答え合わせは全てが終わった後にするものである

 夏が終わり、秋にも少し慣れた頃、僕はようやく社会復帰を果たした。


 定期的な病院の受診と休職継続可否の連絡すらサボって田舎に引き籠もっていたため、それはそれはあちこちから盛大に叱られ、問題にもなりかけた。


 しかし、僕の意思とは関係なく山奥に拉致られたこともあり、電話も持っていかなかったということにしてどうにか事なきを得た。必死に頭を下げれば意外となんとかなるものである。


 そうして会社に戻った僕であったが、別に急に上司が優しくなるわけでも、仕事の量が減るわけでもなく、発作が起こらぬようになったわけでもなかった。


 そんな時はどうするか。決まっている。人間、体調の優れぬ時は休むものである。


 昔の僕は、自分の仕事に責任があるだの、周りの負担がどうのだのと言って無理を押して出勤しようとしていた。僕でなければ回らぬ仕事などないというのに。


 今だからこそ、過去の僕に言ってやる。思い上がりも甚だしい。


 そうして休んで、僕はよく、風呂場で浴槽の淵に腰掛けて、冷水を張った洗面器に足を突っ込んだ。


 流れもなく、日も差さず、あの山中の川とは比べるべくもない些細な水たまりであったが、それでも、僕の心の毒が溶け出していくようだった。


 機会があれば、山を見上げにも行った。秋祭りを観に行ったこともある。一日中電子の世界で花札のオンライン対戦をしたことも。


 どれも大した取り組みでは無かったが、あの夏がいつでも心の中心にあった僕にとっては、どの薬よりもよく効いた。


 やはりもう死のうと思った時、どうせいつかはあの世界に辿り着くのだから、もう少しくらい寄り道してやってもいいかと、そう思わせてくれたのだ。


「それが一体、どうしてこうなっているのですかな?」


 いつもの川で、いつものように糸を垂らしながら、ぬらりひょんは僕に問うた。


「いや、僕も死ぬ気などなかったのだ。ただほら、色をすっかり反転させた白い猫又のような美猫が車に轢かれそうになっているのを見たら、つい助けてしまうのが人情というものであろう?」


 そう。春先になって、僕は死んでしまったのである。それも、猫を庇ってトラックに轢かれるという、大変ベタな展開で。


「もっと後先考えて行動しなさいよ」


「貴様には言われたくない」


 ナツキまで詰ってくるが、僕の死因は此奴と大して変わらぬはずだ。貴様にだけは詰られる筋合いはない。分かったら足で水面を叩くでない。魚が逃げる。


「それにしても、人間、死のうと思った時には死ねず、生きようと思ったら死んでしまうものだな。全くままならん」


「貴方様が言うと重みがありますな。それで、その子はどこへ?」


「ああ。あいつは猫又のことが気に入ったようでな。猫又に相手を任せてきた。似た者同士仲良くなれるであろう」


 その白猫が猫又化したことまでは言っていないのだが、まあぬらりひょんに分からぬはずもないか。こっちの猫又と同じパターンであるしな。


「猫又猫又って、その子も猫又なら呼び方それじゃややこしいでしょ。その子、名前は?」


「こっちの猫又はシュバルツであったな。ならヴァイスでよかろう」


「ヴァ……ヴ……す! すーちゃんね」


 またナツキが妙なあだ名をつけた。まあなんでもよかろう。どうせ僕は呼ばん。


 それにしても、去年の祭り以降すっかり懐いたものだ。無論ナツキがである。あんなに距離をとって、極力会話も突っぱねようとしていたというのに。


 今では側に張り付いて普通に雑談に乗ってくるようになった。それだけなら反抗期が過ぎたなと微笑ましく思えるものだが、時折しがみついて来たかと思うと、突然「あたしに手を出すとカイトが黙ってないから」などと余計な釘を刺してくるあたり、やはり現実のツンデレはデレても面倒である。


