第十九話「アリスコーヒー」
翌日。
待ち合わせをした喫茶店に向かう。
嬉野さんの部屋じゃないんだと少し残念だと思ったけども、喫茶店で待ち合わせなんてまるでデートみたいじゃないかと、昨夜は舞い上がったものだ。
そう。昨夜までは。
「シノさま、昨日あんなに雨が降ったのにもう水溜まり一つありませんね」
「そうだな。台風一過で天気もいいしあっという間に蒸発ちゃったんだろ」
俺のデート計画もあっという間に蒸発しちゃったけどな。
ご機嫌に隣を歩くアリスはそんな俺の気持ちを露知らず、小さい歩幅で一生懸命隣をついてくる。
「ところでアリスさんや」
「はい?」
「今日はお留守番でもいいんじゃないでしょうか?」
「お留守番ですか? でもかもめさんがアリスちゃんも絶対に来てねって言ってましたよ?」
そうなんだよなぁ。
なんでかなぁ。
俺と二人っきりじゃ嫌なのかなぁ。
嫌だよなぁ。普通に考えて。
「ん?」
喫茶店に着くと、入り口に紐で吊るされたプレートには〝CLOSED〟と書かれてある。
あれ、今日お店やってないのか。
でも、嬉野さんのバイト先でもあるし、お休みかどうかは把握してると思うけど。
嬉野さんに連絡しようとスマホをポケットから出したところで、喫茶店のドアが開いた。
そこから嬉野さんが顔を覗かせる。
「あ、ごめん待たせちゃった? 外暑いでしょ。入っちゃって」
「あ、はい」
あれ、今日はお休みなのでは? と疑問に思いながらも招かれるままに店内に入る。
店内はエアコンがよく効いていて、背中の汗が引いていくのを感じた。
「入り口には休みってなってましたけど、入っちゃって大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。今日は貸切だから」
貸切?
どゆこと?
「シノくんはあそこ座って。コンセントが一番近いの。あと、飲み物決めちゃって。今日は飲み放題の食べ放題だから」
あれ、今日は宿題のレポートを手伝いに来たんだよな?
これってどんな状況なんだ?
「ちょっとかもめさん、あまり調子に乗らないように頼むよ」
呆気に取られていると、奥からオーナーが姿を現した。
この喫茶店のオーナーは初老の男性だ。
もう定年を迎えてるいるような年輪を感じるが、姿勢が良いせいか動きは若々しく見える。
まさに老執事。
セバスチャンって感じだ。
俺は咄嗟に軽く会釈をする。アリスも隣でそれに倣った。
「昨日電話で泣きつかれた時は只事じゃないと思いましたが、この様子だと貸し出す必要無かったですかね?」
「そんなこと言わないで下さいよ叔父さん。ほんと助かってますって」
「はぁ。まるで昔の妹を見ているかのようですよ。したたかというか、世渡り上手というか……。
とりあえず引き受けてしまいましたからね。かもめさんの良心に任せるとしますよ。良心が感じられなかった分は今月のお給料から天引きとさせてもらいましょうか」
「ありがと。叔父さん大好き!」
「はぁ……」
嬉野さんに言われた席でそんなやり取りを見てると、店長が諦めたようにキッチンに引っ込んで行った。
「お待たせ。飲み物決まった?」
「水で大丈夫です」
「私もお水で」
流石にさっきの会話を聞いた後だとねぇ。
アリスも気を遣ってるし。
「さっきの聞こえちゃった? 大丈夫だよ。店長は私の叔父なの。お母さんのお兄さん。そして叔父さんは私にあまあまだから、いくら頼んでも天引きされないんだから」
そんな算段があったらしい。
んじゃ、せっかくだしお言葉に甘えちゃいますかね。常識の範囲で。
「じゃあアイスコーヒーで」
「私もアイスコーヒーでお願いします」
「アリスちゃんコーヒー飲めるの?」
「コーヒーは初めてです」
アリスはよく分かってないようだった。
それもそうか。
アリスはこっちに来て飲んだものといえば、水道水と贅沢な時にお茶くらい。ああ、とある部分の未来投資で牛乳も一日一杯飲ませていたか。
節約とはいえ、アリスにとっては飲み物は喉を潤すものであって、子供が喜ぶような甘い飲みがあることを知らないのかもしれない。
「お前はオレンジジュースにしとけ」
「? コーヒーはダメなんですか?」
「ダメじゃないけど子供の口には合わないんだよ。あとで俺のを一口あげるから、今日はオレンジジュースにしとけ」
相変わらず聞き分けのいいアリスは素直に縦に頷く。
こいつ、来たばっかりの時はご飯にいちいち感動していたからな。
自分で作ったものなのに。
きっとジュースも喜ぶに違いない。
「それじゃアイスコーヒーとオレンジジュースね。叔父さーん。アイスコーヒーとオレンジジュースとブレンド!」
キッチンから店長から了解の返事が返ってくる。
