第2話 死ねない姫

 暗闇の中でクレアは何度も意識を失い、あれからどれ程の時間が経っているのか分からないでいた。

 崩れた天井に頭を砕かれ、足りない空気を求めては窒息ちっそくし、食べるものも満足に見つからず飢えていく。

 その度に味わったことのない痛みや苦しみにとらわれながら、気がつくと目が覚めるように意識がハッキリとする。

 身動きの取れない瓦礫がれきの中でクレアは何度も絶命していた。その度に赤い男にかけられた呪いがクレアの魂が冥界めいかいに行く事をはばむ。

 死ぬ事も許されない牢獄の中、繰り返し繰り返し殺されていく。

 光の無い世界でクレアは自分が目を開いているか閉じているかも分からない。うつろな瞳には何も映らず、記憶がただ延々と己の敵を思い出させていた。

 ーー憎い、憎い憎い。

 ーー殺す。この手で絶対に。

 意識を取り戻すその度に新鮮な怒りが身体を巡る。動かない四肢ししを僅かに揺らしては、少しずつ少しずつクレアは地の底でもがいては死んでいた。


 雨が降ると地面を伝い、クレアの唇を湿しめらすこともあった。

 這い回る虫が口に飛び込めば、それを噛み潰し栄養とした。

 じっと力を蓄え続け、手足を自由にするために少しずつ動く姿は、まるで植物の種子のようだった。

 地の底に近いものほどマーテルの恩寵おんちょうを受けられるとし、植物の根や地中で実る野菜を食べることで力を得ると考えられていた。

 その考えは正しく、土に含まれるマーテルの魔力をふんだんに吸い込んだものを取り込む事は生き物の成長を加速させる。

 その為、地中を棲家すみかとするモグラを神の使いであると見做みなし、シタニール教のシンボルにもされていた。

 同様に一部のネズミやヘビ、そして虫にも魔力はみなぎっている。身体の小ささの割りに大きな力を出すことが出来るのはマーテルの魔力に由来していた。

 しかし、シタニール人に食虫しょくちゅう文化は無い為、その事実は知られていない。

 虫を食べることが最も効率良く魔力を吸収し、肉体に還元かんげんする方法であることを。

 圧迫されて潰れた筋肉と血管が、呪いにより何度も作り直された。

 濃度の高い魔力を虫達から摂取することで、空腹とは裏腹に有り余るほどの魔力が漲る。

 クレアの肉体は破壊と再構築を絶え間なく繰り返し、地上で行っていた鍛錬の何倍もの速度で強度を高めていった。

 わずかに動かすことしか出来なかったはずの指先が、瓦礫を削り隙間を生み出し、肘が曲がり肩が開き、岩の隙間から足が抜けた頃に彼女はモグラのようにゆっくりとその棲家から移動していく。

