英雄の前日譚
プロローグ
時刻は0010。
僕は未だ暁の到らぬ夜空にその翼を滑らせて居た。
まだ目的地は見えない。
静かな夜だった。
ここで事態を明瞭にするため時系列はやや溯る。
転属が命ぜられたのは今から三日前の事である。
突然司令室に呼び出され、葉巻の匂いが充満する重苦しい雰囲気の中で司令官が口を開いた。
「突然で本当に申し訳ないが単刀直入に言って君には前線への転属を言い渡さねばならない。
私とてこのような事を通達したくはないが何せ上からの命令だ。
どうか理解して欲しい。
詳細は今手渡した辞令書の中に書いてある。
僚機を伴わない夜間飛行だ。
予定日までの間、君には休暇と外出自由を与える」
辞令書に目を落とす。
(なるほど)
この秋口の時期にしては珍しく急、かつ本来であれば陸路を行って転属先で新機体を受領する事がその常である筈だが、機体を伴っての転属という辞令である。
間違いなく前任を"損失"したのだろう。
そういう生業であるためこのような辞令は珍しくもないがやはり死が近くなる言うのは複雑な心境にもなるだろうという配慮に違いない。
(しっかし、このまくし立てるような口数の多さと取ってつけたような上からの命令という言葉から察するに辞令を受ける私よりも司令官殿は動揺してるのではないだろうか。いや、単に責任逃れとエゴの為か......)
そのような邪推を挟みつつ返事をする。
「了解。折角頂いた休暇を楽しませて頂きます」
上手くもない作り笑いを浮かべて敬礼をし、司令室を後にする。
手は自然とタバコを目当てにポケットを探っている。これは落ち着きがない証拠だ。
(邪推をしておきながら動揺をしているのか、僕は......)
「気を揉んでも仕方がない」
そんな独り言をぼやきながら僕は談話室に入り、煙草を吸うことにした。
ガラス戸を開けて中に入る。テーブルにかけられたビニールや壁紙は黄ばんでいて煙草を吸わない人にとって生存が厳しい環境かもしれない。
灰皿まで近付いて煙草に火を付ける。
奥の窓際の席に一人朝刊を拡げて居るのに気が付く。
その男は鼻に掛けるタイプのレンズの小さい眼鏡をかけており、一度私の方を一瞥してまた朝刊に視線を戻した。
「やぁ。竹中君」
視線は朝刊のままだ。
「おはよう。野田さん」
「今日の朝刊は読んだかい?」
「いや。まだ読んでない」
「そっか...... いや、どうやら前線にほど近い飛行場で昨晩襲撃があったそうでね。詳しい情報は相も変わらず載っては居ないんだけど」
「そうか。いや、なるほどね......」
重たい沈黙だけが流れる。
しかし深く詮索してこないのは今の自分にとって何よりもありがたかった。
紫煙が身の回りを包む。
(この微睡みのような時間はいつだって味わえるとは限らないのだろう)
僕はおもむろに談話室備え付けの冷蔵庫を開け、ビールを手に取る。
「栓抜きはサイドだ」
野田さんが丁寧にも栓抜きの場所を教えてくれた。
プシュッと景気の良い音と共にビールの香りが鼻孔を突く。
僕はグッとあおった。
ビールが喉で細かく弾けながら流れ込んでいく感覚と、程よいアルコールの開放感が身を包む。
ふぅ、と息をついて僕は野田さんを一瞥した。まだ朝刊を読んでいる。
「野田さん、俺、もう行かなくちゃ」
僕の口から出たのは、あまりにも頼りない別れの報告だった。
「そっかそっか...」
朝刊から目を離した野田さんは真っ直ぐに僕を見つめて言った。
「頑張れよ」
僕は泣きそうになるのを堪えて、グッと残ったビールを流し込み、煙草をもみ消してガラス戸を開けた。
「野田さんも」
これが彼との、別れの言葉だった。
吐き捨てるように返事をして飛び出した僕の足は、まだ飛ぶわけでもないのに自然と機体へと向いていた。
管制塔を出れば外は南方の強い日差しに照らされていた。
滑走路の反射が眩しく、陽炎が揺らめいている。
僕はビールのおかげで程よい充足感を得ながら格納庫へと入った。
明順応した視界には天窓から差し込む光に照らされた愛機が強調されて見えた。
僕は飛行する前みたいに機体の各部を点検する。
翼内機銃の点検口、フラップやエルロン、給油口、排気管...
一周か、二周した後、かけられた梯子を登って操縦席へと滑り込む。
僕の、僕だけの空間。
すぅっと息を吸い込み、おもむろに吐き出す。
戦場に飛び出してから小改修を加えながら共に飛び続けてきた、言わばゆりかごだ。
それと同時に、死ぬならこの愛機と共に死にたいと願っても居て、これが僕の全金属製の棺桶であるという自負もあった。
操縦桿を握りしめ、宙に空戦機動の足跡を描き出す。
ターン、ターン、スピン...
さあ、捉えた。
「バババババ」
口鉄砲で空想の標的機を撃ち落とす。
満足したからだろうか、突然冷静になって、あまりにも子供っぽいような、そんな行動に顔を赤らめて僕は愛機を後にした。
その後の2日はグダグダと営内で過ごした。
馴染みの整備士と談笑しながら自機の最終点検をしたり、僚機の後輩パイロットとビールを空けたり、飛行場全体で送別会を開いて貰ったりとつかの間の平和だった。
そして、あっという間に飛び立つ時が来た。
夜間ともあって出立は消灯後のためこれといった見送りもなく僚機のない夜間飛行に不思議な身軽さを感じながら
「頼むよ」
そう呟いて一気にエンジンを深し夜空に駆け上がった。
そして時系列は再び並行する。
プロペラの回転数、各種操縦系、油温どれも快調。
きっと奮発して整備を施してくれたんだろう。
今自分が搭乗している機体は針花IIC。
プッシャー式のレシプロ機で後方では既に最新型のD型の配備が始まっている機体だ。
キャビンは与圧式で少し凍えるような高度でも安心して空を飛ぶ事が出来た。
無線封止中のため本来は許されていないが少し激しめのロックミュージックを掛けて居る。
しかしそれも目的の飛行場周辺のピケットラインに侵入すると無線封止も同時に解除のためそろそろ切らねばならない。
噂をすれば管制塔から所属を聞いて来た。
「こちらN-07空 管制塔。貴殿の所属を問う」
寸での差でロックミュージックを切る事が出来た事に安堵しつつ返信する。
「こちらS-35空域所属機である。滑走路への侵入許可を乞う」
「了解。現在一番滑走路は修復中である。二番滑走路へ着陸されたし」
「了解。通信終わり」
これまでいた飛行場のどれよりも大きい事に、前線へ来たんだという実感が襲って来て身震いする。
「ついに来たな... ここでも頼むぞ、相棒」
緊張と不安を抱えながら、僕は愛機に言葉をかける。
特段、言霊なんかを信じる質ではないが進展地へと降り立つ時の慣例だった。
そうして夜間飛行を終え、駐機させた僕は用員に案内してもらって二人部屋に入る。
二段ベッドの下は既に埋まっていて、どうやら寝ているようだったので何も言わずに布団へ潜り込む。
そうして僕が眠りにつけたのは0300を回ってからだった。
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