青褪


 夜が明ける前に家を出た。西の方角に歩き出してから、駐車場に自動販売機が設置されているのを思い出し、とりあえず缶コーヒーでも買おうと、ポケットの中から小銭入れを取り出した。

 理由もなく、あてもなく、ただ気休めでもいいから、とにかく朝日から逃げたかった。朝が来るのが嫌で嫌でたまらないのに、ただソファの上で縮こまって、明日を呪いながら今日にしがみついていることが腹立たしかった。

 駐車場まで残り数メートルの所で、後ろから「おねえさん」と声をかけられた。振り返るとそこにいたのは佐原さんだった。彼女はこてんと首を傾げて「お散歩ですか?」と私に問いかけた。佐原さんは、近所のコンビニでアルバイトをしている大学生だ。ほぼ毎日同じ時間帯に来る客である私に彼女が、お仕事お疲れ様ですと声をかけてくれるようになったのは、およそ三カ月前のこと。顔見知り程度でしかない客相手に仕事中でなくとも声をかけるような、社交的な女の子。人好きのする性格。私とは違う種類の人間。

「こんな時間までバイト?」

 佐原さんの問いには答えず、代わりにそう尋ねると、彼女は「大学の友達と飲んでました」と笑った。

「そう、気を付けて帰ってね。まだ暗いから」

「おねえさんはこれからお出かけですか?」

「ちょっと、自販機に行こうと思って」

「あ、じゃあ一緒に行きましょ。わたしの家、そっちの方なので」

 彼女はそう言って笑った。断られることも、疎ましく思われることも、そうして否定されるだなんてまるで想像にも及んでいないような笑顔だった。


 自動販売機の無機質な明かりが、アスファルトを照らしている。辺りはまだ薄暗い。自分の缶コーヒーを買った後、続けて小銭を入れながら「どれがいい?」と佐原さんに声をかけた。彼女は遠慮がちに缶ジュースのボタンを押して「ありがとうございます」と取り出し口に手を伸ばした。それを見届けてから踵を返そうとした私に、佐原さんは「少し喋りません?」とその場で缶ジュースのプルタブを開けた。

「おねえさんって、お仕事なにしてるんですか? わたし、そろそろ就活しなきゃいけなくて」

 駐車場のフェンスに背中を預けながら、佐原さんはそう切り出した。断るタイミングも言い訳も逸した私は、彼女の隣で缶コーヒーのプルタブを開けた。

「やっぱり職場の人間関係って大事ですか?」

「職種にもよると思うけど、ある程度のコミュニケーション能力は必要かな。でもそこまで重要視するものでもないよ、友達を作る為に働くわけじゃないからね」

「でも、職場に仲いい人がいなかったらつまんないかも」

 缶コーヒーの苦味が、いつもより余計に口腔内に広がるような気がした。自動販売機は少しずつ照度を失っていく。

「まあ、でもそうね、人間関係を円滑にしておくのも大事なことかもしれない」

「ですよね、わたし、今のバイトすごく楽しくて、みんな仲良しだから、シフトがきつい時も全然苦にならないっていうか」

「いつも楽しそうだもんね」

「おねえさんは楽しくないんですか?」

 足元が一瞬揺らいだ。誤魔化すように缶を傾けたのに、上手く飲み込める気がせず、飲み口から液体が流れてくる前に唇を離した。

「楽しいけど疲れるかな」

「たしかに、おねえさんってコンビニ来るときいつも疲れてるもん」

「そうでしょ、化粧も髪もボロボロだし」

「でもいつもすごいなって思います。わたしだったらそんなに疲れたらすぐに辞めちゃう」

 否定も肯定もせず笑ったあと、密かに缶の重さを確かめた。あともう少しで飲み干せる。

「おねえさん今日は徹夜で仕事行くんですか?」

「そうなるね」

「もしかして不眠症?」

「そんな大層なものじゃないよ、眠るのが下手なだけだと思う」

「えー、かわいそう」

 ぱき、と、何かが軋む音がした。咄嗟に、自分の引きつった頬から発せられたものかと思ったけれど、手の中の缶がわずかに凹んだだけだった。不審に思われていないだろうかと、ゆっくり彼女に視線を向ける。隣で缶ジュースを悠長に呷る佐原さんの首が目に留まって、私は不意に、想像の中で、彼女の首を絞めた。

 彼女の首筋は細く、私の両手でその周縁を覆い隠すことは難しくない。握り締めて、爪を立てて、すぐそこのブロック塀に、彼女の後頭部を叩きつけて、口の端から唾液を垂れ流す彼女に覆い被さり、私は呪詛を吐き出す。

 夜明けが、ジリジリと迫って、私を急き立てる。どんなに息を潜めても、祈るように手を重ね合わせても、朝は必ず訪れる。眠りに就く術を忘れたまま、絶望とともに迎える朝の光のおぞましさを、あなたは知らない。枕元に芽吹いた不安の種が急速に花を咲かせて、それらが私の眠りを妨げる。眠らなければと思えば思うほど脳に蔓が絡まって、涙液がこめかみを伝い枕に染みて、それが新たな不安の種になる。そんな悪循環があることを、あなたは知らない。そういう人間がいることを、あなたは知らない。何も知らない。楽しい楽しくないで物事を測るようなあなたは、かわいそうの五文字で終わらせるようなあなたは、どうせ、何も。

―――知らないからなんだって言うの

 消えて。


 ゴミ箱の底で缶と缶がぶつかり合う音が辺りにこだまする。佐原さんも私に続いて、空き缶をゴミ箱に捨てた。

「送っていくよ」と私が言うと、彼女は「ありがとうございます」と微笑んで歩き出した。私の手が小さく震えているのは、想像上の首筋の感触がまだ手のひらに残っているからだった。

 佐原さんの家は、自動販売機からおよそ五十メートル西に行った所にあった。壁も屋根も淡いパステル調で、門扉の向こう側には十分な広さの庭があった。

「よかったらまた話しましょうよ。わたし、一人っ子だから、昔からお姉ちゃんが欲しくて」

「私はお姉ちゃんって柄じゃないよ」

「でも、楽しかったから」

 私は佐原さんと連絡先を交換した。今しがた、自分が手にかけた人間の情報が手元の端末に入っているのが、何かの呪いのようにしか思えなかった。

 挨拶を交わして立ち去りかけたら、佐原さんが「おねえさん」と私を呼び止めた。彼女はこてんと首を傾げた。彼女は笑っていた。

「せっかく逃げてきたのに、帰りは向かっていかなきゃいけないんだね」

 その笑顔は、全てを暴き出す太陽のように見えた。

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