一 贄の少女たち (6)
病院の救急診療の受付に着くと、すでに話はついていたらしく、魔障外来の診察室に通された。
キーボードを打っていた二十代後半くらいの女性が「あら」と顔を上げる。緩くウェーブがかった黒髪をシュシュで束ね、赤のセルフレームの眼鏡をかけている。白衣の下には黒のフリルがどっさりついたドレスを着ていた。見かけで判断してはいけないと思うけど、あまり医師らしくはない。
「坊主、ちょっと見ないうちに大きくなったじゃないのー。元気だった? あ、背はそこまで伸びなかったね? 百六十五センチ?」
「百六十七・三センチ」
「それ訂正する必要あった? ほとんど同じじゃなーい?」
「うるさいな。そっちこそ、相変わらずぼったくりの似非医者やってるんだろう」
「君、相変わらずおきれいな顔で、とっても口がおわるいね?」
にやにやとわらって、魔女と呼ばれた女性はことりに目を移した。
「で? 彼女が電話で言ってた?」
「そう、大蛇の魔に肩を傷つけられた。痕が残らないように治してやって」
「ふふん、安心して。そういうの大得意よ、あたし。治療費は高いけどー」
何気なく投げられた言葉にことりは固まる。当然だが、家族に売られたことりに医者に払えるお金などない。
(どうしよう……)
蒼褪めていると、ことりのようすにきづいたらしい青火が彼に言った。
「若、お嬢さんがなんだか困っているようですよ」
「ん? そうなのか?」
「払えないって思ったんじゃないのー? 坊主、自分で連れてきて女の子に払わせる気なのかな」
「お嬢さんは若を庇って怪我されたらしいですけど」
「ひえ、最低じゃん……」
「おまえたちは俺をなんだと思ってるんだ」
男の子は不服そうに嘆息する。それからふと何かにきづいたようすで、ことりのほうに手を伸ばした。ぺた、と手のひらが額に触れる。ことりは驚いて身をすくめた。
首を絞められる、と思った。ことりにとって、誰かが手を伸ばしてくるのはそういうことだった。だから、指にかかった前髪を軽く払っただけで手が離れていったとき、はじめ、何が起きたのかよくわからなかった。
「この娘、熱があるぞ。はやく手当てして、解熱剤をのませてやれ」
「あら、ほんと? よくきづいたわねえ。さすがひよわのプロはちがうな」
「だから、一言多い」
熱を測るために伸ばされたらしい手を、離れたあともずっと見つめていると、「……そう不安そうに見るな」と彼は別の意味に取りちがえたようで言った。
「金は俺が払う。おまえは払わなくてよい。あと、さっきのは八割は横から急におまえが出てきたせいだけど、二割くらいはすぐに魔を祓わなかった俺にも理由があった……気がするので……」
歯切れ悪くつぶやく男の子を、横から青火と魔女がにこにこと眺めている。
彼は苦虫を嚙みつぶしたような顔になった。
「怪我をさせたのはわるかった。ちゃんと治すから、ゆるせ」
ことりはぽかんと彼を見上げた。
彼は何も悪くない。彼の言うとおり、横から急に飛び出したのはことりだ。
ゆるしを乞う必要もない。ことりははなから身を守ることを放棄していたのだから。
途方に暮れてしまって、足元に目を落とす。
「若、ちゃんと謝れてえらかったですね――いたっ!」
話しているさなかにいきなり青火が悶絶した。膝を蹴られたらしい。
「そばつきは大事に扱うものですよ、若君」
「主人を大事に扱ってないそばつきだから、大事に扱わない」
「へりくつではー?」
「ほら、あんたたち一度出なさい。この子の治療をするから」
魔女が声をかけると、さすがにまずいと思ったようすで男たちは存外素直に部屋を出た。残されたことりは、不安な面持ちで彼の背中を目で追う。でも、すぐにドアが閉まってしまった。
「魔から坊主を守ったんだって? あなた見かけによらず勇敢なのねえ」
からかうように魔女に言われて、ちいさく首を振った。べつにそんなたいそうなことはしていない。
