水母
浴室で髪を切りました。
乳白色のタイルに落ちた髪の毛が爪先に触れて、それがあまりにも不快だったもので、踏みつけてやろうかと、唾でも吐いてやろうかと、思いましたが、それよりなにより、まだまだ切り刻んでしまいたい気持ちの方が勝っていたので、やめました。
鏡に映る自分の黒い髪は酷く乱れてしまって、まるでこの心持ちを表わしているかのよう。髪は女の命、だなんて、あれは本当なのかしら。肉体から切り離された髪の束は、私の手のひらから落ちて、ただのゴミになったのに。汚い。醜い。醜悪で下品。吐き気がして、それから、彼のことを思い返しました。
黒い髪が綺麗だと、好きだと、微笑んだ彼を信じた私の、なんと愚かで惨めなことか。ざくり、ざくり、ハサミの音が黴ひとつない浴室の冷たい壁に反響して、ひどく耳障り。いつからだったのかしら。彼の心が移ろっていたのは、一体。気付けなかった自分、こんなことになるまで何もしなかった自分が、心底憎い。ざくり、ざくり。
素敵な女性ですね、と言って、テーブルに置いた写真を一瞥した彼は、だからどうしたそれがなんだ、と。そもそもおまえはだいたいあの時もこの頃もおまえはいつだってそうだ、などと。ああ、そうだったそうだった、この人は、彼は、謗ることは得意でも、詰られることには不慣れな人でした。
だから、これは、致し方のないことなのです。私は、誰かが、この憤りを受け入れて、恐れてくれる誰かがいないと、私の悲しみも痛みも苦しみも世界からなかったことにされてしまうのではないかと、それが恐ろしくて、たまらないのです。
細く、柔らかな、淡い栗色の髪が、彼の隣で優しく風に揺れていて、それはそれは美しかったから、だからこれが、この髪が悪い。蛇のように身体にまとわりつく腕を振り払って髪を切り続けました。叫び声、すすり泣き、懇願、それら全てを、振り払って、でも、顔は、顔だけは見ないように、髪の毛を、髪だけを、そうでないときっと私は、石のように何も考えられなくなって、しまうから。
ごめんなさい、と、声が聞こえて、それはか細い、ほとんど蚊の鳴くような声で、思わず音の出処に目をやりました。人のものに手を出してごめんなさい、だなんて、彼女の唇が動くから、彼女の目から涙が流れたから、それを見てしまったら、やっぱり私は、何も考えられなくなってしまって、鏡にハサミを突き刺しました。何度も何度も、突き刺しては引っこ抜いて、何度も、そうしていたら、ひび割れて、砕け散って、それで、私は足元に散らばった栗色のゴミを排水溝の中へ流し込んで、誰もいない部屋に戻りました。
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