「よし! じゃあ今日はよろしくね!」
嬉野さんがノートパソコンを取り出すと、不慣れな手つきで準備する。
用意されたノートパソコンを目の前に置かれると、文書作成ソフトが立ち上げられていた。
「俺は嬉野さんが言ったのを打っていけばいいですかね?」
「うん。それでお願い」
よーし。俺は今から自動手記⚪︎形。言われたことを書き起こす機械人形となるのだ。
俺のカニカニ打鍵が火を吹くぜ。
「私は何すればいいですか?」
「アリスちゃんは私の隣に座ってて。好きなもの頼んで食べていいから」
「それだけですか?」
「うん。アリスちゃんは可愛いから疲れた時に目の保養にして癒されるから」
「分かりました! 保養になります」
意味わかってるのやら。
飲み物も届き、作業が始まる。
嬉野さんが口にする言葉を、そのまま打っていく。
内容はさっぱりわからない。
俺はただただ打鍵していく。
最初は言葉が多くてちょっと待って下さいと、噛み合わない事もあったけど、時間が経てば嬉野さんも俺の打鍵速度に慣れてきて噛み合っていく。
それからは凄まじい集中力を発揮して、ぶっ通しで作業を終える事ができた。
「ありがとー。これでおしまい!」
「ふぅ」
どれくらいの文字数を打っただろうか。
普段の執筆もこれくらい進めばなと思うのと同時に大学生のレポートは大変なんだなと実感した。
集中しててあっという間だったけど、疲労感からして結構時間が経っているようにも思える。
「あ! ごめんねアリスちゃん。退屈にさせちゃった……あれ?」
見れば嬉野さんの隣にいたはずのアリスの姿がなかった。
トイレにでも行ってるのだろうか。
「アリスちゃんに悪い事しちゃったなぁ」
確かに。
俺も作業に夢中になって結構な時間ほっぽっちゃったからな。
特に子供の時に感じる時間はやけに長い。いくら聞き分けのいいアリスでも結構我慢させちゃったに違いない。
「お二人ともお疲れ様です」
タイミングを見計らったかのようにして、姿が無かったアリスがトレーにコーヒーを乗せて運んできた。
「アリスちゃんごめんね。退屈だったよね」
「大丈夫です。マスターのお手伝いをさせてもらっていました」
「マスター?」
「私の事だよ」
アリスに続いてキッチンから店長が出てくる。
マスターとは店長のことらしい。
「すみません。アリスが何か邪魔しちゃったみたいで……」
「いえいえ。最初お手伝いしたいと言われた時は困ったと思いましたが、アリスさんは凄いですよ。諦めていた汚れも落としてくれました」
「……アリスちょっとこっち来い」
コーヒーを運び終えたアリスの耳を引き寄せる。
「まさか魔法使ってないよな」
「大丈夫です。油汚れに効くお掃除魔法を使いましたがバレてません」
使ったらしい。
店長の様子からしてアリスの言った通りだし、問題ないか。
「だいぶ捗ったようですね」
「うん。お陰様でね。これで単位を落とさずに済みそう」
「これに反省してこれからはもっと余裕をもって夏休みの宿題をするように」
「小学生みたいな説教はやめてー」
嬉野さんがうんざりしたように答える。
まぁ、停電でデータが飛んだとはいえ、保存してなかったってことはギリギリに着手したのってのは変わりないか。
「お小言は程々にして、冷めないうちにコーヒーを召し上がって見て下さい。アリスさんが豆挽きからしてくれたんですよ」
「え、これアリスちゃんが淹れてくれたの?」
「アリスブレンドコーヒーです!」
どうやら裏で掃除以外にも色々とお世話になったらしい。
帰る時に改めてお礼を言っておこう。
普段はコーヒーには砂糖にミルクとまだお子ちゃまな舌だけど、せっかくアリスが淹れてくれたならブラックで頂いてみようかね。
カップを口元まで持ってくるとコーヒーの香ばしい香りが鼻をかすめる。
一口飲むと、ほのかに苦味を感じるも俺でも飲みやすい爽やかさがあった。
「美味いな」
「本当ですか!?」
「普段ブラックなんて飲まないけど、これならいけるな」
「うん。これ美味しいよアリスちゃん」
やったぁと無邪気に喜ぶアリス。
それを見てマスターが優しく微笑んでいる。
アリスのコーヒーをゆっくり楽しむと、時間はもう夕方になっていた。
いつもなら夕飯の支度をする時間だ。アリスが。
「篠原くん。今日はかもめさんがお世話になりました」
「あ、いえ。普段嬉野さんにはお世話になってますので」
アリス関連は本当に助かっている。
これくらいのことなら安いものだ。
「ちょっと早いですが夕飯を食べて行かれませんか? まだ花火をするには早いですし、ご馳走しますよ」
「え? 花火ですか?」
「あ! 花火はサプライズだったのに! もぉー」
嬉野さんが膨れている。
サプライズ? 花火? なんの話だ?
