渦巻

 ストローでグラスの中をかき混ぜると、アイスコーヒーの表面で小さな円がぐるぐると回って、もみくちゃになった氷たちが煩わしそうに身じろいだ。それを眺めながら、隣にいる男の話に耳だけを傾けている。人と会話する時はちゃんと相手の目を見なさいと最初に教わるのはいつだったか。彼はくるくるとよく回る口で、私たちが座っているカウンター席の周りに言葉を撒き散らかしていく。「そりゃもうかわいくて仕方がない」「あんなかわいい子と付き合えるなんて奇跡だ」「毎日がまるで薔薇色だ」云云かんぬん。浮ついた言葉たちはふらふらと中空を漂って、対する私の足元にはピントのぼけた明朝体で「やっぱり私じゃなかった」の文字が乱雑に散らばっていた。スニーカーの先で「私」の文字だけを密かに踏みにじると、醜くひしゃげてただの汚れになった。

「まさかお前が恵理ちゃんと知り合いだったとはね」

 えりちゃん、と文字を紡ぐために蠢いた彼の口元がスローモーションで何度も再生される。その口元に目掛けてグラスの中の液体をぶちまけてしまわないように、腿の上で両手を組み、背もたれに身体を預けながら「世間って狭いよね」と当たり障りのない返事をした。

 続けて彼は彼女との馴れ初めを声高に語り始め、私はその都度適切な相槌をうちながら、ガラス越しの往来を見るともなく見ていた。私はそんな話を聞くために今日このカフェに来たのではなく、彼がいかにでれでれと腑抜けた面をしているのか、どれだけお気楽に彼女との睦言を私に捲し立てるのか、それを確かめにきただけだった。咽頭の奥の奥から濁流のように迫り上がる嗚咽を抑え込むために、コーヒーを無理やり喉に流し込んだ。行き場を失った感情の煮凝りが心臓の中で暴れている。

「職場の飲み会で大学時代の話になってさ、杉元のことちょっとだけ話題にしたんだよ。ほら、サークルの揉め事って大体は杉元が仲裁してたじゃん。そういうやつがいて、って話したら急に恵理ちゃんが「もしかして杉元優陽?」ってどんぴしゃで言うもんだからびっくりしてさ。まあそのおかげで恵理ちゃんとお近づきになれたんだから、これはこれで”共通の友人を介して”って言えなくもないよな」

 彼の台詞が次の段落に差し掛かる前に「ごめん、トイレ」とだけ残して席を立った。個室の鍵を閉めた瞬間、思わずえづきそうになったが、なんとか我慢した。

『優陽って、優しい陽だまりって書くんだね』

 手を洗いながら、彼女にそう言われたことを思い返していた。文章は思い浮かぶのに、彼女がどんな声を、どんな表情をしていたのかは、上手く思い出せない。「智紀さんとお付き合いをしているの」と彼女自身に告げられたあの日から、彼女に関する記憶に補正がかけられてしまっている。漏れ出た嗚咽は水の音にかき消されてしまうほど小さなものだった。

 席に戻ると、彼は頬杖をついてスマートフォンに目を落としていた。私が戻ったことに気がつくと彼は、そのまま液晶画面を私に向けてきた。画面には彼と、彼女が映っていた。ラブラブだろ、と目を細めて笑う彼の声が、耳の遠くの方で流れていった。


「また仲直り手伝ってきたの?」

 彼女の言葉が巡る。彼の言葉が遠い。私は相槌を打てているだろうか。

「そうやって色んなことに首つっこむの、悪い癖だよ」

 往来の人混みの中、白いワイシャツにブラウンのカーディガンを羽織った彼女が、こちらを振り返る。

「優陽はやっぱり優しいね」

 ああ、そんな顔をしていたんだっけ。



 自宅でシャワーを頭から被っていたら、水滴なのか涙液なのか分からないものが顎から滑り落ちて、私は未だ狂おしい程に彼女を愛していた。

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