三 魔除けのおしごと (3)
モニター越しには、白衣を着た魔女の顔が見える。
セルフレームの眼鏡のブリッジを押し上げた魔女は、モニターに向けて肩を見せていることりに「ふむ」とうなずいてみせた。
ことりが今いるのは、火見野にある中央病院の魔障外来で、魔女の弟子を名乗る小魔女先生が専門医として勤めている。
新都近郊にある病院に勤める魔女はことりを直接診ることはできないので、小魔女先生の取り計らいで、モニターを用いて遠隔診療をしてもらうことになった。小魔女先生は今は窓際の椅子で珈琲を飲んでいる。
『腫れは引いてきているわね。痛みはまだある?』
「腕を動かしたときにすこしあるくらいです」
『それはどんなふうに痛む?』
いくつか質問をしたあと、魔女は小魔女に数種類の薬草の名を伝えた。それで特製の湿布薬をつくるらしい。「了解でーす」と軽やかな返事をして、小魔女が席を立つ。
『それにしてもあなた、半月で見違えるように顔色がよくなったわねえ』
ひととおりことりを診終えると、モニター越しに魔女がにやにやとわらった。
「そうでしょうか……?」
ことり自身にはあまり自覚がない。鴨居にかけられた薬玉のおかげか、以前よりはよく眠れていると感じるが。
『あいつが連れてきたときは、死んだ魚のような目をしていたわよ。生気が欠片もなくて』
「死んだ魚……」
それは確かにひどい。
『聞いたわ。馨の婚約者になったんだって?』
「馨さまは……ローレライの力をお望みのようでしたから」
ローレライのことは、雨羽以外では馨と青火と魔女だけが知っている。
ふうん、と魔女は眼鏡の奥の眸を細めた。
『まあ、あたしはあなたたちを見たときから、そうなる気がしていたけどねー』
「そうなのですか?」
『力を持つ者同士は引き合うから。馨はそういう勘が鋭いし、あなたを放っておかないだろうなあって思ってた。あなたのほうはどう? いやだった?』
「いやか、いやではないかで考えたことが、あまりないので……」
馨はことりに声を返してくれた。皆が封じよといったものを解けばいいと言ったのは馨だけだった。だから、自分がしてもらったことをほんのすこしでも馨に返せたらよいと思って、馨の提案を受け入れた。ことりにはほかに行く場所がなかったというのもあるけれど……。
『まあ、今のあなたはそんなものでしょうね』
魔女は苦笑した。
「お師匠さま、湿布薬の用意ができましたよー」
『オッケー。じゃあそろそろあたしも会議に戻らないと』
最後に『あいつによろしく』とウィンクして、魔女は通信を切った。
小魔女から湿布薬の説明を受けたあと、診察室を出る。廊下の窓に映った自分に何気なくことりは目を向けた。無地のキャメルのワンピースに白のダウンコートを重ね、髪はサイドで緩めの三つ編みを結っている。ぼんやりした無表情はいつものとおりだが、確かに前よりも顔色はよいのかもしれない。
ほんの二週間前は、雨羽の離れにいたのが嘘のようだ。ことりのことを唯一心配してくれたローレライの亡霊たちは、ことりが生き延びたことを知っているだろうか。でもあのひとたちは、ふしぎとことりのことはよくわかるようだったから、きづいていてくれる気もする。
病院を出て、まだ操作が慣れない端末に「おわりました」と打ち込む。変換に手間取っているあいだに、病院の中庭にいる馨を見つけてしまった。いつもの和装ではなく、通学用の紺のフード付きのダッフルコートを着ていて、中庭の隅にある楡の古木に何かを結んでいる。火見はコートのフードの中にすっぽり入っていて、どうやら寝ているようだった。
「お待たせしました」
メッセージを消して、ことりは馨に声をかけた。
楡の太い幹には、淡い青色の組紐が見慣れない形で結ばれている。
「魔除けですか?」
「ん? ああ、そうだ」
ことりが診察を受けているあいだ、馨は病院の魔除けの張り直しをしていたようだ。魔除けは定期的に張り直さないと効力が薄れると聞いた。病院や学校、公共施設など、至るところに張られているらしいから、管理するだけでも大変そうだ。
ことりは幹にかけられた結びをじっと見つめる。
