(四)
樋口は、新田さんと会うからという理由で飲み会を断ることが度重なるようになった。必然的に機会が減るわけだが、それだけでなく、日頃から酒は控えるように心がけたらしい。あの呑兵衛が。皆最初は信じていなかったが、控えるどころか一滴も口にしない樋口を目の当たりにすると、事実だと受け入れる外なかった。新田さんとつき合い始めてからあいつは変わってしまい、友情よりも恋愛を優先させるような奴に成り下がったのだと嘆かれた。断酒のおかげか尊大な態度は鳴りをひそめ、樋口と新田さんはそこそこうまくいっているようだった。樋口のおこぼれにあずかり損ねた連中は、暗澹たる顔つきで二人の破局を願っていた。
そいつらの祈りが通じたのか、順調であったはずの交際に亀裂が生じた。冬休み中、二人っきりで旅行に行ってきたらしいが、仲は深まるどころか、出会った当初のような険悪さにリセットされていた。
何だってそんなぼろが出やすい環境に追い込んだのか。私が直接その質問をぶつけてみると、樋口は
「俺はちゃんと忠告したよ」
と言った。
詳細を求めたところ、
「長い」
と抜かしたので呑ませることにした。こいつは酔うと雄弁にはなるが、たとえ前後不覚になろうとも、口にしていいこととそうでないことの区別はできる男だ。
だからこそ、樋口は人からよく相談を受けた。樋口は、全てを黙っておくという簡単なことをせず、喋っていい話か否かを瞬時に見極めていた。そしてその判断はいつも間違っていなかった。樋口ひとところにとどめておかない方がいい話は、酒を呑んだ時に遠慮なく語られたが、それはいつも功を奏していた。その一方で、他に漏らすべきでない話に関しては沈黙を貫いていた。
つまり、私の一件のようなことは前例がないということだ。なぜあれに限って、という気がしないでもないが、樋口が喋ったおかげで『魔王』へのルートが開拓されたため、ある意味成功とも言える。
樋口は、そういった相談内容はもちろん、黙っているという行為さえも明かさなかったが、樋口に相談すると心が軽くなるという評判が立っていた。それが女性にもてる所以だったのかもしれない。その様子を見て、友人の一人が
「何にもしてないっていうだけなのにな」
と冗談交じりに樋口をからかっていた。
そうだ、樋口は何もしていなかった。独自のアドバイスを与えられるでもなし、ただ話を聞いていただけだった。その後の処置も、気を利かせてやっていたわけではなく、思うがままに振舞っているだけのことだった。その何もしないという点に惹かれて樋口を好きになったはずなのに、何もしてくれないというところに不満を持ち、次第に募らせ、そして酒を呑んだ樋口の姿が、思っていたのと違うと失望して去っていくのだ。
自ら進んで酒を堪能していたため、酔いはすぐに回った。樋口が語るところによると、この旅行は新田さんが提案したものだったらしい。樋口は即座に反対し、自分は旅行を楽しめない質だということ、そんな自分と旅行に行ってもお互いにストレスを溜めるだけだということ、もしどうしても行くというのなら、別な同行者を伴うか一人で行くかにすべきだということを述べ、断ろうとしたが、新田さんのごり押しに負け、結局二人で出かけたのだという。
「説得すんのもいい加減疲れたし、一遍痛い目に遭えば懲りると思った」
と樋口は回顧した。
痛い目に遭うといっても、旅行は恙なく進行した。それは、そういう意図によって他人を傷つけることができない樋口の性質のせいだろう。
待ちに待った最終日。カメラを取り出し構えた新田さんに対し、樋口は盛大な舌打ちをお見舞いしたらしい。あと少しであったのに。そこさえ乗り切れば完遂できたのに。当然咎められるが、樋口は取り繕うどころか開き直り、写真を撮るという行為がいかに無駄であるかを切々と語って聞かせた。酒も呑んでいないのに珍しいと思ったが、ある意味での旅行ハイだったのかもしれない。
決壊したかのように言葉を迸らせる樋口を見て、新田さんも新田さんで思うところがあったらしく、樋口がいかに非協力的であるかを縷々と述べ始めた。人の誘いはまず断るのでそれを説得するのが大変だっただとか、覇気が感じられないだとか、迷っているのに道を探そうともしない上に、連れて行かれるからつまらないのだろうと気遣って樋口が行きたい候補を訊ねているのに「ない」としか答えず、二重の意味で目的地に着く気がないだとか、切りがなかったらしい。容易に想像できる行動だ。樋口は旅行先でも樋口だ。樋口よ、「我慢した」などと言っているが、十分に滲み出ているではないか。寧ろよくそこまで持ったものだ。双方、爆ぜたのは旅行での不満ではなく、交際を始めてから今まで蓄積されてきたものだったのであろう。
「あのさあ、少しは楽しもうとしてよ! せっかく来たんだから、満喫しないともったいないでしょ」
「そうやって観光地に金を落とす方がよっぽどもったいないよ」
というか、もったいないと思ってんだったら、写真で時間を浪費してる場合じゃないと思うけど。
何だって追撃を食らわすのか。その言葉が決定打となり、別々に帰ってきたということだ。それでもまだ別れていないらしい。理由を訊くと樋口は口を酒で湿らせ、すぐさまお得意の長広舌を再び繰り広げ始めていた。私はそれに耳を傾けるでもなく、とろとろと眠りにつこうとしていた。自分から訊ねておいて悪いとは思わないでもないが、眠気には勝てなかった。そもそもこれは会話ではないのだから、呼応の関係は成り立つはずもなかった。私が訊ねたのだって、先を促す程度の軽い相槌のようなもので、どの道樋口は訳を話しただろう。行動の裏には全て樋口の論理が通っており、演説の際にはその論理が余すところなく筋道を立てて語られるのであった。
私は樋口を家に呼び、酒を呑ませ、延々と演説をさせるというのをよくやっていた。話が聴きたくて呼ぶわけだが、いかんせん長いので、私は途中で寝入ってしまうというのが常だった。ラジオを聞きながら眠りにつくのが習慣だったということも影響しているのかもしれない。私としては、意味をなさなくなった樋口の声を背景に眠るのも一興であったが、樋口はそれをどう思っているのかは訊いたことがない。私が眠り込んだ後どうしているのか、寝ていることに気づいているのかも知らない。誰も聞いていないのに喋り続ける樋口を想像すると切なくなったが、責められたことはないのでやめる気はなかった。しかし樋口が新田さんとつき合い始めてから私が誘わなくなったので、その催しはぱったりと途絶えていた。その期間は『魔王』がその役割を担っていた。久しぶりであったというのに樋口は少しも衰えておらず、寧ろ懐かしさも相俟って、睡眠欲は掻き立てられていた。お互い、自分のしたいことを、したいようにした。
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