「今日のお礼にって思って花火買ってたの。アリスちゃん花火知ってる?」
アリスが首をふるふると横に振る。
「そう! 良かった。お店の駐車場で花火できたらアリスちゃん喜ぶかなって」
どうやら今日アリスがお呼ばれされた理由がこれのようだ。
「すみません。この前も服もらっちゃったのに」
「いいのいいの。タンスの肥やしになってたやつなんだから」
お互いのお礼合戦をしてから、店長が夕飯を用意してくれた。
オムライスなんて食べたのいつぶりだろうか。
しかも形は芸術的に綺麗だし、ふわとろで味も一品だ。
アリスなんて無言でせっせとスプーンを口に運んでいる。
「叔父さんのオムライス美味しいでしょ」
「滅茶苦茶美味しいです」
「美味しすぎです!」
今度また来た時はオムライスを頼もう。
そう考えながら、このお店のメニューにオムライスがあった記憶がないことに気づく。
「メニューにオムライスってありましたっけ?」
「それがないのよ。だから叔父さんのオムライスは激レア」
メニューを取ってみると、メニューの殆どがコーヒーでサイドメニューとしてサンドウィッチやガトーショコラがあるだけだった。因みにカキ氷は期間限定だ。
「勿体無いですよ。次来たらまた食べたいって思いました」
「ね! シノくんもそう思うでしょ? 叔父さんこの喫茶店始める前は結構有名なレストランのシェフだったんだよ。だから料理は得意なのに勿体無いよね」
素直な感想を口にすると、店長は嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。たまにかもめさんに手伝って貰っていますが、基本的に一人で回していますからね。あまり凝ったメニューを増やすと手が回らなくなってしまうんですよ」
そんな大人の事情があるらしい。
確かにオムライス作るの大変そうだしな。
料理して、運んで、片付けもして、会計もして。素人が考えられる作業だけでもこれだけあるんだから、一人じゃやっぱり難しいか。
「さて、日も落ちてきましたし、そろそろ頃合いじゃ無いですかね」
「あ、本当。じゃ駐車場に行こ。叔父さんバケツってどこだっけ」
みんなで花火の準備にへと外に向かおうとすると、アリスは未だに綺麗に食べ終わったお皿をジッと見つめていた。
「そんなに美味しかったのか?」
「はい。こちらに来て色々な美味しい料理を頂きましたが、一番でした」
「そうだよなぁ。また食べたいよな」
アリスがそう思うのも分かる。
今度またお願いしたら作ってくれたりしないかな。
「私は食器を片付けてから行きますので、シノさまはお先に行って下さい」
「片付けって、お前」
「マスターにコーヒーを教えて貰った時に場所を覚えたので大丈夫です」
「そうか。でも俺が何もしてない
文化祭の準備で作業を割り振られなくて何もしなかった時間を思い出す。
皆んな何かしてる中で何もしないって結構キツイんだよな。
手伝おうとするとうざったがれるし、何もしないとサボってるって白い目で見られるし。居心地が悪いったらありゃしない。
アリスと手早く片付けを終えて駐車場に向かうと、既に花火の準備は整っているようで、バケツとロウソク、花火セットが置かれていた。
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