第6話 記憶の断片


スマホのアラームをとめると、

まだ眠い体や脳をなんとか起こして

ベッドからなんとか出ると、

夏が近づくかのようにすでに明るい景色に

脳が覚醒していくのを感じる



「よしっ‥‥あと1日」



レセプト週間だから残業は確定だけど、

金曜日って疲れがピークなのに変に

やる気が出始める。



大きく伸びをすると鼻を掠めるあの香りに、

とてつもなく癒され、枕元のテーブルの上を

眺めた



ほんとに良く眠れるんだよね‥‥


前にいただいたものもら今回のも

ほんとによく眠れるようにはなったし、

ここ最近はあの嫌な夢も見なくなった



あんな綺麗な顔した人から見たら、

疲れ果てた私の顔が嫌でも気になって

アロマの一つでも渡さないと

気が済まないのかも。



睡眠が取れ始めると、

食欲も前よりは沸くようになり、いつもは

ヨーグルトだけで済ませていた朝食も、

パンや野菜も食べれるようになった



結局先生に

お礼しないままずるずると過ごしてるから、

今は思いつかないけど必ず何か返したい




「午後は雷を伴う雨か‥」



天気予報を聞きながらテレビを眺める。



帰る時に雨だと嫌だな‥‥

小雨ならいいけど‥



もうすぐお産を迎えるお姉ちゃんにも

そろそろ会いに行かないと行けないし、

今日あたり予定聞いてみようかな。



パパッと支度を済ませると、

朝早い電車に乗り診療所へと向かった。




その日も休み前だから目まぐるしい

忙しさもあり、小さい子の流行り病と重なってか12時に診療が終わらなかった。



診療所は基本は内科のみだけど、

火曜日と金曜日の午前だけ、

隣の市から小児科医の先生が

来てくださっている



「木戸君、これ頼んでもいい?」


『はい!大丈夫です。』



職員3年目の木戸君は、火曜日と金曜日だけ

いつもヘルプで窓口に来てくれる。


お年寄りも多いから、1人に捕まってしまうと

私か由佳が仕事がストップするため、

木戸君がいないと今のところこなせない



『さ、佐々木さん何か手伝うよ。』



フフ‥‥

彼が由佳のことを気になっているのは

こんなにわかりやすいのに、なんで

先生の考えてることはこんなに

分からないんだろう‥‥



逆に申し訳なくなってくる。



その後も3人で業務をこなし、

午後は入力やお金の確認を早く終えて

少しでも早くレセプトに入った。



一月の中でも同じ患者さんが

何度か見えるものの、

見ないといけないレセプトは

多い月だと2000人近いときもある


それを由佳と2人でこなさないといけないから、

月初めの1週間は嫌でも残業になる。



ただ、それでも残業が少ないのは、

度会先生をはじめほとんどの先生が、

検査や薬に対してしっかり病名をつけて

くれているから、これでも早く終わるのだ



「由佳、今日でラストだから頑張ろ。」


『はい、勿論です。』



ほんとに今時の子なのに、

文句も言わず由佳はちゃんと業務を

こなしてくれるから私にとって

辞められたら困る存在になっている



よし‥‥

あと少しだから頑張ろう‥‥



夕方から降り始めた雨に、遠くの方で雷が

ゴロゴロと唸る音を聞きながら、2人で

無になってレセプト点検を始めた。




「‥はぁ‥終わった‥。」



15分ほど前に先に終わった由佳を

帰宅させると、病名漏れの分を

各先生方のデスクの上に置いた。



あとは来週頭にこの分だけチェックして

送信するのみ。



あーーー、一月の三分の一は

レセプト業務してる気がするけど、

とりあえず終わるとやっぱりホッとする



「あ‥‥まだいらしたんですね。

 これ先月のレセプト分です。」



19時を回るころにはみんな帰って

誰もいないはずなのに、

第一診察室のデスクトップの

明かりがついていて

度会先生がパソコンに向かって

カタカタと手を動かしていた




ほんとにこの人の身体どうなってるんだろ。

ワーカホリック症候群とか?


あの患者さんの人数をこなしてるのに

病名漏れなんて少ししかない。



こうやってカルテとかを入力するだけでも

すごく大変なんだろうな‥



『ありがとう滝さん。もう終わった?』


「あ、そうですね。やり残したのがないか

 確認したら帰ります。先生はまだ

 この後もお仕事されるんですか?」



『ん、もう少しだけ』



診察室の後ろの窓がピカっと光ると、

かなり大きな雷鳴が響いてビクッとする



これ以上酷くなる前に

早く帰らないと‥

でも珈琲くらい淹れてあげたら‥喜ぶかな



「あの、先生」


プツッ



えっ?

停電?


大きな音と共に、一瞬にして

全ての部屋の明かりが消えてしまう



備え付けられた窓から雷の光だけが

見え隠れするものの、体が自然と震える



違う‥ここは

大丈夫、1人じゃないし‥



『滝さん、大丈夫?

