一 贄の少女たち (4)

 どういう意味だろうと考えていると、ぴりっと冷気が背に走った。

 並んだ杯や供物が小刻みに揺れはじめる。


「ん?」


 異変は漆塗りの台のうえに鎮座する匣から起こっていた。

 しばらく匣が振動したあと、中から押し上げられるように螺鈿の蓋が外れる。ことりの腕で抱えられる程度の大きさの匣から現れたのは、広い部屋いっぱいに身体をうねらせる大蛇だった。


 ――「いらした」のだ。


 供えられていた品々をなぎ倒し、天井付近まで伸び上がった大蛇は、赤い目に少女とことりを映した。どちらから先に食うか、獲物の品定めをするような間があり、ひたりと少女のほうで目の動きが止まる。


「ほーう? わたしのほうから食べるのか? お目の高い蛇だな」


 きづいているだろうに、少女はなぜか腕を軽く組んだまま逃げない。目を眇めて、観察するように大蛇を見上げている。その恐れ知らずの横顔が、子どもの頃、魔から自分を庇って大怪我をした友人に重なった。


 ――つばきちゃん!


 六歳の自分の叫び声が脳裏でこだまする。それまで一枚隔てたガラス越しに眺めていたみたいな現実が急に砕け散り、忘れていた恐怖がせりあがる。


 ――つばきちゃん、死なないで……っ!


「――っ!」


 逃げて、と叫ぶ代わりに、横からぶつかるように少女を引き倒す。


「うわっ」


 ことりから体当たりを受けるのは、少女にとっても予想外だったようだ。ぶつかった勢いでよろめき、折り重なって床に倒れた。肩に焼けつくような痛みが走る。大蛇の瘴気がかすめたのかもしれない。倒れた少女になお覆いかぶさるようにしていると、ことりたちのすぐそばに大蛇の尾が振り下ろされた。床が砕け、破片がこちらまで飛んでくる。


(……おねがい)


 荒ぶる気配を正面から見据えるのはこわくて、ことりはきつく目を閉じながら魔に願った。


(食べるならわたしにしてください。……どうか彼女ではなく――)


 贄ならひとりでも十分なはずだ。そして、それはこのうつくしく生気にあふれた女の子ではなく、ことりのほうがふさわしい。

 だって、わたしには帰る場所もない。

 会いたいひともいない。会いたいと思ってくれるようなとくべつなひとも。

 何も、何もない。

 なんて空っぽなんだろう。

 それなら、せめてひとつだけでも、生きててよかったと思えることをしたかった。そうしたら、大蛇に食べられたあと、もしかしたら魂だけはつばきちゃんに会えるかもしれないから。


(だからおねがい、どうかわたしのほうを食べてください)


 必死の願いが届いたのか、ずるりと巨体を這いずらせ、大蛇が口をひらいた。

 長い尾が振られると、部屋全体が振動し、壊れた天井板や照明具が落ちてくる。庇うように少女にしがみつき、ことりは身を固くした。

 鉄錆に似たにおいの瘴気が押し寄せ、大蛇が迫る。

 刹那、その鼻先でちりりと火花が跳ねた。


火見ひみ

 

 少女が何かに呼びかけた瞬間、ぱっと赤い花がひらくように巨体が炎に包まれ、燃え上がる。

 現れたのは、紅蓮の炎をまとう火鳥だ。

 羽を広げた火鳥が大蛇の咽喉を一閃する。直後、内側から黒い蛇身が爆ぜ、飛散した。

 灰に転じた残骸がはらはらと床に落ちてくる。けれどそれらは床に触れるや、まぼろしのごとく消え、あたりはもとの広いだけの部屋に戻った。

 さらりと炎の残り香のような、微かな鉄のにおいが漂う。

 いったい今何が起きたのだろう。


「焦った。まさかを庇うやつがいると思わなかったから」


 ことりの身体を軽く横に押しやり、身を起こした少女の肩に先ほどの火鳥が留まる。


 ――いや、「少女」ではない。


 肩に落ちた長い髪をかきやると、そのひとはポイっと髪だったものを取り去り、床に放った。かつらだったらしい。


「この死にたがりめ」


 ことりに向けて呆れたふうにつぶやき、自分の衣をためらいもなく引き裂く。先ほど身を楯にして庇ったときに魔の瘴気がかすめたようで、ことりの右肩は傷つき、腕に血が伝っていた。

 ことりのかたわらにかがむと、そのひとは裂いた布を使って止血する。慣れた手つきだった。すばやく手当てをするひとを間近で見つめ、ようやくことりは合点がいった。

 女の子ではない。この子は、ことりと同い年くらいの男の子だ。それもすごくきれいな。


「おい、なにか言え。あー言えないのか」


 ばつがわるそうにつぶやいた男の子をことりは見返す。何度か口をひらこうとしてから、伝えるすべもなく、そっと相手の袖を引いた。

 こちらの手に目を留め、「どういたしまして」と返される。

 ことりはびっくりして目をみひらいた。

「なんだ」と相手は逆にいぶかしげな顔になる。


(伝わると思わなかったから……)


「……あ、痛むのか?」


 それは言いたいこととはちがったので首を横に振る。

 彼は裂いた布をことりの肩にきつく結んだ。


「止血はしたけど、魔につけられた傷だと専門の病院に行ったほうがいいな……」


 そのとき、間近で電子音が鳴った。声もなく驚いていることりをよそに、帯元から端末を取り出した彼が、「ああ、俺」とそれを耳にあてる。


「今終わった。裏に車を回してくれ。ああ、ひとり怪我人がいるから、魔障の専門医がいる病院も手配しておけ。ちがう、怪我したのは俺じゃない。どこの誰かなんて知るかよ」


 ことりのことで何やら相手ともめているらしい。心配になって目を上げると、彼はことりから離れ、相手と会話を続けた。


「のろのろしてると、水鏡の連中にきづかれるから切るぞ。ああ? 好きで着たんじゃない。いいか、二度と同じことを言うなよ、ばーかばーか、青火失せろ! ばか!」


 電話の相手はまだしゃべっているようすだったが、彼は強制的に通話を切った。

 端末をしまい直していると、遅れて部屋の異常を感知したらしく、警報機が鳴りはじめる。赤く点滅しているサイレンを、彼は大蛇が出てきた匣をぶつけて壊した。微塵もためらいがなかった。先ほどからうすうす感じていたけど、この男の子はこういう荒事に慣れているようだ。

 この場にいたのは、贄として売られたからではないのだろうか。だって、彼はさっき、いとも簡単に大蛇を燃え上がらせた。まるで大蛇が現れるのを待ちかまえていたみたいに。


「ほら」


 軽く腰をかがめて、彼は座り込んだままのことりに手を差し出す。

 ぼんやり見つめていると、焦れたふうに彼のほうから手をつかんで引き上げた。


「捕まる前に逃げるぞ」

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