ゆりやんレトリィバア氏の俳句について

佐伯 安奈

ゆりやんレトリィバア氏の俳句について

 私は例の夏井いつきとかいう「俳人」が、勝手に人の作った俳句に点数をつけてはそれらしい評言を連ねて、観客の笑いと視聴率とをかせぐという、あのテレビ番組は見たことがない。

 ゆりやんレトリィバアという人についてもお笑い芸人であることくらいしか知らないし、知る必要性も感じない。


 しかし先日ネットニュースを見ていたらこんな見出しが目に留まって興味を惹いた。


【プレバト】ゆりやん 俳句で衝撃「5点」夏井先生が激怒「日本語としても腹立たしい」意味不明の迷作 浜田雅功は大喜び(デイリースポーツ 2024年5月9日配信)


 夏井いつきという「俳人」は、よほど才能に満ち溢れた人であるらしく、誰が作ったどんな俳句であっても、大手のゼネコンのように遮二無二自分好みの俳句に作りなおしてしまえるらしい。素晴らしい才能である。そのうち誰か人間国宝にでもしてやってガラスケースの中に展示するといい。みんなが拝みに来てきっとおのおのの「俳句」も上達することだろう。・・・ともあれこの番組では「70点以上で才能アリがもらえ・・・「才能ナシ」でも20点ほどは与えられる」のだそうだ。


 ところがゆりやんレトリィバア氏の作品に対して、「俳人」夏井いつきは、5点しかあげなかったという。

 その俳句がどういうものかというと、「消しゴムが 白き水面に ボウフラを」というものだったらしい。

 これに対する「俳人」夏井いつきの反応から、彼女の正体が実によく垣間見えて、たいへん飯が美味い。記事の中からその全文を引こう。


「久々に腹立たしいものがやってきました。冷静になってみてください。消しゴムが…なんで水面が白いんですか?そこから、良く分からないでしょう。消しゴムを水面に浮かぶボウフラに投げて攻撃したのかなと思いました。あなたの言いたいことは、この字面ではまったく伝わらない」


 まず「冷静になってみてください」という言葉は、彼女が自分自身に発したものだろう。その直前に「腹立たしく」なっているのは彼女自身だし、そもそもこの番組において、誰かの作った句に対して冷静さを失うほど俳句に思い入れのある人間など夏井しかいないはずだからだ。その思い入れとは、要するに夏井いつきの信じる「俳句の作法」に通じ、それにかなうかどうかがこの番組の眼目なのだろう。つまりこのゆりやんレトリィバア氏の作品は、俳句に対する夏井の積年の思い込みに真向から挑戦するものだったと言える。そして自分には理解できない世界に対して、のっけから「腹立たしい」などと言い放ち、自分で自分に冷静さを求めなければならないほど度を失っている時点で、夏井はゆりやんレトリィバア氏にすでに敗北しているのであり、また所詮夏井という人は、自分の価値観が脅かされ得る状況において、こういう短絡的で子供じみた遠吠えしか吐けない「表現者」に過ぎないことを自ら暴露しているのである。


 さて、一応夏井は冷静になったらしい。とりあえずこの作品を理解してみようという慈悲心を起してやる気持ちになったのだろう。ただ怒っている一方ではテレビの前のお利口な視聴者のみなさんに示しがつかない。


 しかしかなしいかな、彼女はすぐその想像力の限界を露呈する。「消しゴムが…なんで水面が白いんですか?そこから、良く分からないでしょう。消しゴムを水面に浮かぶボウフラに投げて攻撃したのかなと思いました。」

 どうもこの人は、目の前にある文字はそれが持っている意味をそのままに読み取らなくてはいけないと思っているようである。行間を読み、そこから想像をふくらませるという、文学作品に触れる上では当たり前の作用を知らないらしい。しかし俳句は詩であり文学である。ならば、そこにおいて使われる言葉は、当然普段使われる言葉とはまた違う意味をまとうのだ。ただ「花」と言えばそこらじゅうに咲いているありとあらゆる植物の、種をつける前の段階をさすのに対し、俳句でいう「花」が、おおむね桜をさすのと同じように。


 まさか夏井いつきともあろう人がそんなキホン的なことを知らないはずもなかろうが、まあ弘法大師だって字を間違えたことくらいあっただろうから仕方がない。ところでゆりやんレトリィバア氏が自分の俳句を解説したのがこうだ。


「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」


 この発想はなかなか面白いし、これを俳句にしようという資性は相当なものである。私は皮肉で言っているのではない。第一私が今まで作ってきた俳句は、この人の発想とそんなに違ったところにはいないと思う。きっと夏井いつきには鼻汁一滴ひっかけられはしないだろう。光栄である。  


 ところで、やや言葉足らずな感じがするが、この俳句には自由にイメージが飛翔していく心地よさがある。


 消しゴムが 白き水面に ボウフラを


 ノートが「白き水面」に転換していく。このイメージの推移は見事だ。少女。機械的に消しゴムを動かし続けた手、勉強に疲れた頭。どこかぼーっとしているうちに、ノートが波打つ水面のように見えだした。その波もいつか静かになり、水中の生物も見えてくる。歴然と浮かび上がってくるのは、消しゴムかすが変化へんげしたボウフラ。何匹も何十匹ものボウフラがノートの上にいる。もしくは少女は勉強疲れで嫌になって、ノートを引き裂き庭の池にページを撒き散らした。水面を白い紙が埋め尽くす。その上に消しゴムかすもふりまく。まるで池の中でうねうね動いているボウフラのような。

 或いは、消しかすを、ではなく、消しゴムを、と言っているので、机にぎっしりと持っているだけの消しゴムを敷き詰めて「白い水面」とし、その上にその消しゴムから排出された消しかすを散らしたのかもしれない。

 いずれにせよ何とも奇怪な光景。それをじっと見つめる少女。そこにはある種の狂気さえ感じられなくもない。夏井いつきに、そんな感慨を持たせる作品が一つでもあるだろうか?


「あなたの言いたいことは、この字面ではまったく伝わらない」と夏井は吠えているが、そもそも人は必ず何か言いたいこと、伝えたいことがあると心に決めて表現をするものだろうか。このゆりやんレトリィバア氏の俳句にはそういうものは感じられない。むしろ、もっと茫漠とした心の動きである。それは水面のように形もなく、はっきりとそこにあるが捉えきれない、あるゆるやかな感情である。断言口調の「採点」などとはそもそも別の次元にある俳句と言えよう。そういうものがありうると、夏井いつきは知っているのだろうか。


「これは俳句としても、日本語としても腹立たしいものです。しゃべってるとだんだん、腹が立つ」などと夏井は最後に言ったらしい。一体この人は日本語の正確さや美しさを判定する裁判所でも所有しているのだろうか。自分こそが「あるべき俳句」「あるべき日本語」の悟達者であり、権威者であると鼻息を荒くして任じているように見える。

 しかし、「腹が立つ」「腹が立つ」などと、文学的資質のまるで感じられない、幼児の如き単純なワードを何度も連呼して自分の感情を現すことしかできない彼女に、「日本語として」などと他人に言えた義理があるのだろうか。この人はずいぶん複雑に矛盾した性格の持ち主なのかもしれない。彼女の俳句からも、他人の俳句への評言からも、文学的な資性は笑ってしまうほど全く感じられないが、彼女自身はある意味で「文学的」な人間と言えないこともない。


 たぶん、この不当なまでの憤りは、自分にはおよそ作れない世界への嫉妬とみなすのが一番妥当だろう。

 夏井いつきが「5点」しかつけなかった、ゆりやんレトリィバア氏の俳句。

 私は「90点」をつける。

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