中編 15年後のワタシたち

 キョロキョロと。

 周囲を見渡して、やっと状況を把握できた。



(あー。そうだ。カラオケボックスに来たんだった)



 どうやら、部屋に入る前に意識が少し飛んでいたみたいだ。

 最近疲れているせいで、そんなことが増えてきている。



「本当に大丈夫か?」

「ダイジョーブダイジョーブ」

 


 ワタシは車椅子・・・を押して、カラオケボックスに入った。

 すぐに車椅子から夫をおろして、ソファーに座らせる。



「いやー。カラオケなんて久しぶりだなー」



 ここは夫と初めて出会った時と、同じ部屋だ。


 様子からして、夫はそのことに気付いていないだろう。

 かなりの鈍感野郎だから、想定の範囲内だ。

 そもそも、どうやって出会ったか覚えているか怪しいし。


 彼は記念日を全く覚えないし、自分から祝うことはしない。

 それぐらいにはテキトーでヒョウキンだ。


 だけど『覚えていない』と思うのには、もう一つ理由がある。



 夫は、難病・・にかかっている。



 体の自由が利かなくなると同時に、脳が萎縮している。

 体も思考も、正常ではなくなってきている。


 今日は腕や脚が張っていなくて、

 外に出たり、人前に出るときは、基本的に調子がいい時だけだ。



「何を歌うんだ? 俺は久しぶりにあの歌が聞きたい」

「えー。ワタシの唯一売れた歌のこと? 今日は気分じゃない」

「それはザンネンだ」

「それよりも、アナタも何か歌う?」

「いや、いいよ。今日はキミの歌を聞きたい」

「……そう」



 ワタシが少し不服そうに言うと、ダメ夫はにへらと笑った。


 とてもやさし気な笑みだ。

 でも、ワタシの胸は切なげにキュッと苦しくなった。


 優しく見えるのは、威圧感がないからだ。

 気力がないんだ。

 声に力がないんだ。


 難病のせいで、大分弱ってきている。



(難病、か……)



 難病は、原因が分からなくて、抜本的な治療ができないから、難病と呼ばれている。

 体に何が・・起きているかは解明されていても、何故・・起きているか分からない。

 だから、対処療法しか――延命治療しかできない。


 病院に通っても、完全に良くなることはない。

 一つの症状を改善しても、他の症状がひどくなる。

 体調に波があって、良い日と悪い日がある。


 だけど、全体的には確実に悪くなっていく。


 どれだけ辛い努力をしても報われることはなくて、よりよい最期を目指すことしかできない。


 それが『難病と付き合う』ということだ。


 そんな現実が嫌いだ。

 だから、歌を歌いに来た。



「じゃあ、この曲を歌おうかな」



 ワタシは機器を操作して、一つの曲を選んだ。

 今決めたようなフリをしたけど、実は来店する前から決めていた。



 『シリウスの心臓』という美しくて神秘的で、透き通った歌。



 作詞作曲は傘村トータさん。

 ボーカルはヰ世界情緒さんというバーチャルシンガーだ。


 歌に対する愛と、遠くにいる愛おしいアナタへの想いを綴った歌。

 ワタシはそう感じ取っている。


 それだけでは、普通の歌だと思うかもしれない。

 だけど、この歌の中には、素晴らしい発明がある。


 モールス信号・・・・・・が歌詞に組み込まれてあるのだ。


 モールス信号と言えば『トントントンツーツーツートントントン』――つまり『SOS』が有名だ。

 緊急時の、助けを求めるために使われるメッセージ。


 他には戦時中の通信をイメージする人がいるだろう。


 どっちにしろ、血生臭いイメージがつきまとう。


 だけどこの歌では、もっと素敵なメッセージを、モールス信号として発信している。


 歌手の歌声で。


 絶え間なく、高音のモールス信号を発し続けるから、息が続かなくなる。

 どんどん辛くなっていく。

 全身から酸素が抜けていく。


 どんどん歌声が切なく、消え入りそうになる。


 だからこそ。

 この歌を歌うのが、たまらなく好きなんだ。

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