 パズルのように一つの岩を動かしては形を変える穴の中、何度も死にながら進んでいくと人一人が通れる程の横穴に辿り着いた。

 その穴はその昔にアイレシア王国が魔石の採掘の為に通した痕跡こんせきであったが、地下から立ち込める瘴気しょうきにより死亡事故が多発したことで封じられていた。

 冥界に繋がっていると噂されたその道を、最早前後も左右も上下すらも不覚になりつつあるクレアはヘビのように這い続ける。

 先人の命を奪った瘴気はクレアを特別扱いすることはなかった。ただし、彼女自身が特別な存在になっていたばかりに生き物を拒むはずのそれは足止めになり得ない。

 反吐へどを吐くことに慣れ、命を落としているのか眠りに落ちているのかも分からないまま、クレアは穴を進んでいった。

 前人未踏の穴は進むにつれて瘴気を濃くしていき、平衡へいこう感覚を奪い、彼女の鼻や口、耳からはドロリとした血が流れていく。

 血塗られた顔は本来の美しさを失くし、剥がれて爪があった場所には血と泥が固まっていた。

 這って這って何度も意識を失い、身体中の痛みで目が覚めて、最早自分が人間なのかも分からなくなった頃、ふと気がつくと目が見えていることに気がつく。

 薄暗いながらも青く灯った世界に辿り着いていた。

 蛍のような光が、長い時間を闇で過ごしたクレアには眩しく、ゆっくりとまぶたを閉じる。

 身体中から痛みは消えており、それが眠気であった事に気が付かないまま、これまでの苦痛を労うよう彼女に穏やかな時間を過ごさせた。


 そこが冥界であることをクレアは無意識に感じ取っていた。

 誰に聞かされたかも分からない御伽話おとぎばなしに出てくる冥界のイメージに似たその世界は皮肉にも美しく、徐々に五感を取り戻した彼女には楽園のようにも感じられる。

 淡く発光する粒が雪のように舞っていた。

 足首を覆うような草が肌を撫でる。不思議な心地良さにクレアはついに歩みを止めてしまう。

 ーー私は何をしているのだろう。もうここで死んでしまえないだろうか……。

 名前の知らない花に目をやり、ぼんやりと立ち尽くしていると背後から生温い風が髪を揺らした。

 肉が腐ったような臭いが鼻を曲げる。

 振り向くとクレアの虚ろな瞳が大きな影を捕らえた。

 雷鳴を思わせる唸り声をあげるそれは、彼女を丸飲みできそうなほどに大きく口を開いた巨大な狼だった。

 クレアの背丈ほどある四肢に生えた毛は触れるだけで肌を裂きそうに硬く、き出しの牙は肉だけでなく骨を容易に断つ想像を巡らせる。

 そして、その狼には首が3つあり、それぞれが舌舐したなめずりしながら彼女を見つめていた。

「なぁ一狼兄いちろうにいちゃん、この前ここにいた人間を食べたのは兄ちゃんだったよな。だったらこの人間は俺の獲物だよな。だって俺が2番目なんだし」

「ずるいよ、二狼兄じろうにいちゃん。僕、もう何十年も人間を食べてないよ。末の弟にここは譲ろうよ」

「うるさいぞ、二狼じろう三狼さぶろう。我らの腹は繋がっているのだ。誰が食べたところで同じ胃袋に収まるのだから大人しくしていろ」

「またそんな詭弁きべんを言ってさ。口は別なんだから味は共有できないだろ。食事っていうのはよく噛んで味わってこそ楽しいんだ。腹に入れば同じってんなら俺に食べさせてくれよ」

「ずるいよ。それなら僕だって食べたい!」

 三方向から飛んでくる唾をぬぐうことすら忘れてクレアは呆然ぼうぜんと立ちくしていた。

 御伽話に出てくるような世界に迷い込んだとはいえ、こんな化け物に出くわすとは思ってもみなかった。いや、想像する余裕もなかったのだ。随分と時間が経過しているとは言え、赤い男に襲われてから何度も息絶え、思考力を失い、こうして立っていられるのも不思議な状態で冷静に状況を把握できる訳がない。

 オニバス大陸にも魔獣まじゅうと呼ばれる化け物は存在していたし、海にはさらに恐ろしい魔獣が蔓延はびこっている。

 驚異的な強さを持つとはいえ、クレアはアイレシア王国の姫であった為、本当の危険にさらされることは無かった。

 それによる経験不足、無知が反応を鈍らせる。

 大木のような狼の前脚がクレアを薙ぎ払う。反射的に上げた腕が緩衝材になったとはいえ、勢いよく吹き飛ばされ再び激痛が身体に走る。

 どうにか立ちあがろうとするもクレアは体勢を崩す。肩から先の左腕が吹き飛んでいた。

 噛み砕かれてペキペキと鳴る自分の腕を見てクレアは考える。

 ーー逃げないと。勝てるはずがない。

 バランスを崩しながら逃げ出した。喉が灼け、肺が潰れ、太腿が破裂しそうになっても立ち止まってはいけないことを、背中越しに伝わる殺気が教えてくれる。

 時間にしてほんの十数秒。クレアが狼を見ずに済んだのは。

 回り込まれ逃げ道をふさがれるも狼はクレアをすぐには喰らおうとしなかった。

「ギャハハハ、おい見ろよ。こいつ腕が生えてるぜ。なぁ一狼兄ちゃん、これならみんなで仲良く食べられるんじゃないか?」

「ふぅむ、不死身だったか。どうして生者がこんなところにいるのか問いただしてやろうと思っていたが……。それは食事の後でもいいのかもしれないな」

「で、でも……どれぐらい食べちゃっていいの?丸飲みしちゃったらおしまいかな?」

「それもそうだな。おい人間!お前は左腕だけが再生するのか?それとも何度でもどこでも再生するのか?」

 クレアは戦慄せんりつした。

 この魔物から逃げられないことを知り、これから自分の身に何が起ころうとしているのかを予見して。

 何よりも失ったはずの左腕を見て。

 闇の中で何度も再生を繰り返した肉体をクレアは自身の目で確認していなかった。

 光の届かない地下の世界で、死に続けながらも再生を目の当たりにすることはなく、冥界に辿り着いた事でようやく視界を取り戻した彼女は、どこか悪夢を見ていたのではないかと自分に言い聞かせていた。