「それにしても……ふっ、これであんたもすっかりおばけ仲間ね。どう? 人間をやめた気分は」


 ニヤニヤと愉快そうにそんなことを聞いてくるあたりも、やはり面倒である。


「どうもこうも、さほど変わりはしない。自分の葬式でスピーチをした時は愉快だったがな」


「あんた何をしてんのよ」


 仕方がなかろう。幽霊となったはずなのに、何故か僕の姿が見えぬ者がいないくらいだったのだから。死体が無ければ死んだとすら思わなかったやもしれぬ。僕も周りも。


 それでも、確かに僕は死んだ。しかし霊体はここにあって、姿も見えるし会話もできる。とくれば、自分の葬式くらい自分でプロデュースしたくもなるだろう。


「故人が自分で葬式を取り仕切るものだから、参列者も坊主も皆、夢でも見ているような顔だったな。川田だけは笑い転げていたが」


「それほんとに友達なの?」


「何にせよ、そんなだから特に幽霊になったという実感はそれほどないのだ」


「まあ、貴方様は亡くなられる前から人間ではなかったですからなあ」


 あの日はよく晴れてたからなあ、とでも言うように、ぬらりひょんは突如、自然にとんでもないことを口走った。


「ど、ういう……?」


 ナツキは驚きつつも、そういえば元から変だったとでも言いたげな心当たりのある顔をしたが、僕には心当たりなどない。


 生来僕は人として生まれ育ち、死ぬまで人間を貫いたつもりだ。目を白黒させながら聞けば、なんでもない風にぬらりひょんは答えた。


「川でおかしなものを釣り上げたり、虫取りに入った山に古いカードが張り付いていたり、ここぞという時に都合よく化け狸殿を踏んづけたり。おかしいと思うことは、一度もなかったわけではございませんでしょう」


「偶然の出来事ばかりであるし、釣りは貴様か小豆の爺の妖術ではないのか」


「儂は何もしていないと言ったでございましょう。仮にそれら全てが偶然、もしくは儂らのせいであったとして、その後都会での生活は何もございませんでしたか?」


 喉が干上がるような感覚がした。全ては奇妙な偶然だと思っていた。だが、まさか。


「地方アイドルのライブの客席が近所の動物園から脱走してきたカピバラに占拠されたのも、服装自由の合同会社説明会に来る学生がどいつもこいつも青魚を装備したオタクばかりで会場が生臭くなったのも、全ては僕のせいだというのか!?」


「おかしいとは思いなさいよ」


 思ったさ。思ったとも。おかしいと思ったとて、それが妖怪のせいだとは、ましてや自分のせいだとは思うまい。


 なんとかしろと怒鳴り散らす上司にすら、脳内でこんなものこちらの責任のはずがあるかとキレ返したものだというのに。


 ぬらりひょんはさぞ愉快そうに、いつも通りの文字化出来ぬ笑い声を上げた。


「まさかそんなことになっておりますとはなぁ」


「笑い事ではない。一体僕が何だったらそんなことになると言うのだ。というか、そんな珍妙なことが起こるようになったのはここに来てからなのだが、貴様、僕に何かしたのか」


「そうですなぁ……黄泉竈食ひ、という言葉をご存知ですかな?」


「貴様ー!」


 思わず胸ぐらを掴みぐわんぐわん揺すってしまったが、ぬらりひょんは一切表情を変えることなく、奇妙な笑い声を上げ続けた。


 初めて会った時は冷や汗を垂らし揉み手までしてみせたというのに、この妖怪はすっかり僕のことを舐め腐っている節がある。


「ナツキ! 家から木刀を持って来い! こやつにはいい加減立場というものを分からせてやらねばならん!」


「すぐ木刀振り回そうとするのやめなさいよ! 持ってこないからね! ねぇ、それよりなに? よもつへぐいって」


 話をすり替える気か、と一瞬思ったが、ナツキの目は本当に何も知らぬ、無垢なる瞳であった。まあ、確かに小学生で古事記など読むまい。


「簡単に言えば、あの世のものを口にした人間は戻ってこれぬということだ。心当たりがあるとすれば、初日の酒くらいだが」


 睨みつけられたぬらりひょんは、相変わらず飄々とした態度で、うんうん頷いた。


「本当に黄泉のものをお出ししたわけではありますまいが、あの日の酒や肴は妖怪たちそれぞれに持ち寄って頂いておりますからな。変な曰くのあるものでも混ざっておったのでしょう。例えば、口にしたものを妖に作り変えてしまう秘酒、ですとか」


