座礁

焼けつくような太陽の日差しの下で、アスファルトの上をジリジリと這う死にかけの蝉を思い出した。部屋の真ん中を這いつくばる女はそれに似ていた。赤黒く熟しすぎた柘榴のような、いまいちリアリティに欠けるはらわたが女の下腹部からこぼれ落ちていて、まるでお芝居の小道具みたいだと思っていたら、苦悶の表情を浮かべた女が恨めしそうにこちらを睨めつけて何度も許さない、許さない、と、部屋に波を起こして、そして、息絶えた。夢の中でならこんなにも簡単に殺せるんだなアと思い至った瞬間、そうか夢かと自覚して、それから目が覚めた。上体を起こすと、狭いワンルームに女の死体はなく、それでも包丁の柄の感触は、手のひらに生々しく残っていた。


*


エレベーターに入ると、乗り合わせた男性が私に「何階ですか」と尋ねてきた。階数表示を見上げてから、自分の行き先がどこなのか分からないことに気がついた。そもそも何故エレベーターに乗っているのかしら、と首を傾げて、あアまた夢を見ている、と結論付けるまでにそう時間はかからなかった。しかし今度はなかなか目が覚めない。男性は「とりあえず、押しますね」と言いながら当てずっぽうにボタンを押した。動き出したエレベーターがごうんごうんと音を立てる。


*


その激情はいつも私の右手に溶接されていて握り締めると蝉の抜け殻を潰した時と同じ音がした。死んでしまえばいい、と、殺してしまいたい、の間には、長い長い隔たりがある。私が握りつぶしたのはどちらであったのか。「なぜ悔いているんですか」人道に悖るから。「貴女まだご自分を人間だと思っていらっしゃる」いけませんか。「是非云々ではありませんよ」羽化した狂気は粉々になった慈悲を残してどこへ飛んでいくのか。


*


狭いワンルームにあったのは女の死体ではなく私が脱ぎ散らかした衣服だった。脂汗でべたつく額を手の甲で拭いながら、洗面所に向かう。蛇口から赤黒い血液が出てくるような気がして、背筋が粟立った。


*


「彼女と一緒にいると、まるで自分が彼女の描いたシナリオの一部として動かされているような、舞台装置にでもされているような、そんな気がしてくるんです。誰も彼も彼女の世界ではいつだって端役で、都合の良い駒で、当たり障りのないオブジェクトでした。そのような振る舞いを世界から許容されている事が、なんだか妙に煩わしくて、厭わしくて、だから、僕は彼女を殺しました」


*


「おかしいですね」

「何がですか」

「私も殺したんです」

「彼女を?」

「夢の中で、ですけど」

「自身が蝶であるという自覚なしに人として相応の殺意を持って人を殺めたとして、夢から覚めた蝶が潔白であると言えるのでしょうか」


*


エレベーターは音を立て続けている。階数表示は6から動かない。「このエレベーター、上がってるのか下がってるのか、どっちだと思います?」男性の目の前にあるボタンには全てHと書かれている。「もしも下りているんなら、行き先はHellってことになりますかね」地獄に落ちる、ですか。「おかしいですか」ええ、だって、それは下にあるわけではありませんから。


*


地獄はいつだって、自分の中にあるんですよ。

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ふたりぶん koi @y_koi

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