 これではまるで、

 ーーまるで、私自身が化け物じゃないか。

 お手玉のように高く宙に投げ飛ばされる。

 受け止める3つの口が方々にクレアを引き合い、狼は仲良く彼女を分け合った。

 文字通り、手も足も出なかった。


 狼の寝息を確認してからクレアは瞼を開ける。

 食糧かつ玩具として乱暴に扱われたクレアは刻み込まれた痛みと恐怖を必死に抑え込みながらこの先の事を考えていた。

 ーーこのままあいつの肉として生きていくのはごめんだ。その為には……。

 意識を取り戻しては諦めずに逃げ続け、その度に捕まり、時に十分に距離を空けて今度こそ逃げ切ったという期待を持たされてはそれを嘲笑いながら殺された。

 冥界に果ては無かった。

 地下深くに存在するそこは世界中の死者が訪れる。本来であれば死者は魂だけの存在となり、地下深くのマーテルの元に還ることで新たな生命となって芽吹いていく。そのよみがえりの過程で生じたエラーを見つけ、再び魂を分解しマーテルの元に戻す役割を狼は担っていた。

 時折クレアのように地上から迷い込んでしまう者もいたが、長い歴史の中でも数えるほどである。

 その珍しさが退屈した狼の好奇心を刺激してしまい、さらにはその迷い人が何度壊しても勝手に治ってしまうとなれば、クレアへの虐待が止むはずもない。

 法の無いその世界では弱肉強食が全てであり、冥界のエラーを検知し分解する為に働く狼が悪いかと言うとそうではなく、ただ喰われるだけの弱いクレアが悪かった。

 理不尽に死に続け、誰も助けてくれない長い時間の中でクレア自身もそれに気づき始める。冥界の意味や狼の存在意義を知る由もないが、自分が強ければ解決するという考えに至った。

 ーーあの赤い男も、この黒い狼も全て倒せるようになればいい。

 クレアが動き始めた音で目が覚めていた狼はひっそりと寝たふりを続けていた。

 クレアが油断したところを襲い掛かり、まだ聞いたことのない悲鳴をあげさせたいという目論見から、狼は笑いを堪えながらまやかしの寝息を立てる。

 匂いでクレアが自分から近づいてきたことに狼は気づくが、あと3歩、あと2歩と引きつけた。

 あと1歩。

 さぁ今度は縦に半分だけかじってやろう!と中央の狼が大口を開く。

 ガチンッと牙が閉じて狼が瞼を開くがクレアの残骸ざんがいは見当たらない。

 左右の狼が文句を垂れた。

「おい、一狼兄ちゃん!自分だけ独り占めすんなよ!」

「ずるいよ、一狼兄ちゃん!胃袋で再生されたら吐き出さないといけないーー」

 ベキッという音と共に中央の狼が牙を吐き出した。

 オオオォォォッ!!とのたうち回る狼が次々と砕けた牙をこぼしながら痛みに堪えられず暴れ始める。

 事態に気付いた左右の狼も一緒になって首を振り、異物を外に出そうとするが痛みは止まらなかった。

 狼は冥界を走り回り、淀んだ沼に身を投げる。どうにか内臓を吐き出さんばかりに身を捩り、喉元からクレアを取り除くことに成功する。

 エラーの出た魂を分解する為にいる狼は死という概念の外にいた。クレアとはまた別に不死の存在である為、損壊した部位が修復されていく。本来、冥界は地上の生き物が訪れる場所ではなく、まして狼を破壊できるものなど想定されていない。

 目の前のクレアはそれこそエラー中のエラーであり、狼の本能が異物を排除しようと再び牙を向く。

 しかし、初めての事態に狼の6つの瞳に戸惑いが色濃く映った。

 血塗れになったクレアは肩で息をしながら欠けた牙を片手に声を上げた。

「何回死んだってお前を殺してやる!私は不死身だ!お前を倒せるようになるまで私は強くなる。なってみせる!覚悟しろ!」

 破壊と再生を繰り返された脳が、少しずつクレアをおかしくする。

 痛みと恐怖にむしばまれた魂が、着実にクレアをゆがませていく。

 仇を討つための復讐なんていう綺麗な感情ではなく、強くなり自分を苦しめる存在を殺してやりたいという汚れた決断が彼女を化け物に変えた。

 青く灯る世界に深緑ふかみどりを思わせる瞳が美しく輝いた。


「ガァぁァッ!!!」

 喉が裂けんばかりの咆哮ほうこうが空気を震わせた。

 狼の鳴き声かクレアの鳴き声か、もはや区別できるものはなく、互いの血で赤く染め合う。

 衣服はとうの昔に耐えきれず、一糸纏いっしまとわぬ姿となっていたクレアだが狼の返り血を全身に浴び続け、乾いた赤黒い血液が鱗のようにひび割れながら鎧のように少女の肌を覆っていた。

