(二)
樋口は物静かな男だ。人よりも前に進み出ることはどちらかというと苦手で、会話の時も聞き役に徹することが多かった。ところが、酒を呑ますと、まるで演説でもするかのようにとうとうと自分の考えを話し続けるのだった。
彼には彼なりの哲学があった。それが歴代の交際相手らは気に障るらしかった。樋口に惚れていた彼女らも直に堪え切れなくなり、別れを切り出すのだった。
なぜか毎度毎度飲みの席で行われたせいもあり、別れの場はいつも凄惨だった。樋口に惹かれて告白してきたはずの彼女らが、樋口の悪いところを列挙していき、或いは口汚く罵り、それでも全く動じない樋口に苛立ちを募らせ、しまいには、自分が振られる立場であるかのように泣いてしまうのだった。私が一番記憶に残っているのは、「見返してやる!」と捨て台詞を残してその場を去って行った女性である。樋口はどこ吹く風といった態で酒を呑んでいた。
だのに、私は樋口が交際相手を切らしたのを見たことがない。普段の控え目な立ち振る舞いに加え、東京生まれ東京育ちだというのに垢抜けない風貌も相俟って、樋口は『誠実』という印象を、人に、特に女性に与えるらしかった。
樋口と付き合い始めてまだ日の浅い女性は、皆口を揃えて「お酒を呑まなければいい人」と樋口を庇った。私はそうは思わない。あいつは性格が悪い。あれは内に秘めている本性が酒のせいでぽろりこぼれ出たものだ。
それでも樋口は気のいい奴として通っていた。しらふの時の樋口は決して中心的人物とは言えなかったが、会話に的確なエッセンスを加えてくれたし、それなりの気遣いもできた。だからこそ、酒を呑んだ時とのギャップをおもしろがられてもいた。それに仲間内では、樋口と別れて弱っているところにつけこんで、慰めることで女性をものにするというハイエナのような手口が横行していたので、何だかんだで重宝がられていたのである。
「こいつさあ、誕生日に何が欲しいか訊かれて『金』って答えたらしいよ」
「使いもしないもんもらうよりよっぽどいいだろ」
その日はサークル内の数人と呑んでいた。樋口は酔いが比較的浅かったので、憎まれ口を叩くだけにとどまっていた。
「でもあいつもあげてんだよ」
「いくら」
「四万」
「高っ」
「ぼったくりじゃねえか」
「俺も流石に断ったんだけど、『手切れ金だから』って貰わされた」
「貰わ『された』って……」
「でもそのおかげで今俺の彼女ー!」
奇声を発しながらハイタッチを交わす三人を見て樋口は笑い、自分もその応酬に加わっていった。盗人に追い銭だ。
解散した後、私は一人でレンタルショップに立ち寄った。借りようと思っていた映画がその店舗で扱われてすらいないと判明し、用がなくなった後も、未練がましく店内をうろついていた。活字を読む気にはなれず、代用品を探そうとも思わなかったので、CDのコーナーへと足を踏み入れた。順番になぞっていこうと端の棚を見た時、ある単語が頭を掠めた。並み居る五十音をすっ飛ばし、ロックの『ま行』の前に立った。一枚一枚丹念にCDの背を見ていく。求めているものはそこにはなかった。ふと閃き、捜索範囲を新商品の棚へと広げた。『ま行』の先頭に『魔王』は収まっていた。私はそれを手に取り、レジへと向かった。
私は当日にCDを返した。そしてその足で同じCDを買いに行った。
「2ピースは音の厚みに欠ける」という批判を蹴散らすかのようなベースとドラムス。知っている単語を並べただけに見え、何通りにもとれる思わせぶりな歌詞。そして、何よりも身体の最奥を突き、掻き回す歌声。楽器の少なさを補って余りある半透明のメインボーカルはどこまでも伸びやかで、それを支えながらも決して添え物には成り下がらないコーラスと絡み合いながら空間を支配した。歌声だけで多幸感。歌詞の意味などどうでもよくなる。私は記号と化した文字を咀嚼するようなことはせず、受け止めた字面の響きをそのまま味わっていた。せっかく組み上げられて一つの形をとったものをわざわざ分解し、自分なりに解釈するなど野暮だった。私はその名にふさわしく君臨したハーモニーの奴隷になるほかなかった。
『魔王』に邂逅して以来、もちろん私はデビューシングルを繰り返し聴いていたが、彼らの他の曲を求めてもいた。一応、彼らが自主制作したインディーズ時代の音源は存在するらしい。完売したので手に入らない代物だ。
ネットに何か情報が上がっていやしないかと思い、『魔王』やら『マオウ』やら『mao』やらで検索してみたが、必要でないものがヒットするばかりだった。もうシューベルトにはうんざりだ。
私は、中古CD屋を見つけては店内を練り歩くという習慣がついた。望みが薄いことなど十分承知していたが、僅かであっても可能性を目の前でちらつかせられると、居ても立ってもいられなかった。
いくら好きなもののためとはいえ、報われないと流石に嫌気が差してくる。私は早くも一か月で降参しそうになった。樋口に愚痴を言うことで何とか凌いだ。
結局、丸二か月も無駄に使った。ここらですっぱり切り上げるべきか、それともさらに足を延ばすべきか。時間だけでなく金までも浪費するのか、いやしかしここまでやったのだからどうせなら最後まで、最後というのはいつ来るのか、見つかった時なのか。今ではいけないのか。
新田さんが声をかけてきたのは、私が悶々と考え込んでいた真っ最中だった。『魔王』が好きなのかという問いに肯定で返すと、新田さんの顔がぱあと輝いた。受け答えをするうちに、CDを貸してもらうことと、一緒にライブに行くことが決まってしまった。近々開催されるとのことだ。
私は面倒臭いことになったなあと辟易していた。そしてやや樋口に腹を立ててもいた。
私は、人と共通した趣味を持つというのにどうも苦手意識があった。誰かと分かち合うよりも、一人で温めていく質だった。共有すると競争が生まれる。得た情報の質や量、行う頻度の高さ、続けた期間、注ぎ込んだ金額、関連するグッズの所有数。ファンである度合を反映しているそれらの一定の基準を超えないと、『趣味』と言ってはいけないのだ。なぜ『好き』だけでは許してもらえないのか。やる気、熱心さ、思いの深さを問われるのはどうしてか。
そういうわけで、私は自分が興味を持つものを人に教えるのが煩わしかった。口にした際には、嘔吐したかのような倦怠と罪悪感を味わった。
CDが見つからないことをこぼしたのは、樋口が絶対に『魔王』を好きにならないという確信があったからだというのに、とんだ落とし穴だったと私はむかっ腹を立てたが、お門違いなので怒りはすぐに治まった。この信条を語らずして、普段ひた隠しにしている嗜好を漏らしたので、こういう結果になったのだ。
私はその日が来るまで、なるべくサークルに顔を出さないようにした。樋口があんな失礼な態度をとったにも関わらず、新田さんは私たちのサークルに入っていた。
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