「あら、謙虚」と魔女は愉快そうにわらう。
パーテーションで仕切られた診察台にことりを招き、魔女は髪をくくり直した。診察台に座り、肩を見せるように言われる。新品のドレスは血で汚れ、肩に張り付いてしまっていた。魔女に手伝ってもらいながらファスナーを下ろして、右肩をあらわにする。赤黒く爛れ、血の滲んだ傷が現れた。車内で痛み止めをもらっていたので、痛み自体はあまり感じない。
「魔障の治療法は知ってる?」
尋ねた魔女にうなずく。雨羽の得意分野だ。子どもの頃、歌姫がこうした魔障を治療するのを何度も眺めてきた。
「なら、話は早いね。楽にして」
ことりの対面に座った魔女が、軽く咽喉の調子を整えるように咳払いをする。
ことりの腕を取り、囁くように歌いはじめた。
春の賛歌を思わせる可憐な初音の声とはちがい、夕暮れどきに響く鐘の音のような、神聖さを感じさせる声だ。
口ずさまれているのは、龍神に向けた《祝い》の言の葉をのせた歌だ。歌姫たちが扱う、特殊な言の葉で編まれた歌は《歌姫の歌》と呼ばれ、水ノ神――龍神の力を一時的に借り受け、奇跡を起こす。
魔障は魔によって傷つけられた箇所から、穢れが体内に入ることによって引き起こる。このため、歌姫は体内の穢れを清め、損傷を受けた箇所を修復させるのだ。魔女の歌声に耳を傾けていると、熱っぽくうずいていた傷口から、すっと慈雨に触れたように熱が引いていくのを感じた。
きづいたとき、ことりの肩に生じた魔障は傷痕だけを残してほとんど治っていた。
(すごい……)
雨羽の家でもこれほどの力を持つ歌姫は少ないのではないだろうか。この力を持つということは、魔女も雨羽の血を引く歌姫なのだろうか。でも、外の世界でひとりで生きている。
「どう? 調子は?」
ことりは治してもらった肩に手で触れる。実際に自分がされてみると、ほんとうに奇跡みたい、とふしぎに思う。問題ない、と相手にわかるようにうなずくと、「よかった」と魔女は微笑んだ。備え付けの棚からいくつかの薬を出し、サイドボードに置いた水差しからコップに水を注ぐ。
「解熱剤に、あとこれは炎症を抑える薬。毎食後に二週間は飲んでね。魔障の治療は体内の穢れを清めるけど、あなたの身体のほうにも負担がかかるから、しばらくは安静にするように。あとこれを朝と夕に肩に塗ること」
薬袋の横に置かれたのは、ちいさな丸いケースに入った軟膏だった。
おいで、と言われて身体をちかづけると、蓋を開けた軟膏を魔女は指ですくった。ためらいもなくことりの肩に塗ってくれる。
ふんわりと澄んだ薬草の香りが鼻をくすぐった。すこし沁みたが、安堵のほうが大きかった。さっき、熱を測るために伸ばされた男の子の手のひらを思い出す。誰かに労われるのは何年ぶりだろう。ひとの手はこんなにあたたかかっただろうか。
急に涙腺が緩みそうになり、ことりは唇をぎゅっと引き結んだ。このひとたちだって、ことりがローレライだと知ったら、こんなふうに接してはくれなくなる。
「坊主の仕事先で出会うなんて、あなたも訳ありよねー。見たかんじ、クソみたいな家にいたっぽいけど……。ほんと神祀りの家って前時代的なとこ多いわよねえ」
ことりの出自にはある程度察しがついているらしく、魔女は嘆息した。否定も肯定もできずにいることりに目を合わせ、「まあ生まれたときからそこにいたんじゃ、クソかどうかなんてわからないか」と額を弾く。
軟膏を塗り終えると、魔女は肩のうえにガーゼを置いて包帯を巻いた。
そっとことりの背中に手を置き、囁きかける。
「鳥籠の外へようこそ、不憫なお姫さま」
瞬きをして、ことりは顔を上げる。
魔女はにやにやと愉快がるようにわらっている。
「――外の世界には何があるのでしょうね?」
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