第2話 fragrance


「‥‥‥ん」



ん?あれ‥‥



目を開けると薄暗い部屋の天井に、

ゆっくりと体を起こすと、

左手の手首に違和感を感じてハッとした




なんで私‥‥腕に点滴なんかされてるの?



あ‥‥‥

もしかしてあの時目の前が真っ暗になって

倒れたの?



って!!暗い!!?



ちょっと今何時!?



慌てて腕時計に目をやると外されていて

見当たらず辺りを色々見渡す。



あんなに残ってた業務をほっぽり出して、

こんな暗くなるまでまさか寝てたなんて‥



『滝さん起きた?』



ドクン‥



ぼーっとしていたから

全く気づかなかったけど、

ここ処置室のベッドだったんだ‥‥



カーテンが静かに開けられた場所から

こちらを見下ろす相手としばらく視線が

重なり私は俯いた。



「‥すみません、ご迷惑をおかけして‥」



いつもは突っかかりたい相手でも、

流石に迷惑をかけたってことは理解してる



うつむいたまま顔が上げられないでいると、

耳に届いた先生の溜息に握っていた

掌に力が入ってしまう



『気分はどう?』


えっ?


私が寝ていたベッドに軽く腰掛けると、

終わりかけていた点滴を抜き、丁寧に

そこを消毒してくれた。



『ここ少しだけ抑えてて。』


「あ‥‥はい。」



当たり前だけど慣れた手つきで

片付けながらまた同じ場所に腰掛けると

抑えていたコットンを剥がし

テープを貼ってくれた。



『‥‥急に倒れるから驚いた。』


「ハハ‥‥‥ですよね。自分でも驚いてます。」



俯いた先に見えた先生の腕時計が

18時を指していて、お昼から

ずっと寝無理続けていた自分に

尚更情さを感じる



先生には勿論迷惑かけたけど、

午後の仕事だってみんな疲れてるのに、

由佳とか他の人にさせたと思うだけでツラい



自己管理だけは自分なりに

しっかりやって来た方なのにな‥‥



『家まで送ってくから帰る支度できそう?』



えっ?



俯いていた顔を上げると、

立ち上がった先生はカーテンを静かに開けて

白衣のポケットから何かを取り出して私に

そっと差し出した



『時計返すの忘れてた。

 準備できたら戸締り任されたから

 医事課に行くから。』



「えっ?そんな!自分で帰れます!

 まだ電車ありますしもう平気ですから」



慌ててベッドから降りようとすると、

あんなに寝たのにも関わらずまた一瞬

軽めの立ちくらみが襲ってくる



『滝さん‥さっきも言ったけどクマすごい。

 嫌かもしれないけど、帰りに何かあったら

 心配だから今日だけ言うこと聞いて。』



ふらつく私の体を支える手が、

いつもからかってくる手と違う



声のトーンもまるで怒っているようでもあり、

冷たい感覚のようにも思える



抱きしめられそうなほど近い距離なのに、

何故だか泣きそうになる感情が押し寄せた



「すみません‥‥お願いします。

 着替えてカバン持って来ます。」



薄暗い空間にもう一度聞こえた溜め息に、

私は泣くのを堪えてゆっくりと先生から

離れ医事課のロッカールームに向かった



着替え終わってデスクに向かうと、

午前の患者さんのチェックも置いてなくて、

残されたメモに目頭が熱くなり涙が

自然と溢れてしまう



【先輩、いつも頑張りすぎてるから、

 ゆっくり休んでくださいね。私だって

 やればできるんですから。

 みんな先輩のこと心配してたので、

 月曜日は元気な顔見せてくださいね。

 倒れた先輩を抱き抱えて運んだ渡会先生

 カッコよかったですよー。  由佳】



休み前で患者さんただでさえ多かったのに、

全員分の会計チェックや受付入力とか

大変だったよね‥‥



ありがとう‥‥由佳

辞めたいなんて口にしてごめん‥‥



涙をティッシュで抑えていると、

先生の気配を感じて慌てて引き出しから

カバンを取り出した。



『滝さん準備できたなら行こうか。』


「あ、はい、出来ました。」



医事課の電気を消してチェックした後、

鍵をかけ、裏口に2人で向かい警備の人に

鍵を渡して外に出た。



『どうぞ乗って。』



うわ‥‥‥

どう見てもハイクラスな高級車だけど、

またそれが普通に似合ってしまうからすごい



頼んでないのに助手席のドアを開けて

待ってくれているけど、そんなこと

されたことないから少し戸惑う



お礼を言うべき?

