もしも自分が死んだなら
中学三年の途中から、毎日日記をつけている。かさばっていく日記たちは、自分の思い出や記録であり、大切なものだ。捨てるという選択肢はなかった。
しかし一方で、もし私が突然死ぬことがあったら、この日記を家族が読むのだろうかと不安を覚えた。誰かに読ませることを想定してはいないものの、もともとある程度節度の保たれた日記ではある、とは思う。だけど人に見られるのは嫌だなあ、と思ったわけである。死んだら見られたところでこの世にいないのだから関係ないとも思うのだけど。
そもそも思い出だ記録だと言いながら、ほぼ読み返していない日記帳の山。なんなら毎日続けるという目的のあまり、内容のない、残す価値のない記録が多々あるわけである。
恥を忍んで言うが、いつかの日記帳には死ぬ間際のような字で今眠いことを書き残していたり、何もしてなくて書くことがなくて困ったなみたいなことが書かれていて、内容もないが、別の意味で恥ずかしいことこの上ない。残す意味とは。
そんなことを考えていたある日、益田ミリさんのコラムに出会った。何の雑誌だったか覚えていないが連載をされていて、日記について書いていらっしゃった。
彼女は日記帳の残しておきたいページだけを切り取ってクリアファイルに残し、日記帳を手放したという。
これを真似しようと思った。私の日記帳はノート39冊と、2011年からは一日一頁の一年日記で毎年一冊。それを意を決して読み返し始めた。
日記をつけ始めたのは、さくらももこさんの影響だっただろうか。文章力の向上のために書き始めたというエッセイに触発され、即日始めたのだったと思う。
何も私が、物事にすぐ取り組む人間なわけではない。「かわいい日記帳を買ってから」「一月一日から」などと言っていると私の熱は冷めるだろう。悲しいかな私はそのことを知っていたので、思い立ったその日に、買い置きのキャンパスノートにつけ始めたというわけだ。えらい。
ちなみに始めて四日目、私は日記を書くのを忘れて布団に入った。電気を消してから思い出した私は、電気を再びつけて起き出して日記を書いた。ここで「明日まとめて今日の分を」とならないのは、確実にできないと自分でわかっていたからだ。このまま寝たら、まさに三日坊主。習慣化するまでは意地でも続けることが大事だ。おかげで今日まで続いている。えらい。
話は逸れたが、こうして続いている日記を読み返し始めた。さすがに手放すにはハードルの高かったので、捨てる前に表紙の写真をすべて残している。振り返ると、手放しはじめたのは二〇一六年だった。
昔の自分に向き合うのは大変な作業だ。懐かしさや忘れていたことに心躍ることもあるが、身悶えするような恥ずかしさや思い出したくないような出来事も多く、心をわりと削られる。読まずに手放せばいいじゃないか、とミニマリストは言うだろうが、それができないから読み返しているのだ。
確認してみたところ、二〇一六年に手放したのが十二冊。およそ二年3ヶ月分ほどににすぎなかった。ちなみに一年日記を使う前も、ずっと一日一頁で使ってきた。下までいっぱいに書いてある日もあれば数行の日もある。それを十二冊読み返し、手放したのだ。
取っておきたいページは破って、端に日記のNo.と年を記入しておく。ノートから切り離すと、日付以外がわからないためだ。
次に日記に向き合ったのは二〇一九年だった。ここから二〇二二年のあいだにに断続的に、No.39、二〇一〇年までの日記帳を手放している。その後、一年に一冊ペースで二〇一二年までの日記帳を手放した。
あわせて手帳も手放していて、こちらは二〇一一年まで手放した。
この先は取っておく期間を決めて、都度都度手放していきたい、と考えている。日記は十年、手帳は十二年から十五年にしようかと今考えている。
そうすると手帳はともかく、日記はもう少し手放さなければいけない。読み返さなければいけない。だがしかし。それがつらい。
十代の頃の日記が若さゆえの悶えるような恥ずかしさなら、その先は、自分の至らなさを突きつけられるような恥ずかしさだ。なるべくよいことだけを日記に残そうと思っていても、だ。
自分自身が落ちているときに、一年分の日記を読むのは本当に心が削られる。落ちてなくても落ち込んでくる。個人的に二〇一二年が暗黒期だったこともあり、なかなかつらかった。ゆえに、もう少し手放したいと思いつつ、いまだ取りかかれずにいる。
万全の心身のときに、立ち向かいたいものだ。
ちなみに私の使っている日記帳は高橋書店のNo.10。日記帳には一日一頁のほかにマンスリーのページがあり、いつからかそこに行った場所などを書いている。たとえいつか警察が来てアリバイを聞かれるようなことがあっても、「ちょっと日記を確認しますね。ああその日は仕事帰りにガソリンを入れて、その後本屋に行ってますね」などと淀みなく答えられるというわけだ。
一方手帳には予定を書いていて、その日、あるいはその週のことや気持ちなどを書いている。手帳は高橋、ではなくほぼ日だ。
性質が違うため日記も手帳もどちらも残しておきたいというのと、手帳には記憶に残った楽しかったこと、よかったことなど、比較的ポジティブな内容が端的に残っているため、少し長めの期間を設定した。もちろん、単純に手帳のほうがかさばらない、という理由もある。
もしも自分が家族より先に死ぬことになったら。日記に限らず、整理がしやすいようにものは減らして置くべきなのだろう。日記の中身に頭を抱えずに済むように、ある程度整理しておきたいものである。
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