 鋭い爪で少女の腕を吹き飛ばす。

 千切れた腕を狼の眼球に突き立てる。

 クレアは100回死にながら狼の心臓を1回潰した。

「一狼兄ちゃん、こいつやばいよ。こんなやつ今までいなかったよ」

 クレアは70回死にながら狼の頭を1回潰した。

「な、なぁ、一狼兄ちゃん。こいつ段々と力が強くなってないか。」

 クレアは40回死にながら狼の四肢をへし折り、腹を裂いた。

「おい、二狼、三狼大丈夫か。こいつは死ぬことはないが心を折り続ければ立ち上がれなくなるはずだ。諦めるな」

 クレアは10回死にながら狼のはらわたを引き摺りだした。

「逃げろ!俺達の足に追いつけるはずはないんだ!見えなくなるまで走り続けるんだ!」

 クレアは1回も死ぬことなく狼の首を引きちぎれるようになった。

「あはははははっ!まだだ!まだ終わりにはさせない!」

 狼の修復を待たずして、抉れた喉笛に齧り付く。

「べぇっ!塩っ辛い。……おい!私の肉を散々食い散らかしたんだ!せめて私の腹の足しになれ!」

 八つ当たりのように狼の頭を蹴り飛ばし、不愉快そうに口を拭う。

 長い長い死闘の中でクレアは骨を折らずに狼を蹂躙じゅうりんできるようになった。

 最早自分が何を目的に戦っていたのかも分からない。ただ目の前にいる敵を、怯える獣を破壊することによろこびを見出みいだす化け物になり変わってしまった。

「わ、悪かった……。お前に危害を加えるのはやめよう。ここにいることをゆるす」

「赦す?誰が誰を?私は何の罪から赦されるんだ。私がッ!何のッ!罪を犯したんだッッ!!」

 狼の左の頭を叩き潰す。

 割れた果実のように果肉が溢れ、果汁がクレアの拳をドロリと汚した。

「そ、そうだな。お前は悪くない……何も悪さをしていない。痛めつけたことを謝罪しよう。すまなかった」

 服従を誓うように2つの頭を下げて狼は願う。怒れる鬼が溜飲りゅういんを下げることを。

 風を切った音がして今度は右の頭が砕け散る。踏みつけられた狼は下顎の牙が額を貫いていた。

「私が弱かったのは認める。私が強ければ何も失わずに済んだんだ。だから私は強くなった。……ねぇ、私は強くなりましたよね?」

「あぁ……、もう私が太刀打ちできないほどにお前は強くなった。この冥界でお前を傷付けるものはもういないさ……」

「じゃあ、返して」

「な、何を……」

「父を、国を、みんなを返して。こんな化け物みたいな身体なんていらない。首が飛べば死ねる身体を。腕を失えば2度と生えてこない身体を返してください」

「……私には無理だ。お前の魂はその身体に縛り付けられている。何者かがお前にとてつもなく強い魔法をかけたのだろうが、そんな魔法は聞いたこともな」

 ドンッと地面を揺らす振動を最後に中央の狼もクレアに踏み潰される。

 しばらくすれば狼は修復するが、八つ当たりを繰り返してもクレアの感情が治まる訳ではなかった。

 虚しく、その獣の亡骸なきがら茫然ぼうぜんと見下ろす。

 静まりかえった冥界で天を仰ぐ。

 もはや別世界になってしまった地上に想いを馳せて、涙も出ない自分をさげすんだ。

「おい!そこのお前!」

 光を失った少女が声のする方向にゆっくりと首を捻る。

 そこには久しぶりに見た狼以外の存在が。

 黒い長髪を後ろで結び、薄く長い刃をこしらえた剣を構える男がいた。

「おい、お前は人間か?俺とも遊んでくれよ」

 それはアイレシア国から遠く東の果てにあるサクレアと呼ばれる島国のナギという名の戦士だった。

 少女は後に友となる彼との出会いで人の心を取り戻す。

 自らの手で友を再び冥界にとすまで。










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