオブラートに包んだ成海が苦い顔をする。オブラートに包んだところであまり表現が柔らかくなっていないあたり、やはり成海としても関わりたくないタイプなのだろう。


「それ、大学のころからだから。」


 あまり繋がりがあったことを知られたくはないが、言いふらしたりはしないだろうと成海のことは信用している。…それに。


「そうそう、真野とおんなじ大学だったって言ってた。」


 だろうな、と、思った。


 昔から、そう。自分のほしいものに近づくためには、他人のことも平気で利用する。その最たるものが“かわいい女の子”なあたり、ものすごくタチが悪い。


「今度真野も誘って飲み行こうよ、って。」

「…私はパス。」

「だよねえ、私も。」


 もともと飲み会が嫌いな成海と、べつに飲み会が嫌いなわけではないがあのひとがいるなら、と、断りたい私と。方針はふたりの中で、満場一致。

 目下、私の胃をキリキリと痛ませるのは、昼夜問わずかかってくる電話と、高幡旭という、10月から赴任してきた外科のドクターの存在だった。

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