(三)

 家に帰り、私は電気も点けないままベッドに横たわった。

 『魔王』のドラムボーカルは滑舌に難があるのか、歌詞はほとんど聞き取れない。デビューシングルも、歌詞カードと照らし合わせてようやく何を言っているのかが判明したのだ。そんな調子だから、初めて聞く曲を次から次へと浴びせられてもわかるわけがない。MCはほとんどなく、CDを再生するのとあまり変わらないように思えた。もちろん、音質はCDより圧倒的に劣っていた。

 それでも間違いなく私は幸福だった。あの、巻き戻しも繰り返しも一時停止もできない一直線な空間が零れていくのが惜しかった。体感した一瞬一瞬、一音一音をひたすら噛み締めていたかった。

 赤ん坊がいつまでも指をしゃぶり続けるように、暗闇の中で私は経験をねぶっていた。だが、あれが稀少だったとは思っていない。あれはこの先何遍でも起こり得るのだ。もちろん、一回一回に価値がないわけではなく……。いや、もうやめよう。あの空間を言語化しようとすると、真逆の表現を同時に使わざるを得ない。形容する言葉を思いついた側から否定して取り消したくなる。そうやって上書きすればするほど本質とはかけ離れていく。これ以上述べるのは無駄だ。

 私は遠のいていた足を久しぶりにサークルの方へ向けてみることにした。部室の扉を開けると、サークルの連中が額を突き合わせていた。どうしたのかと訊ねてみると、後輩がぽつりと「樋口さんが新田とくっついた」と呟いた。そんなことがなぜわざわざ取り沙汰されるのか。新田さんが惜しまれるほど格別魅力的な女性だとは思えない。なぜあの樋口と、という疑問は生じるが。

 私の反応が鈍かったのを見て、別な一人が「あいつから告ったんだってよ」とつけ足した。なるほど、確かに青天の霹靂だ。

 樋口は自分から女性を引っかけはしない。樋口自身は望んでいるわけでも待ち構えているわけでもないのに、まるで吸い寄せられたかのように向こうの方からやってくるのだ。

 樋口は蟻地獄だった。近づかなければ何ということはないのに、一度はまってしまうと、その存在にずぶずぶととり憑かれて抜け出せなくなっていく。その癖張本人は真ん中で泰然としていて、女性が目の前でもがいていても、取って食おうとも、餌をやろうとも、助けようともせず、相手が自滅していくのを眺めていた。

樋口はただただ受動的だった。傷つけようという意図があってやっているのではないが、モーションをかけられた時のレスポンスが女性を傷つけるのだ。つまり対応がまずい。性格が悪い癖に悪気はないから質が悪い。

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