そんなことすら分からない



後ろでも良かったのに助手席なんて

私のような事務員が乗ってもいいのかな‥



こんな容姿で常にモテそうだから、

こういうことにすごく慣れてそうだけど、

多分今何を言っても聞いてくれなさそうだし、

迷惑かけた側だから素直に言うこと聞こう。



「‥ありがとうございます。」



『ん、ドア閉めるから気をつけて。』



閉められた瞬間、

車内にフワッとアイツの香りがして

何故か体が小さく震える



ガチャ


『寒くない?』


「あ、平気です。‥‥あのうちはここから

 車だと少しかかりますから駅まででも。」



『大丈夫。さっき課長さんに

 家まで送ってくからって

 住所聞いてるから。』



ん?



『課長さんって滝さんの

 義理のお兄さんなんだね。

 りっちゃんなんて呼んでたから気になって

 あれから問い詰めちゃったんだよね。』



課長!!!!

何勝手に個人情報教えてんの!?



なんなら自分の家の方が近いんだから、

そっちの住所教えて欲しかった。それか

義理の妹を自分が迎えに来て

家まで送ってってよ‥‥



ニコッと笑う先生に、

口がひきつりそうになりながら

なんとか笑顔を向けたけど、

後でお姉ちゃんに怒りのメールを

しようと決めた



『そう言えば滝さんお昼食べてないよね。

 体調よければ晩御飯付き合ってくれない?』



えっ?




「た、確かに食べてませんけど別に平気です。」



突然何を言うかと思えば、

そんな仲も良くないのにいきなりご飯!?



先生といることが今、私の中で1番の

悩みの元なのに、2人きりでご飯とか

絶対無理!!



なんなら今この車内の空間ですら、

落ち着かなくてかなりしんどいくらいだ



『うーん、そっか。滝さん貧血すごいから、

 栄養足りてるのか心配だったんだ。

 さっき抱き抱えた時も軽過ぎて驚いた。

 しっかり食べてる?』



先生の言葉で、

由佳が残したメモに書かれていた事を

思い出してしまい何故か苦しくなる



あれはただの治療というか、

倒れたから運んだだけで、そのほかに

何の意味もない



「食べてると思います、それなりに。」


『社食は?なんで食べないの?』


「‥‥‥‥」



静かなエンジン音だけの空間に、

いつまでも発車しない車から飛び出したい



私多分、先生のことが苦手なのがわかった。

この人はいつも

奥深くまで入ってこようとするからだ。



静かに仕事をこなして来た私には

こういう事にも慣れてないけど、

どう対応していいかが分からない。



こんな容姿端麗で、医者という

スペックを持つひとからなら、普通は

喜んでしまうはずなのに、何故だかそれが

とても怖いのだ。



「節約してるんです‥‥色々あって。」



結婚したお姉ちゃんにも心配かけたくない。

もちろん課長にも。



それに‥‥



『じゃあ今日は迷惑かけたってことで、

 少しだけ寄り道していい?ご飯は

 また今度行こう。』



また今度‥‥



そんな日はもう来ないと思うから、

小さく頷くと車はようやく動き出した。



少し走ると、近くのコインパーキングに

停まり、渡会先生はちょっと待っててと

私をそこに残して何処かへ行ってしまった。




「ふぅ……」



何を話したらいいのかも分からず、

ようやく解放された1人きりの空間に

力が入っていた状態が緩む



病院だと強気なこと言えるのに、

なんだろう‥私服姿だとソワソワする



背が高いからなんでも似合うとは思うけど、

白衣を脱ぐと別人に感じてしまい

余計に話しかけにくかった



ホッとした時に空調に取り付けられたビンが気になり、勝手に手に取っていいか

分からなかったから近づいてみた



香水?とは違う‥‥アロマ?



