第二話:入れ替わりの儀、それは
もし清大夫が自分の代わりに『村上左近』になってくれるとしたら、どんなにいいだろう。左近がかつての名前を捨て、男として生きるようになって、もう八年になる。もはや男として生きることに苦痛はないが、いつか能島の者たちに女と知れてしまう恐怖から解放されるのはありがたい。
「一つ聞かせてくれんか。いつ、どうやって入れ替わる?」
「……何も考えとらんかった」
清大夫は恥ずかしそうに顔を背けた。がっくりときた左近だが、思いつく当てがあると言えばある。
――入れ替わって、
村上左近を演ずる役者として清大夫を当て、左近自身は妻として祝言を挙げればいい。村上左近は男だという事実を公に広めることができるし、自然に左近自身も女に戻れる。
しかしそれを会ったばかりの清大夫に言うのは、どうしても憚られた。清大夫の性格を考えると、その話を笑い飛ばされたりなどしそうで。硬派な左近には、口が裂けても言えぬことであった。
「じゃ、俺は寝床でも探してくらァよ。さっきの
「待て、清大夫。安直に他所に行くと怪しまれる。行く当てがないなら、素直に私について来られェ」
優しさを隠そうと強い口調になった左近の言葉に逆らえず、清大夫は黙って左近の後についた。左近の心臓は、屋敷に近づくにつれて高鳴る。屋敷に帰って右筆の
「姉様に叱られよったら、そなたを屋敷には入れられんかも知れん」
「その姉上様とやらは、そんな大事な人なんか?」
清大夫は少し身を屈めて左近に尋ねた。彼は左近よりも、背が三寸か四寸ほど高い。心がはやって歩調の速くなる左近と並んで歩くにしても、清大夫はゆったりと歩いていた。
「晴姉様は、敵まみれのこの家の中で、
左近の真剣な口調から思い入れが伝わってくる。居心地の悪い家で過ごすのに、たった一人の味方の存在がいかに大切か。味方のいない彼にも、その純粋な気持ちは胸が痛くなるほど共感できる。紀伊にいた頃、清大夫にも味方がいた。
「もし姉様があかん言うたら、俺は大人しく引き下がる。あんま気を張らんでええんやぞ」
優しく言っても、左近の表情は固い。悪いことを言ってしまっただろうか、と清大夫は不安になってきた。己が得をするばかりの話ではなかろうか。しかしああ言わなければ、清大夫か左近の少なくともどちらかは死んでいただろうし、あの場を逃れたとて清大夫は野垂れ死んでいただろう。
「ま、なるようにしかならんか……」
早朝の瀬戸内の波は荒れていて、海風はなお強い。清大夫の呟きは風が松を揺らす音にかきけされ、左近に届くことはなかった。
§
「……左様にございますか」
左近の生母よりやや若いか、という年頃の
清大夫が屋敷に入る、晴に話を聞いてもらう、まで、
「また命を狙われた、と。何度申せば左近様はお聞き入れなさいますか。殺されますけぇ、早朝に外に出るなと申したでしょう!」
「私が松林に置いている、
「この様にお育ちになるんなら、外の景色など教えるのではありませんでした!」
「どうせ船に乗るよう育てられたのだから、遅かれ早かれ知っておったわ」
「口答えをなさいまするな!」
途中で
「
「それは……祝言を挙げるしか
「そうやんな!」
「こら清大夫ッ!」
清大夫が晴に調子を合わせようとする。左近は清大夫を一喝した。清大夫に茶々というか、余計なことを言われたくない。こちらは人生のかかった大事な話をしているのである。
自分でも認めたくないが、自分と結婚などしたくないと清大夫に笑われたら、悔しくてこの男を斬り殺すかもしれない。本来は親が決めるべき結婚を、自分たちで決めようとしているのもなんだか落ち着かない。
彼の口を塞ごうとしたのは、そんな浮足立つ心を押さえるためでもある。
「客人に何をなさいますか、左近様!」
晴と清大夫は考え方が近いようで、左近を差し置いてきゃっきゃと盛り上がっている。左近はそれが面白くない。いっそ、晴のことが面倒にすら思えてきた。
「心を静めなされませ、左近様。左近様が女じゃとは、いつか知れる話でしょう。そうじゃのうとも、誰かが左近様に嫁を探してくるかもしれませぬ。そうなったら厄介にございます。能島にやってきた嫁様に、左近様は女じゃけぇ郷里に帰れェ言わねばならんのですよ。その方はえらい恥でしょう。あまりにも気の毒にございます」
「ああ……そのことは……考えとらんかった……」
晴に滔々と語られてしまい、左近にはもう反論の余地はなかった。元々、清大夫と結婚したくないと強く思っているわけでもない。結婚のことなど、今の今まで、何一つ考えてこなかっただけだ。そして、急に話が進んで混乱しているだけだ。
「今日、左近の命を
清大夫が真面目くさった顔で晴と対話しているのが、左近には妙に癪である。この男が丁寧な口調で話をするのを、左近は初めて聞いた。
「左様でございます。何せ、左近様が女とも知らん方々じゃ。でも、いつかはせなならんかったことです。何、屋敷の中ですけぇ、乱暴なことはせんでしょう。むしろ祝言が一番と言えましょう」
晴の言うことは正しく、祝言が嫌だとは言えない。じわじわと兵糧攻めを食らっている気分である。