 きっともうすぐ非常電源に繋がるから。』



暗闇から伸びて来た手が私の腕に触れると、

いけないと思いながらも震える手で

手繰り寄せ両手でその腕を抱き締める



『‥滝さん?』


「あ‥‥‥すみませっ‥はぁ‥暗いとこ

 ‥‥苦手っ‥‥はぁ‥」


呼吸がどんどんしにくくなり、

掴んだ腕にも力が入ってしまう



雷の光がまるでフラッシュバックのように、

幼い頃に押し入れに長時間閉じ込められた

事を思い出させる



『大丈夫だから‥‥おいで。』



暗闇の中で包まれたあの場所は

やっぱりあったかくて私の大好きな

香りがほのかに香り安心する



「‥はぁ‥‥‥はぁ‥」



『‥‥‥‥大丈夫、ゆっくり呼吸して。』



息が苦しくて立っているのもしんどくなると

先生は私を抱えて診察室の椅子に腰掛け

私を膝の上に座らせたまま明かりがつくまで

暫く抱き締めてくれていた



非常用電源がつくまでどれくらいだったのか

分からなかったけど、

この空間に1人だったら危なかったかも



大人になっても不安な時は

お姉ちゃんによく電話していたくらいだ



『落ち着いた?滝さん。』


いつの間にか落ち着いていた呼吸と、

瞳を開けると明るくなっていた部屋に

しがみついていた今の状況を悟って

慌てて先生の体から離れた



「すいませっ‥‥こんなことしてっ!

 降りますから!!」



普段触られるとやめてくださいなんて

怒ってた側なのに、こんな膝の上にのって

ましてや自分からしがみつくなんて!!



暗いところが苦手だとしても、

自分の取っていた行動が信じられない‥



『滝さん』


「な、なんですか?」


早く膝の上から降りたいのに、

腰と背中に回された先生の腕が

一向に緩んでくれない



こんな甘えた雰囲気を恥ずかしげも無く

晒してるだけでも恥ずかしいのに‥



『クス‥りっちゃん‥‥

 昔もこんなことあったよね。』



えっ?

 


「りっちゃん‥?」


『ん、りっちゃん。』


「‥‥‥‥‥‥」



膝から降りることすら忘れるほど、

目の前の眩しいくらいに整った顔面を

間抜けな顔で見てしまう



課長でもあるまいし、りっちゃんって‥‥


『クス‥‥慶君ってあんなに

 呼んでくれてたのに、忘れちゃった?』


「けい‥くん?」



何処か懐かしいその呼び方に、

瞳を閉じて考える。



私が知ってる男性なんてそんなにいない。


付き合ったことがあるひとの友達?


いや、昔って言ってたからもっと前?



《りっちゃん、大きくなったら会おうね》



あ‥‥

昔、1人だけ私のことをそう呼んでた

男の子がふっと頭の中をよぎる



小さい時の記憶だから曖昧だけど‥‥‥



「‥‥けい君‥って‥あの施設のけいくん?」



4歳の時に親に育児能力がないからと

知らない人に連れられて行った施設で、

大きな大人の人と接するのが怖くて、

いつも部屋の隅でうずくまっていた



まともな食事なんてほとんど

親から食べさせてもらえてなかったし、

食べ方だって良く分からない



話し方や笑い方、何一つを

知らないまま施設に行ったのだから。



ただ、あそこは1人じゃなかった。



いつも話し声が聞こえるし、

温かい料理も初めて食べる甘い飲み物も

ふかふかのお布団もあった。



少しずつ言葉やみんながしていることを

覚えていけたのに、夜になると

暗いのが怖くて震えて眠れなかった時

施設にいた男の子が何も言わずに

手を繋いで寝てくれたのだ



自分よりも少し大きくて、

いつもニコニコして優しくて、

1人でいると隣で本を読んでくれりもした



《りっちゃんが寂しい時はそばにいるから》



今のお姉ちゃんの家族に

引き取られることが決まる前に、

引取先が決まったあの男の子が出ていく日に

大声で何度も名前を呼んで‥‥



『また泣いてる。』


「だって‥‥そんな‥信じられなくて‥」



あの頃のけい君が何歳だったかも

全く覚えてないし、あれから20年近く

経ってるのに私のこと覚えてたの?



『自立した後に、施設の院長に

 りっちゃんのことを聞きに行ったんだけど、

 もう亡くなられてて詳しいことは

 聞けなかったんだ。だから、偶然ここに来て

 初めて見た時はまさかと思ったけどね。』



長い指が私の頬を包むと

伝う涙を丁寧に拭ったあと

私を見て優しく笑った



「こんな大きくなってたら‥‥

 気付けないよ。

 もっと早く知りたかった。そしたら

 あんなに冷たく接しなかったのに。」



不安な時いつもそばにいてくれたのに、

じぶんがとってきた態度が酷すぎて

反省してもしきれない



『施設のこと思い出したくない人も

 いるかもしれないし、りっちゃんが

 大きくなって頑張ってる

 姿を見れるだけで嬉しかったからね。

 なのに、クマは酷いし、痩せてくし、

 閉じ込められるし、もう心配でやっぱり

 隠しておきたくなくなった。』



けい君のおかげで一人ぼっちじゃなかった‥


すごく大切な人だったのに

いつの間にか忘れてしまっていた。



ちゃんと覚えててくれたのに‥‥



「先生‥今まですみません。」


『あ、元に戻しちゃうんだ?』



「流石に職場で慶くんなんて呼べません!」



恥ずかしさから強引に膝から降りると、

すぐさま今度は後ろから抱きしめられ

背中に温もりを感じあの香りが鼻を掠める



なんでかようやくわかった‥


こんな先生が、私のような事務員に

構う理由が心配からだったなんて‥‥



『じゃあ仕事が終わったらもう先生じゃ

 ダメだからね‥‥』



「うん‥」



とんでもない慶くんとの再会が、

大嫌いな雷と暗闇の中とは思わなかったけど、

抱きしめられたまま後ろを振り返って

視線が交わると私達は初めて一緒に笑った








 







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る