「なんだ」
「なんの結びかただろうと思って……」
「なんだと思う?」
面白がるように馨が訊いてきた。
「葉のような……でも楕円がふたつ重なっておりますね」
のの花のときは梅の花でわかりやすかったが、今回はすぐに判別するのが難しい。
「これは貝だ。この場所は水の気がつよくて、水系統の魔を呼び寄せやすい。だから、はじめに貝を結んで閉じ込めておく」
言われてみると、確かに二枚貝を捕らえるような結びかたをしている。
「結びかただけでも百種類以上ある。べつにそのとおりやらなくてもよいけど、術者のイメージが弱いと効力も薄れるから、昔から使われている結びかたのほうが強くなることが多いな」
「馨さまはなんでもできるのですね」
魔祓いも魔除けもできるなんてすごいと思ったのだが、「俺は魔祓いの術はひとつも使えないぞ」と馨は顔をしかめた。そういえば、のの花も馨の力はほかと理がちがうと言っていた。
「椿姫は昔から一族でも飛び抜けて才があったけど、俺はぜんぜんだったから、魔除けのほうを習わされたんだよな……。でも、こちらのほうが俺はすき」
意外に思った。馨はなんとなくこういう地味な作業を面倒がると思っていた。でもことりも、まだ金天蚕の世話を覚えはじめたばかりだが、魔除けに関わる仕事はきらいではない……気がする。比べるものが少ないことりには、すきの気持ちはよくわからなかったけれど……。
「帰りますか?」
馨の仕事も終わったようなので尋ねると、「いや」と馨は魔除けをかけた楡の木に軽く背を預けた。
「今日はこのあと寄るところがある」
「そうでしたか」
「他人事そうだけど、おまえの話だぞ」
どういう意味だろうと思いつつ、ことりはひとまず馨の話に耳を傾ける。
「おまえ、のの花と仲良くなっただろう」
「……仲良く、なれたのでしょうか?」
あまり実感がないので、尋ね返した。
「あいつはあれで案外好き嫌いが激しいから、すきじゃないやつには自分からはちかづかない。――で、昨晩のの花から、おまえが飾り結びを持っていないようだけど、ほんとうに求婚したのかって詰め寄られた」
「婚約と飾り結びは、何か関係があるのですか?」
きのう、のの花に馨に求婚されたときに「アレ」をもらったかと訊かれたことを思い出した。つまり、「アレ」とは飾り結びのことだったのか。
「火見野では、相手に飾り結びを渡して求婚するのが習わしなんだ。といっても、じいさまより上の世代の習わしだし、俺も忘れてたけど……火守の人間はみんなそういうのがすきだからなー」
息をつき、馨は気を取り直したようすで楡の木から背を離した。
「街に出たから、ついでにひとつ、それっぽいのを買っておこう。これみよがしにどこかにつけとけ。――火見野の街はまだ歩いてないな?」
「ここに来たとき、車の窓からは眺めましたが」
「それは歩いたとは言わない」
呆れたふうに馨はつぶやいた。
行きは青火に車で送ってもらったけど、次の目的地までは徒歩で移動することにしたようだ。休日だからか、病院がある中心街の付近は結構ひと通りが多い。横断歩道の信号がぱっと変わると、大量のひとの波が押し寄せた。
「……っ!」
思わず後ろから馨のダッフルコートの端をつかむ。
「なんだ?」
「あ……いえ」
すぐに手を離して、なんでもないというように首を振る。ひとごみがこわいなんて幼子でもないし、とても言えない。馨は流れてくる通行人とことりをすこしのあいだ見比べたあと、火見野の社の参道のときのように手を差し出した。
「また何かにふらふらついていったりするなよ」
「……それは、もうしないです」
「どうだか」
手を引かれて、信号が点滅しはじめた横断歩道を渡る。
馨の手のつなぎかたは、女の子というより年下の子どもにしてあげているみたいなかんじだ。ふたつのちがいは、ことりも詳しくなかったけれど……。でも、いやか、いやじゃないかなら、馨と手をつなぐのはいやじゃない、と思う。置いていかれないと思えるから。
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