第1話 天敵なアイツ



ガチャ


「おはようございます」



いつもの時間に勤めている診療所の

事務部の扉を開けて入ると、

まだ病院が開く1時間以上前ということもあり

院内も事務課もとても静かだ。




診療時間は午前9時から終わるまで。

早ければ12時、遅いと13時近くまで

時間がおすこともある。



始まってしまえばストップしない日々だから、

この静かな時間が一番好きで、わざわざ

早く来て心に余裕をもたせたい




『滝さんおはよう』


「部長、おはようございます。

 あれ?その珈琲なんだか

 いつものと香りが違ったりします?」



鞄をデスクの引き出しの一番下にしまうと、

机の上に置きっぱなしのクリップで

長い髪の毛を一つに束ねた



『やっぱり分かる?

 これいただいた豆なんだけど深煎りで

 とてもいい香りなんだよ。

 あ、良かったら飲むかい?』



「えっ?いいんですか?」



『あ、うん、勿論だよ。』



「ん?ちょっと待ってください‥‥

 もしかして何か企んでたりします?」



高そうな貴重な豆なのに

部長の方から飲む?なんて滅多に言わない。

いい人だけど少しケチなんだよね‥




いつもと違った雰囲気に部長をじっと見ると、

あからさまに目を逸らされた



やっぱりおかしい‥‥‥



目が合わないしキョロキョロしすぎだし、

なんなら立派に主張するおでこから

汗がじんわり滲んでる



『た、企んでるだなんて‥‥そんな』



こんな時に問い詰めても部長は絶対話を濁す。

それなら‥‥‥


 

「課長!!?いますよね!?」



ガタガタッ!!



向かいに座る席に

積み上げられたファイルの向こうで

私の声に驚いたのか椅子から派手に

転ぶ相手をうえから覗き込む



どんだけ動揺してるのよ‥‥



「大丈夫ですか?課長?」


『り、りっちゃん‥‥はは、おはよう。』



「職場でその呼び方辞めてくださいって

 前にも言いましたよね。」


『うっ!‥‥そ、そんな怒らなくても‥

 あ、あの‥‥えっと‥言いにくいんだけど

 これって頼んだら駄目?』



倒れた椅子を戻すと、

申し訳なさそうにそっと積み上げられたファイルの上にそっと置かれたものに、

こめかみにピキッと音が鳴り

怒りが込み上がってくる



「課長‥‥いや、部長!なんでこれを

 私がわざわざやらないと

 いけないんですか!?」



静かな病院に響き渡る私の声に、

目の前の課長はもう一度転び、部長は

高級豆で淹れた珈琲を喉に詰まらせる



こんなの私がわざわざしなくても

いいことであって、そんなことするために

早く出勤してるわけじゃないのに



『滝さんそんな怒らないで』

『そうそう、り、りっちゃん、落ち着い』


「落ち着けるか!部長も課長も嫌なことは

 ちゃんと断ってください。私達は

 事務員であって雑用じゃないんです!

 低賃金でやること本当に多いんですから。」



『低賃金‥‥ハハ‥

 そ、そうなんだけど‥先生がりっ‥

 滝さんに持って来て欲しいって言うから』



は?



デスクに捕まり下から青ざめた顔で私を見上げる課長にさっきよりも睨みを効かせたあと、

置かれたそれを手に取り

勢いよく事務課を飛び出した。



私に持ってこい!?



課長も課長だ。

私の姉と結婚して義理の兄になったなら

尚更家族を困らせないで欲しいよ。



お姉ちゃんに言いつけてやろうかな‥



いい加減ほんとに頭に来る。

今日こそは

強く言ってやらないと気がすまない。



なんでも権力や立場で自分の思い通りに

なるなんて思ったら大間違いなんだから‥



医事課から処置室、

第3、第2診察室を通り越し、

怒りの矛先の主がいる第1診察室の手前で

大きく深呼吸をした



ふぅ‥‥‥

落ち着け‥‥‥

落ち着かないけど落ち着いて話さないと



私の平穏な日常を取り戻すために。




『‥‥クス‥‥滝さんの声ここまで

 聞こえてたよ?朝から元気だね。』



えっ?




勢いよく考え事しながら歩いてたから

急に視界に入った相手に驚いて思わず

立ち止まった。



『おはよう』



うっ!


