第8話 水の音

自機を駐機させ、地上へ降り立つ。

遠くから雨の降る前特有の湿っぽい匂いがする。

雨の降ってくるのが飛行中じゃなくて良かった。


僕は逢坂さんに駆け寄り、声をかける。


「改めてお見事でした」


「いやいや、竹中くんも本当に良くやっていると思いますよ」


「そうですかね...ありがとうございます」


なぜだか逢坂さんから褒められると露骨に照れてしまう。


「それでは事後の行動については、一度身体の整備を実施した後、1500に談話室へ集合し訓練の所感を交換する。それでは別れて事後の行動に、別れ」


「別れます」


敬礼をして逢坂さんと一度別れる。

僕は、一度頭を整理するためにシャワーを浴びに向かう事にした。

巴戦は旋回の連続である。加速度が身体にかかればそれだけ血は沸騰するかのように沸き立つし、その分汗も吹き出る。

さらに地上に居れば、南方の雨季は晴れていても湿度が高く、肌が自然とベタついてしまう。

その不快感は思考を掻き乱す要因となるので何か考え事をする前には必ずシャワーを浴びるのが僕のルーティンだった。


一度自室に戻り、タオルや着替えなど入浴に必要な一式を持つ。

そういえば身体の整備というが、逢坂さんはいつもこの時間をどうしているのだろうか。


(自室に戻った形跡もないし...)


この後僕は聞いてみることにした。

シャワーは隊舎に備え付けられており、浴場へ赴く必要がないのはありがたい所だ。


早速蛇口を捻って頭からシャワーを浴びる。

清らかなお湯が体を伝い汗を流してくれる。

水音が思考の雑念を払ってくれる。


僕の頭の中で、軌跡を描き始める。

滑走路から離陸して、

一つの軌跡は別れ二つの軌跡へ、

しばらくして牽引式の機体が上から降ってくる。

これは逢坂さんの機体だ。

プッシャ式の戦闘機が-Gをかけながら降下し始める。

これは僕の機体だ。

しきりに振り返りながら見た逢坂さんの機体の姿勢を思い出す。

僕はバレルロール気味に旋回しながら回避した。

しかし逢坂さんの機体は向きを変えず真っ直ぐ突っ込んでくるだけだったように思う。

おそらくここで降下しきらずに機体を引き起こせば即座に照準に捉えられていたはずだ。

仕掛けの上手さと、敵の動きを読んだ動きに舌を巻いてしまう。

それと同時に、機体特性を熟知すればミスを極力減らせる事の重大さに改めて気がつく。

針花は高速機だ。その分機体剛性が高い。

桜雷は格闘性能を捨てきれていない分、しなやかだが急降下耐性は低い。

だから敵機の判別は出来るようにしておかねばならないし、報告書に目を通す事を怠ってはならないのだと理解する。


ふぅ...