「他人事のように言うな。貴様の監督責任であろうが」


「黄泉のものに関わらず、得体の知れぬものを安易に口にしてはならぬという教訓ですな」


 この爺、本気で言い逃れようとされると全く会話にならぬ。やはり木刀が必要であろうか。


「原因は分かったけどさ、それで結局、山田はなんの妖怪になったのよ」


 いかにぬらりひょんを懲らしめるかに思いを馳せ始めたところ、軌道を修正したのはナツキであった。この娘、捻くれ者のくせに無駄にサポート性能の高い娘である。たまに役に立ったときくらいは、褒めてやっても構うまい。


「……何で急に頭撫で始めるのよ」


「気にするな。で? 僕が一体何だというのだ」


「さぁ、前例がございませんからなあ」


 相変わらずとぼけた会話をする爺である。前例がないというのは、こういった形で妖怪化した者が居ないという話なのか、既存の妖怪ではない新種になったという話なのか。言葉は無闇に省くものではない。


 苛立つ僕をさらに苛立たせるように、ぬらりひょんは見たこともないほど皺くちゃなドヤ顔をキメてみせた。


「儂が命名してよろしいのであれば、さしずめ〝狂言廻し〟というところですかな」


「僕が進行役や解説役だとでも言うつもりか」


「いえいえ、どちらかと言えば、異国語で言う〝とりっくすたぁ〟が近いですかな」


「狂言という字面だけを取り上げてそれらを同一視するのは誤用であるぞ」


「あえて強引にそういうこじつけをするのも、旦那らしくてピッタリだと思うのですがね」


「ねぇ、あたしにも分かるように言ってくんない?」


 ぬらりひょんの嫌味に眉を顰める僕より、ナツキの機嫌は一層悪かった。狂言廻しもトリックスターも分からぬであろうナツキには、確かに意味もわからぬ会話であったことだろう。


 もう死んでいるとはいえ、やはりナツキにももう少し教養が必要であろうな。そのうちいろいろ仕込んでやろう。ただ、今は僕も教えられる側だ。


 じとりとしたナツキの目に口をモゴモゴさせるぬらりひょんの言葉を、一緒に待った。


「えー、簡潔に述べますとですな、繋がらぬはずの因果を強引に繋げる存在だと思うのです」


「繋がらぬ因果?」


「それこそ、川に居ない生物を釣り上げるだとか。川下で失くしたものが川上から出てくるだとか。儂の力を無効化するとかもでしょうな」


 そう言われてみれば、ナツキの遺品だとしても、失くしたはずの場所より上流で釣れるというのは道理に合わぬものであったか。それ以上におかしな部分だらけだったので気が付かなかった。


 まさかそれが、僕自身に起因する事象だったとは。だが、二度目にこやつの能力を食らいそうになった時、僕の能力で無効化したというのは気分がいい。


 お前には特殊能力があるのだと言われ、さらにそれが他者を上回ったとなれば、テンションの上がらぬ漢は居るまい。


「要するにアレ? 自分の望む結果を呼び寄せる、みたいなズルいやつ?」


 ナツキがさらにそんな興奮するようなことを言うので、僕はすっかり天狗になりかけるところであったのだが。


「お仕事での話を聞く限り、旦那自身が望む望まぬに関わらず、現状を打ち破りおかしな方向へ強引に事を運んでしまうのでしょうな」


「だから、トリックスターか」


 そう言われてみれば確かに、カピバラも青魚も僕は迷惑を被るばかりで、ちっとも得などしなかった。そう思うと、なんとも厄介で面倒な能力である。


「それでも、ナツキ殿たちの件においては重要な要素をどんどん呼び寄せていくので、傍から見ていて冷や冷やいたしました。やはり、貴方様は敵に回すものではありませんな」


「元はと言えば貴様の過失であろうと言うに……それに、悪くはなかったであろう?」


「まあ、そうですな。あんな光景を見るのは江戸の頃以来でございました」


 遠くを見つめるぬらりひょんの瞳には、きっとあの夜の百鬼夜行が写っている。僕にも気持はよくわかる。江戸などと、そんな遠い過去の話は知らぬが、この約一年、あの夜の景色は何度でも僕の心を突き動かしてくれた。


 だから僕はここへ戻ってきた。

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