どんより曇り空から神々しい太陽でも

出たかのような眩しい笑顔に顔を背ける



無駄にいい顔立ち


スラリとした背丈


脳内に響く低音


そのどれもを持つ相手が

一歩こちらに近づくのを見かねて、

持っていたそれを相手の胸に押しつけた



「‥‥これ、渡しにきただけなので。

 私は忙しいのでもう2度とこんなことで

 呼ばないでくださいね。」



両手でそれをグッと押し付けたあと、

さっさと事務課に帰ろうとしたら

押し付けたままのそれは地面へと落ち、

長くてひんやりとした指に手首を掴まれた



「なっ!!ちょっ!こういうのほんとにやめて

 貰えません?そろそろ訴えますよ?」



グイッと少し引き寄せられると、

危うくその胸に顔がつきそうで、

空いているもう片方の手で推しのける



『そんな渡し方はダメでしょ?』



は?

持って来させておいて渡し方?

思わず口からはぁ?って声が出そうだ。



「んんっ、お暇でしたら自分で

 取りに来たらいいんじゃないですか?

 医事課まで歩いて1分もかかりませんし、

 他の先生方は事務部に取りにきますけど?」



綺麗な顔で見下ろす相手にも怯まず

下からムッとして睨んでみる



なんで、

みんなこんな人に騙されてるんだろ。



患者もスタッフも、看護師も

コイツのこうした裏の顔をきっと知らない。



『クス‥‥滝さん変わってるよね。

 みんなこうされたら顔を赤らめて喜ぶのに』



「そうなんですね?

 だったらそうされたい人に

 好きなだけしてあげたらいいのでは?」



ただでさえ貴重な朝の時間を削られて

イラつくのに、あんたの自慢話なんか

どうだっていい。



確かにそこらの芸能人やモデルより

整ってるとは思うよ?眩しいし!!



でも、外見良くても中身がこうも我儘だと

嫌悪感しか抱けない。



「それよりいい加減離してもらえません?」



掴まれたままの手首も嫌だけど、

何よりなんでこんなに密着しないと

いけないわけ?



今朝届けられた真新しいデザインの

白衣を届けに来ただけなのに、

そんなものはどうでもいいかのように

落ちたまま拾いもしない



ほんと何考えて‥‥



『僕がこんなことしたいのは

 滝さんだけなんだよ。』



ドクン



纏めた髪から剥き出しになっていた

耳元に触れたアイツの唇が

思ったより冷たいのに、かかる息が暑くて

体がピクッとハネる



『フフ‥‥ほんと素直じゃない。

 これありがとう、早速着るね。』




スルリと解かれた手が床に落ちた物を

拾うと、まるで何もなかったかのように

ニコっと笑うと目の前のカーテンを閉められた



「‥‥‥」



何?今の‥‥

慌てて自分の手で触れられた耳を覆う。



今までだって、手に触れたり

肩に触れてきたりとかはあったけど、

一体どういうつもり?



《滝さんだけだよ》



脳内に繰り返される低音に体がもう一度

震えるのを抑えて私は急いでその場を離れた



なんなのアイツ‥‥



ほんとにアイツが来るまで平穏だったのに、

来てからというものペースも何もかも

狂わされている



ここは地元の人が通う小さな市の診療所



小さいなりに事務員は少ないし

やることはそれなりにあったけど、

人員にも恵まれて職場で嫌なことなんて

一つもなかった



それなのに‥‥‥

アイツが赴任して来てから、

大きな病院でもないのに、連日平日なのに

200名以上も患者がやってくる。



病気なら仕方ないけど、

あからさまにメイクバッチリして

オシャレしてショッピングにでも行くような

人が貧血ですなんて来るのにも慣れた



ただ落ち着いて仕事したいだけなのに‥‥




「私辞めようかな‥ここ」



金曜日、

目まぐるしい午前診療の受付と会計が終わり

溜まった他の仕事をする気力もないほど

受付のキャスター付きの椅子に座った後

思わず呟いた



『先輩!今なんて言いました!?』



隣に座る可愛い後輩の

佐々木 由佳がガシッと私の二の腕を掴み

ぶんぶん振り回してくる



たった3つ歳が下なだけなのに、

すでにテンションの違いすら感じる毎日



「あ、今私口に出てた?」


『思いっきり出てましたよ!

 ほらみんなこっち見てますし!』



そんな大きな声で心の声が漏れてたんだ‥

もう重症?



アイツが来てからほんと良く寝れないし、

うっすら目の下にクマだってできてる



やっと平日が終わった‥‥



最近週末になると

ここに来なくていいって思えるだけで

心が穏やかになる



『ダメですよ!先輩いなくなったら

 私1人であんな人数さばけません!!』



うん‥‥なんなら2人でもさばけてるのか

分かんないけどね。



はぁ‥‥

アイツはまだここに来て一年だし、

辞める気配もないし。



せっかく大学病院にいたなら、

そのままそこにいたら良かったのに、

なんでこんな小さな診療所に?