ため息にも近い息が漏れる。

思考を続けると息をするのを忘れてしまう癖があるからこうして思考を途切れさせねばならないのが残念だ。

これ以上は思考が纏まらなそうなので適当に切り上げることにする。


蛇口を捻り、お湯をとめて浴室を出る。

タオルで適当に水分を拭き取り、その足で談話室へと向かう。

時刻はまだ1340。かなり余裕があった。

ガラス戸を開けると、そこにはいつかみたく柊さんが座っていた。


「あれ?竹中くんは今、お風呂上がり?」


「いえ、シャワーだけ浴びて来たところです」


「そうなんだ、竹中くんはもしかして考え事をするときはシャワーを浴びるたちだったりする?」


「ん?ええ、そうです。僕は考え事をするときはシャワーを浴びるたちなんですよ」


僕は心底驚いた。一発でそんなことを言い当てたのは柊さんが初めてだったからだ。


「わかるなあ~、私もね、考え事をするときはシャワーを浴びたり、川を眺めたり、なんか水の流れる音とかがあると考えがまとまりやすいんだろうね」


「柊さんもそうなのですね」


「うん。もっとも、南方に来てからは近場に川が無いからもっぱらシャワーを浴びてばっかりだね」


更に驚いた。僕と同じ習慣のある人がいるとは。

柊さんに少し親近感が湧いた気がする。


「そうだ、竹中くんはさ...っと、私はそろそろ行かなきゃ。またね」


柊さんは僕の肩を叩いて横を過ぎ去り、

何か聞きかけたまま行ってしまった。

なんだか取り残されたような気分だ。


外はすでに曇天で、今にも雨が降り出しそうだ。


僕は柊さんが談話室を出てからしばらくの間、煙草を吸いながら外の様子を見ていた。

振り出した雨が熱せられたコンクリートを急激に冷やし、霧散して行く。

吐き出した紫煙の隙間を埋めるように肺へと流れ込む空気が酷く湿っぽい。

また物思いにふけるには丁度いい天気だ。


遠くの空はまだ白んで見える。

だがそれも、やがては黒っぽくなるんだろう。

僕はこの天候に何を乗せて考えているのか、タールで夢見心地な僕の頭では考えが少し足らなかった。


液冷らしいエンジン音が駐機場から聞こえてくる。

液冷機は双発の閃華という機体が運用されている。

柊さんの機体も確か、双発の閃華という機体のはずだ。

この閃華はもっぱら偵察とか、より前線に近い所だと直協任務に運用されている物で空戦は苦手だ。

だが、近々爆撃機護衛や要撃といった重戦闘機としての運用に向けた改修をした機体がロールアウトしつつある、という話しが出ているのでイメージを変えていかないといけない時期なのかもしれない。


(柊飛行士か...)


正直な所、僕は彼女のことを何もわかっていない。

出身も経歴も、知って居るのは名前と好きな食べ物くらい。

快活に笑う柊さんの声がふと頭を過る。

彼女は何を思ってこの空を飛んでいるんだろう。


(...僕が特定の個人のことを考えるなんて柄にもない事をするものだ)


