ふたりぶん

koi

矢印

「あいつ、結婚するんだってよ」

 テーブルの向こう側で彼が、頬杖をつきながら笑った。彼が一杯目に注文したビールは、運ばれてきてからまだ数分も経っていないというのに、もう空になっている。

「まさかあいつが結婚できるとはな」

 私のモスコミュールはまだ半分以上残っている。手を伸ばす気にならない。

「お前も早く良い人見つかるといいね、ってお互い様か」

 おどけた声色で、何かを隠すように笑う彼は、出会った頃と同じ表情をしていた。何も変わってないのもお互い様ですね、という言葉を飲み込むために、グラスを手に取った。


 帰宅してすぐ、鞄の中からスマートフォンの着信音が聞こえた。友人の咲希からの電話だった。

「もしもし」

『あれ? 何してんの?』

「なにって、いま帰ってきたところだけど」

『なーんだ、てっきりお楽しみ中の邪魔できるかと思ってわくわくしてたのに』

「なんの話」

『会ってきたんでしょ、愛しの先輩に』

 見なくても分かる彼女のにまにまとした表情が目に浮かんで、苦笑いをこぼしながらソファに腰をおろした。彼との再会を彼女に打ち明けたことを今私は激しく後悔している。

「ねえ、私の友達の、中山くん、覚えてる?」

『ああ、大学の同級生だっけ』

「結婚するんだって、中山くん」

『それはそれは、めでたいね』

 背もたれに身を預けると、自分がいかに疲れていたのか痛感した。久しぶりにピンヒールを履いたからだろうか、ふくらはぎの辺りが鈍く痛む。

『え、もしかして、先輩からの用件ってそれ?』

「そうだけど」

『あんたまさか詳しく喋るつもりないパターン?』

「察しが良くて助かる」

『なんてこった! 親友に隠し事だなんて! 絶交だ!!』

 彼女がそう吐き捨てると一方的に通話が終了して、その数秒後に「で、いつ飲み行く?」と咲希からメッセージが届いた。彼女が私との絶交を宣言するのはこれで7回目になる。

 左足の踵が靴擦れのせいでひりひりと痛む。実は期待してたくせに、と、傷跡から声が聞こえてくるようで、無性に腹立たしかった。


――――

 先輩と最初に出会ったのは大学2年の夏だった。学食の券売機でカレーかナポリタンか決めあぐねている私に、その時既に友人だった中山くんが声をかけてきて、その時中山くんと一緒にいたのが、彼だった。サークルの先輩なんだと中山くんに紹介された彼は、窺うように私に会釈した。そのあとなんとなく三人でご飯を食べて、なんとなく連絡先を交換して、なんとなく仲良くなった。流れ、雰囲気、成り行き。そのままなんとなく、私は彼に惹かれていった。大それたエピソードも理由もないけれど、例えば私の話を聞いて笑ってくれるところとか、例えば子供っぽい悪戯が好きなところとか、少しシャイなところ、意外にも根は真面目なところ、粗野な言葉の裏の優しさ、その全てが私を夢中にさせた。考え事をしている横顔、目を伏せた時の睫毛の影、袖からのぞく腕の筋、照れた時の眉間の皺、全てが、欲しかった。

――――


「先輩は中山くんのことが好きだったの」

 目の前でジョッキを傾けていた咲希がぴたりと動きを止めた。自分の緑茶割りがもうなくなりそうなことに気がついて、タッチパネルでおかわりを注文する。

「咲希、おかわりどうする?」

「そんなことより大事な話なのでは」

「お酒より大事なことってあるの?」

「いっぱいありますけど」

「中山くんって、いつも恋人がいたんだよね。同じ人と長続きしてたわけじゃなくて、大体は早々にフラれてたんだけど、でも別れたって聞いても次に会う頃にはもういい感じの人がいたりしててね」

「えっと、それは、女性?」

「そう」

「それで、その、先輩がそう言ったの?」

「俺、中山が好きなんだ、って? 言わなかったよ、一度も」

「じゃあなんで分かったの」

「鉛の矢が見えたから」

 注文した飲み物が運ばれてきて、話が途切れる。間が持てなくて、緑茶割りをひと口飲んだ。

「鉛の矢ってなに?」

「キューピッドにね、鉛の矢で射抜かれた人間は、恋を嫌悪するようになるんだって」

「ねえ全く話が見えないんだけど」

「見せる気ないもん」

「怒った、絶交だ!」

 彼女の不貞腐れた顔に笑いながら、グラスについた水滴を指にとって、テーブルに矢の絵を描いた。


――――

「先輩は恋人作らないんですか?」

 あれは、秋の終わり。初めて先輩と二人で飲みに行った帰り道で、私は先輩にそう尋ねた。淡い期待をかけた、下手な駆け引きだった。

「お前ってなんで”恋人”って言うの?」

 誤魔化したかったのかなんなのか、先輩の思いもよらない問いかけに、私は戸惑った。

「別に、なんとなくです」

「なんだ、わざとかと思った」

 その時既に、彼はもしかして中山くんのことが好きなんじゃないのかと気づき始めていた私は、今、それを問い質しても良いものか、酔いの勢いに任せて全てを打ち明けるべきなのか、と考えを巡らすばかりで、言葉が続かなかった。

「赤い糸ってさ、なんで見えないんだろう」

 彼が不意に呟いた。今にして思えば、もしかしたら彼も、少し酔っていたのかもしれない。

「見えてたら、諦めもつくのにな」

 私に向けて言ったのか、それとも独り言なのか、判断がつかず黙り込んだ私に、彼はそれ以上何も言わなかった。

 その時から私にはずっと、彼に刺さった鉛の矢が見えている。

――――


 帰宅する否や、8度目の絶交を提唱した友人から「今度キャンプしにいこう」とメッセージが送られてきた。手早く返事をしてから、脱いだコートをそのままベッドに放り投げて、化粧を落とすために洗面所に向かった。

 顔を洗いながらふと視線を上げると、鏡の中で自分と目が合った。水が流れる音に紛れて、彼の言葉が頭に響く。結婚するんだってよ。なぞるように私も声に出してみた。結婚するんだってよ。彼が未だ背負ったままの矢が私にだけ見えるのは、私の背にも同じものがあるからなのだろうか。

「やってらんない」

 自分の顔が情けなく歪むのを見たくなくて、鏡から顔を逸らす。排水溝に流れていく水がぐるぐると回りながら消えていくのを、意味もなく眺め続けた。

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