第11話 魔族

 普段であればしない晩酌で、ぬるい酒を喉に流し込みながら、ミアは窓の外を眺めた。

 こんな時間まで起きていたのは何時ぶりだろうか。食卓の上では蝋燭が揺れていて、視界の端々で黒い影が躍っている。その暗がりが恐ろしいようでいて、この夜の空気感に呑み込まれてしまいそうになるのも、実は嫌いではなかった。


 眠くなって瞼が閉じてきた頃に、宿屋の扉が開いた。出かけていた客は数人いたが、誰かが帰って来て顔を合わせる前に自室に戻ればよかったと、今更ながらに後悔する。

 顔を合わせないようにして、下を向きつつ小さく一口エールを飲む。男の客の為に大量に確保してある酒だったが、自分で飲んでもあまり楽しいものではない。酒に弱い方ではないし、酔って楽しくなれる人間でもなかった。


 男は無言で食堂の傍を通り過ぎ、そのまま階段を昇って二階へと消えて行った。

 彼が過度な干渉をしなかったことに安堵の一息を吐こうとして、そのとき鼻腔をよぎった血の匂いに思わず息を詰まらせる。先程の男が怪我をしていたのだろう。血の匂いがするということは、怪我をしてからあまり時間は経っていないはず。


 頭を若干鈍らせていた酔いがさめる。客が怪我をして帰って来ることは良くあるが、血で寝台等を汚されたら堪ったものではない。一応普段の清掃は業者に頼んでいるが、血液などといった特殊な汚れは追加料金を取られたはず。

 少なくとも怪我の様子程度は確認しておくべきだろう。


 こんな深夜に働かせられることに内心文句を呟きつつも、男の後を追い掛けて階段を昇る。


 階段を昇り切って辺りを見渡し、視界の端に写ったのは部屋の中へと足を踏み入れる先程の男だった。

 その痕跡を残すように床では血痕が赤く滲んでいる。


 怪我なんぞするならば戦場になど行かなければ良いのに、と口には出さずに思う。彼らが戦闘で収入を得ている────命を賭けて金を得ていることは分かっていても、やはりそう思わずにはいられなかった。

 この後のことを思って若干腹立っているからだろうか、次第に頭が目の前の男への罵倒で埋め尽くされて行く。


 その勢いのままに、男の部屋の扉に手を掛ける。

 鍵すらかかっていなかったその扉は音も立てずに開いて、拍子抜けしながらも彼女は部屋の中を見渡した。


 案の定、男は寝台の上に倒れ込んでいた。そこに赤黒い血液が染み込んでいるのが暗闇の中で微かに見えて、思わず舌打ちをする。


「寝ている場合じゃないですよ」


 思っていたよりも厳しい口調で、その言葉が喉の奥から滑り出して来た。男は、その声にも反応する素振りを見せない。

 取り敢えずこれ以上清掃の手間が増えることがないよう、この男を寝台からどかさなければならない。普通か弱い子女というのは積極的に寝台に寝かせて、看病をするのだろうが。ミアには彼の命以上に寝台に付けられた汚れの方が大事だった。


「起きてください」


 一応言葉上は敬語を使いながらも、声音は段々と適当なものになって行く。


 目を覚ます気配のない男に対して、ミアは苛立ったように手を伸ばす。…………逆上されて暴力を振られても抵抗の出来ない彼女が、普段であれば取るはずのない行動だった。

 やはり飲酒をしていたのが良くなかったのだろう。彼女の判断力は通常時のそれと比べて著しく鈍っている。


 俯せだった彼を引っ繰り返し、仰向けにした時点で気が付いた。窓から覗く星明りでさえも気が付く、太腿の付け根の怪我。

 雑な止血がしてあるが、何故それで動けるのかと聞きたくなるほどには、深い傷だった。皮は剥がれ、その奥の筋肉が見えている。更にその奥には白い何かが覗いていた。骨ではないだろうが、何かの筋だろうか。


 良く見れば、男の顔も青白い。出血多量なのだろう。


 このような場所で宿屋をやっているミアであっても、死にゆく人間に見慣れているかと言われればそうではない。今も、急に足元が覚束なくなったかのようにふらつきながらも、何かを決意したのかのように呼吸を整えていた。


「今更目が覚めても文句は受け付けませんからね」


 男のズボンを腰に提げていたナイフで切り裂きながら、ミアがそんなことを言う。露になった筋肉質の脚に、先程の傷がより映えて見える。布地に隠されていた部分の傷跡も含めると、怪我の実情は見かけ以上に酷かった。


 星明かりを頼りに、既に施してある止血に更に手を加えて行く。


 時折食堂の方に必要な物を取りに行きながらも、傷跡の応急処置を続けるミア。回復に良いとされている薬を傷跡に塗り付けようとして、太腿の裏側に光る何かに気が付いた。


 血液に紛れるようにして、赤くくすんだ何かが、男の太腿の裏を覆っている。赤茶けた、そして若干の光沢を放つ何かが。

 恐る恐る、彼女は男の脚を持ち上げる。


 そこには、彼が人間ではないことを明確に示すように、夥しい数の鱗が輝いていた。


「……………魔族」


 耐えきれず、ミアが口に出す。


 彼女は反射的に手を離して、支えを失った足が床へと音を立てて落ちる。その衝撃で飛び上がるようにして、その男が上体を起こす。


 彼は、数瞬の間思考を巡らせた後、何が起きたのかを理解したのか、一気に表情を硬くした。ミアは何も言えずに、ただただ息を潜めて床の上で縮こまる。


 男の─────クラスメイトの中でただ一人魔族として召喚された吉河よしかわそうの、行動は速かった。

 飛びつくようにして、ミアを床へと押し倒す。呻き声を上げた彼女の首元に両腕を押し付けて、そのまま体重をかけて力を込めた。


 ミアの意識は次第に遠のいて行った。

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