何かが、少しおかしい気がする。

僕は気を紛らわせるために深く煙草を吸い込んだ。


「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ... ああ...」


「おや?大丈夫ですか」


そう声をかけてきたのは逢坂さんだ。

そうか、もう1500か。


「ええ。少し考え事をしてまして、おもむろに吸い込んだらむせちゃいました」


「そうですか。まぁ、たまにありますよね」


そう言いながら逢坂さんも煙管を取り出しマッチで火をつける。

その動作がどこか悠長でゆとりのあるように見えるのだから、人としての成熟度合いを感じさせられる。


「そういえば、逢坂さんは身体の整備の時はどんなふうにして過ごされているのですか?」


「ん?ああ、それはですね...」


逢坂さんは驚いたような顔を見せたあと少し罰の悪そうな顔をしながらポリポリと頬をかいている。


「聞いちゃマズかったですかね...」


「いやいや!全然、そんなことはないですよ!」


と、焦りを顕にする逢坂さんはこの一週間でも見たことがないほど狼狽していた。


「いや、あのホント、興味本位だったんで言いにくい事なら全然...「いやっ、違うんですよその、笑わないで聞いてくれますか?」」


逢坂さんの顔はもはや茹でダコのように耳まで真っ赤であり、限界そうな様子である。


「笑いませんよ。大丈夫です」


そういうと、少し深呼吸して逢坂さんは言った。


「実は、この基地に野良猫が居まして、それで、その猫に餌やりを...」


ついに打ち明けた、言ってしまったといった様子の逢坂さんは顔を覆うともかきむしるとも言えない動作をしながらグネグネと恥ずかしさに堪えている。


「あの、失礼とは存じますがそれだけ...?ですか」


「んぇ、あ、はい。それだけです...」


すっかり意気消沈の様子である。


「いやいや、別に良いじゃないですか、何も恥ずかしがる事なんてないですよ」


「いや、違う、違うんですよ竹中くん、男がですよ、大の男がこんな、こんな猫好きなんて恥ずかしくて恥ずかしくて」


「そうですか?別に猫好きくらい...」


「単純に、私の小さな矜持の問題なんです。だからどうか、みなさんには内密にお願いします...」


「わかりました」


僕は内心笑っていた。馬鹿にしている訳ではない。

いつも余裕のある大人かつ、完全無欠というような比類なき強さを誇る逢坂さんのイメージとの、大きな差が衝撃的だったのだ。


「逢坂さん、変な質問をしてしまい申し訳ありませんでした。ひとまず所感に戻りましょう」


「そ、そうですね」


深呼吸する代わりに逢坂さんは煙管に口をつけ深く、ゆっくりと吸い込んで吐き出す。

そうするといつもの逢坂さんに戻っていた。

切り替えの速さはあらゆる局面において優位に働く事を飛行士は皆、知って居る。


「さて、所感ですが、まず率直にD型はどうでしたか?」


そう聞くのも当たり前で、先程の模擬空戦はD型初の空戦機動かつ、全力運転だったのだ。


「うーん、そうですね、まず重心位置が変わったというのが体感できました。発動機が軽量化されたので機首を振る時のモーメントがかなり改善されているのかなと。ただ、トルクが強くなったような気がします。実際、前尾翼の整流板は拡大されてますし...」


「なるほどなるほど、ちなみに縦方向への旋回などはどうでしたか?」


「そうですね、やはり出力重量比が上がっているのでかなり、引き起こす時の力強さがあるなと思いました」


「やはりそうでしたか、私もあの最後の縦旋回の時、C型の予想位置に比べてかなり速く旋回していたので高エネルギーでの旋回が得意になっているなという印象でしたね」


「なるほど、そういえばその、逢坂さんの縦旋回の速さはどういう原理なのですか?」


「ああ、やはり気になりますか。実は、春雷にはエアブレーキが搭載されている事はご存知ですね?」


春雷は、翼の剛性に若干の問題を抱えて居る。

そのため、急降下制限速度が低く、超過しないように速度を抑えるためのエアブレーキが戦闘機にも関わらず搭載されていた。


「存じて居ります」


「実は、そのエアブレーキを展開しつつ、フラップを着陸まで下ろした状態で展開すると、両方にプロペラ後流がぶつかり、急激な減速が起こりつつ、高揚力が生じ、機首が上向くんです。そのままスロットルを最大まで上げて旋回を維持すると急激な旋回が出来るようになるんです。これが高速縦旋回の真相です。実はというか、この機動は機体にかなりの負荷がかかるので整備員からはちょくちょく叱られるので、あまりすべきではないのですけど」


クツクツといたずらっぽく笑う逢坂さんは少年のようである。おそらく、かつての空にはこのような無邪気な飛行機乗りが沢山いたのだろう。

僕らの世代にはそんな飛行機乗りはもう残ってないと思う。

僕はその姿に、かつての武士に憧れた偉人たちのような、英雄譚に憧れる少年のような心を思った。


「他には、何か所感などありますか?」


「いえ、特にありません。もう少し大人数ならば所感も増やせるのでしょうけど、まぁ、竹中くんと私だけですからね、ただの見せ合いになってしまっているので仕方がないでしょう」


「そうですね...それでは、今日はこの辺でお開きにしましょうか」


「はい」


「では、気を付け」


椅子から立ち上がり、不動の姿勢となる。


「事後は、機体の整備状況及び、明日の日程などを確認しつつ終礼まで身体の整備とする。では、別れて事後の行動に別れ」


「別れます」


僕は逢坂さんに対して敬礼をし、逢坂さんは答礼する。

かなり形式ばったやり取りだが、メリハリをつける為、というか最早習慣としてこういう行動をしていた。


外はまだ雨が降り続いている。


「今日の終礼はなしかな...」


逢坂さんの独り言が悄々と降る雨の音に消えて行った。

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