「由佳、今のうちにお昼休憩行っておいで。

 1時間後交代ね。」



社食を食べてる部長や課長をはじめとする

職員さんは、既に席を離れていない。



電話がかかってくるかもしれないから、

1人は必ずここにいないといけないので、

社食の由佳は先に行かせて、

お弁当の私はいつでもいいのだ



『もう先輩、後でちゃんと聞きますからね。』



腕にぎゅーっとしがみついた彼女に手を振り

私は机に突っ伏した



辞めたら由佳が可哀想‥‥

ただでさえ優しくて穏やかな子だから、

たまにくるキツめの電話応対や、看護師への

応対にも疲れちゃうはず



そして何より‥‥



「アイツの世話させるのが可哀想‥」


『アイツって誰?』



えっ?



タイミング悪く現れたその主の声に、

突っ伏した頭を上げることもせず

おでこの下に置いた両手で今すぐ

耳を塞ぎたくなる



診察終わったのなら社食食べに行ってよ‥‥



こっちは、誰かさんのせいで毎日毎日

トイレに行くことも出来ないくらい

忙しい午前を終えたばかりなんだから



しばらくしても、何も音も聞こえず

話しかけられることもなかったので、

寝ていると思って帰ってくれたのかも?と

ゆっくりと体を起こした



「はぁ‥‥」


『ねぇ、アイツって誰のこと考えてたの?』



へっ!?



声をかけられてから5分は無視してたから、

流石にいないと思ったのに、普通に隣に

座ってこちらを見ていた人物の方を向く



「‥‥何しに来たんですか?先生。

 今みんなお昼行ってますよ?」



患者さんに向ける声色とは違って

思わず低めの声が出てしまう。



なんなら、キラキラと輝くその姿を見るだけで

口角がピクピクしてしまいそうになる



『滝さんは何時から休憩行くの?』



「はぁ‥‥それ知って先生得します?

 みんな帰って来てから勿論休憩は

 行きますよ?先生も早く行かないと

 社食冷めるか片付けられますよ?」



見たところ手ぶらだし、何か書類でも

頼みに来た感じでもないし一刻も早く

立ち去って欲しい



こんな疲れた状態でこの空間に2人きりなんて

なおさら耐えられない



週のはじめに耳になんか触れたせいで

こっちは寝不足なんだよ!?




『ほんと‥クマ酷いね。』


「ハハ‥ですよね?

 誰かさんのせいで寝れなくて」



アンタだよ!!

心の中が叫びたいくらい大きな声で返事する



黒くて少し長めの髪の毛からこちらを見る

切れ長な瞳にスラッとした鼻筋。

薄めの形のいい唇はどこをとっても

文句のつけどころがない



そんなあなたからしたら、私のような

クマ女なんて気になってしまうでしょうね。



『それってそのアイツのせい?』



椅子のキャスターが動いたと思ったら

一瞬で距離が縮まり肩がぶつかるほどに、

度会先生の温度や香りを一気に感じた



「だからそれ知ってどうしたいんですか?

 私ただの事務員ですよ?」



『知りたい』


えっ?




『滝さんのことならもっと知りたい』



ドクン



何それ‥‥



なんでいつものニコニコした

ふざけた顔じゃなくて真顔なの?



綺麗な顔がより際立つように

真っ直ぐと私を見て離さない



こんなただの事務員の何が知りたいの?



住む世界も感覚も違うだろうし、

知って何も得られるものなんてないのに?




どんどん詰められていく距離は

今でも鼻がぶつかりそうなほどで、

その間も切れ長の瞳は真っ直ぐに私を見て

離さない



ちょっと‥このままだと‥‥‥

ほんとに触れる‥‥



ガチャ




『あれ、りっちゃん今日休憩あとだったの?

 えっ?わ、度会先生どうしたんですか?』



あと少しで唇が触れるというときに

開けられた医事課の扉の音に、

目の前の相手を思いっきり両手で突き放した



「か、課長!!

 私お手洗い行ってくるので少しだけ

 電話番お願いします」



先生のことはもう見る余裕もなく

勢いよく立ち上がると走って逃げたいのに

寝不足と変な緊張からなのか

思い切り立ちくらみがしてその場に

派手な音と共に座り込む



『りっちゃん!』

『滝さん!!』



痛ったぁ‥‥


肩思い切りデスクにぶつけたし‥



あ、これ‥まずいかも‥‥



天井がグルグル回る中聞こえた

課長の声に混じって、今一番聞きたくない

主が私を呼ぶ声が響いてくるけど、

抵抗できずその場で私はゆっくり瞳を閉じた




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る