なんで香りか分からなかったけど、

時々先生から香る匂いってこれだったんだ‥

何故だか落ち着く香りに癒されながら

もう一度シートにもたれて色々考えた



病院を辞めないにしても、

自分がどう向き合っていくかで

もしかしたら変われるのかな‥‥



悪い人じゃないっていうのも分かってる。

こんな時間まで付き添ってくれて、

こうして家まで送ってくれるのだから。



また悩んでると寝れなくなりそう‥

自己管理しっかりしないと来週から

レセプト始まるのに‥



ガチャ



後部座席のドアが開いて閉じられると

すぐに先生が車に乗り込みまたあの香りが

フワッと舞った。




『お待たせ。さ、行こうか。』



そんなに待つほど待ってないけど、

やっと帰れるという安堵感から私は

さっきよりは力を入れずに頷けた




「‥あ、あの一つ聞いてもいいですか?」



あれから住んでいる家まで送ってくれ、

また頼んでないのに助手席のドアを開ける

行動には慣れないまま私は降りた。



『ん、いいよ。』


なんでこんなこと

自分から言っちゃったんだろう。



お礼だけ伝えて

さっさと家に入ったら良かったのに。

口にした途端後悔して頭を抱えたくなる



「‥‥この車の中の香りってなんですか?」



ほんっとどうでもいい話ですよね!!?

先生だって驚いてるじゃん‥



今後乗ることはないと思うけど、

ほんとに気になってたから嘘じゃないし

いきなりこんなこと聞かれてひくかな‥



『香りって空調についてるこれのこと?』


「あ、はい‥‥いい香りでホッとするなって」


『そうなんだ。良ければあげるよ。

 ストックまだあるし。』


「えっ!!?そういうつもりじゃ!!」



私の言葉なんて聞こえてないかのように、

後部座席のドアを開けると、そこから

大きな紙袋を取り出した。



『はい、これ』


えっ!?



アロマのストックにしてはどう考えても

おかしな大きな紙袋に青ざめる



まさかストックって大量にあって

それ全部くれるとかじゃないよね?



ニコニコしながら差し出すそれを

受け取れずにいると、手を取られて取手を

強引に握らされる



「先生!?」



『これね、さっき買ってきたご飯だから。』


えっ?



紙袋は思ったよりずっしりしていて、

そう言われると隙間からいい香りもするし、

温かさも感じる。



まさかさっき寄り道してこれを買ってたの?



二重の袋がしっかり閉じられてるから

そんなに車内で匂いに気付かなかった‥

緊張してたから余裕がなかったかもしれない

けど、驚いて先生を見上げてしまう



『日持ちするの選んだから、しっかり食べて

 週末はゆっくり休んで。』



「そんなっ、いただけませんこんなに!」



ただでさえ迷惑かけたのに、

ご飯まで買ってもらうなんて‥‥



『滝さん、また来週もよろしくね。』



ドクン


片手の掌が、私の頭に触れると

ポンポンっと優しく動き私は固まった



もう片方の手が、空いていた私の手に

小さなビンを握らせると先生は

車に乗り込んだ。



身動き出来ない私を他所に、車はゆっくりと

ここを去っていき私はそれ

を眺めるしかできない



触れられた時に香ったアイツの香りが

一瞬で全身に回って、抱きしめられてないのに

包まれてるようにさえ思えてしまう



「‥‥‥お礼伝えるの忘れちゃったな‥」



重い足取りで家に入った私は、

渡された袋を開けると入っていた

たくさんの総菜やフルーツに

何故だか笑みが溢れた。



私の好きなものばかり?

偶然だとしても出すもの出すものが

本当に好きなものばかりだ。



小さなカップを開けて摘んだ苺が

甘酸っぱくて体に染みていく。


いつも先生のこと考えるとモヤモヤするのに、

初めてツラクないって感じる。



「どんな顔してこれを買ってたんだろ‥」



本当は食欲なんてなかったけど、

誰かが自分なためにしてくれたことが

嬉しくて、大事に噛み締めながらゆっくり

食べれた気がする。



なんでここまでただの事務員に

色々してくれるのかな‥‥



その日の夜は、

考えることがいつもよりも多いはずなのに

久しぶりにぐっすり眠れた



あの香りと共に‥‥

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