「いやァ、左近様が
右筆の晴は嬉しそうな表情で左近に申し出る。
「は、花嫁……衣裳……⁉︎ 私が⁉︎」
「男同士で祝言上げるつもりやったんけ?」
動揺する左近に清大夫が笑う。左近はむくれた。そうだとは一言も言ってない。
「ただ、思いもかけんかっただけだ。この私が……そんなもん着ることになるだなんて……。いつも男の格好をしている私が……」
「日頃は好きな格好らすればええ。やけどお主は俺の奥方っちゅうことになるんやからよ。時には女の格好しちゃあってくれ」
清大夫の言葉は
そんな簡単なものなのだろうか。いくら、この能島村上家では要らぬ子だと扱われていたといえども。輿入れとは親が決め、家の行く末すら左右するものだと思っていた左近は、自らの初心な緊張を深く恥じた。
「……承知した。腹を括ろう」
「左近様が女じゃと一同に知らせるんは、祝言の
「そらもう」
清大夫は左近の前で見せた姿とはまるで別人で、いかにも好青年といった様相だった。晴がひっそりと手配を進めるからと離れを去ると、清大夫はすぐに姿勢を崩し、床に寝転がると、左近に馴れ馴れしく話しかけてきた。やはり清大夫は清大夫だ。晴には演技ができて、なぜ左近にはしてくれないのだろう。
「いやァ今日も生き永らえてもうたわァ。左近のお陰や。おおきによ」
しらじらしい嘘をつかないでほしい。
「ほんまのことなんやぞ? でもよ、いっちゃん感謝してるんは、トモエを撃たせてもろうたことや。ひさしゅう撃ってなかったさけよ」
離れの隅に置かせてもらった火縄銃に目をやって、清大夫は微笑んだ。それが本心なのは左近にもわかる。手入れされている傷だらけの
「雑賀の鉄砲撃ちの話は、先に聞いたことがある。だが実物は初めて見た」
「雑賀は海にも出るさけな。俺も村上海賊の話は、ぼちぼち聞いて育ったわ。あの海の先には、
「兄上たちが私の年の頃には、清大夫の言う通り、えらい強かったと聞いておるがな。今はこの有様だろうが」
しかしどちらも今となっては、
「お主かて、雑賀の
「そうだな。名のある雑賀の者で私の知るのは、その男だけだ」
「俺の父上を殺したんは、その孫一や」
左近は言葉を失った。雑賀衆の内部分裂の話は清大夫本人から聞いたが、
「父上殺した後、すぐ信長が死んでよ。孫一はそのまま雑賀を捨てて、秀吉に仕えよった。親の
清大夫は命の危険があったことを、まるで忘れているかのようだった。
「孫一も討ちたいのか」
「いんや。俺が狙うんは秀吉や。孫一に教えたらんとな。おのれが雑賀を捨てて選んだ主君は、俺に撃たれて
明朗快活に見えて、性根の歪んだ男である。
「そういや左近の火薬、あれは凄かった。まさか、トモエを雨の中で討つことがあるとはなぁ。ほんまに左近の
「あるだけやろう。他に使う当てもないしな」
左近は平静を装ったが、心の高ぶりが抑えられなくて仕方がなかった。一人ひっそりと火薬に向き合い続けた左近にとって、自分の火薬を褒められるのは初めての経験だった。
晴は水軍の火薬を融通してくれるし、左近の火薬愛を知っている。左近の汚い字を、貴重な帳面に右筆としてまとめてくれている。だが晴自身は、左近の研究結果に興味を示すことはない。左近の火薬に興味を示したのは、清大夫が初めてだった。
色の白い顔が赤くなりそうで、左近は手で顔を押さえた。嬉しさが表に出てはいないかと不安でならなかった。
「さっき言うてた雨の狼煙も教えてや」
「あ、ああ……。構わんぞ」
清大夫は火薬と鉄砲の話を続けたそうだった。左近も同じ気持ちだった初めての貴重な機会だ、話を続けたい気持ちはある。だが、一気に話すのは少しもったいなく思えた。左近は他の話題を探す。大切な火薬の話題は後に取っておいて、少しずつ喋りたかった。
「それはそうと、清大夫よ」
「何や?」
「村上左近を名乗るなら、いかにも畿内のその喋り方、何とかならんのか。水軍ではその喋り方はおえんぞ。その口調では、誰も村上左近の言うことなど聞いてはくれん」
気まずそうに左近が指摘する。早口に火薬の話をしていた清大夫は、その瞬間にはっと口元を押さえた。
「他によう喋らんよ……」
清大夫がしゅんと
「……私のように喋ればいい」
「できやんもんはできやんわ!」
清大夫は強情である。面倒な男だ。左近はそれでも表情が緩み、心がはやるのを抑えられずにいた。自らが女に戻る日が来るとは思いもしなかった。晴から花嫁衣裳の話をいくら聞いても、まだ実感はない。生涯着ることはないと思っていたし、着たいとも思うこともなかった。
しかし婚儀が慎ましやかに行われるとは全く思っていない。何かが起こる。それは確かだ。
「……清大夫。何が起こると思う?」
「殺しに来るんちゃう?」
清大夫はあっけらかんとしている。
「ふたりぼっちじゃ、どうもならん。腹だけ括って行こら」
清大夫の覚悟に、左近は頷くしかなかった。ふたりとも、もう後には引けない。
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