若者のモラトリアムを守るのは大人の役目の一つである

 ヒヨ子脚立を降り、空き家を出れば丁度アップリケが戻ってきたところであった。


 ナツキと話す間、いつもの場所にぬらりひょんがいるか偵察させておいたのだ。案の定、河原で呑気に釣りをしているらしい。


 先にナツキを陥落させておいたため、これでいきなり再度昏倒させられることもなかろう。


 もしさせられたとしても、ヒヨ子を殴れば記憶が戻ることはもう分かっている。仕切り直しも十分可能なはずである。


「いいな? 僕がまた縁を切られ意識を失ったら、僕にヒヨ子を叩きつけるようにして起こすのだ。もしかしたら一度で記憶を取り戻しつつ起きられるかもしれぬ」


「やっぱりアタイ、目覚ましとして連れてこられたんですねぇ……」


 作戦の最終確認を行いながら山道を歩く。歩いているのは僕だけだが。


 ヒヨ子、猫又は飛行するアップリケを魔法の絨毯が如く使役し上に乗っている。ナツキも浮けるので、アップリケに掴まり牽引される形で着いてきていた。


 僕も運べという話なのだが、このアップリケは存外力が弱い。一般的な一反木綿なら成人男性くらいは軽々と持ち上げられるそうなのだが、こやつは速度にパラメーターを全振りした身体能力をしているのだろう。


 どうりで絹のくせに薄っぺらい身体をしているわけだ。ボディの軽量化はスピードを出すための命題であるということか。


 下らぬことを考えているうちに目的地に辿り着いた。日が暮れかけ、木々の向こうから朱が迫る空模様のなか、これまでとまったく変わらぬ様相で川に糸を垂らすぬらりひょんに歩み寄る。


 既に存在は把握されているであろうに、いきなり再切断されることはなかった。思惑は知らぬが、息を整える時間が出来てよしとする。


「釣れるか」


「えぇ。獲物が一人」


 上手い返しをするものである。獲物と言いつつも、やはりすぐに狩る様子は見せなかった。


「やはり、こうなりましたか」


「やはり、か。貴様は時々、未来でも見えているような事を言うな。そうであるなら妨害くらいは出来たはずだが」


「無論、そんなものは見えておりませぬからなぁ。それに、妨害も必要ないでしょう」


 油断していた。いや、油断を誘われたのだ。やつの手から釣り竿が消えているのに気づくのが遅れてしまった。


「手打ち一つで、事は済むのですから」


 まずい、間に合うか……! 手を伸ばす。すぐ傍ら、アップリケの上へ。


 ぬらりひょんがしわくちゃの手を打ち下ろすのと。


「ぴぎゅっ!?」


 僕がヒヨ子を握りつぶすのは、全くの同時であった。


 ……意識は、ある。記憶もだ。失ったものはない。


「残念だったな、ぬらりひょん。この通り、対策はしっかりしてきているのだ」


「あの、旦那様っ、指、指が当たってますっ!」


「うるさいぞヒヨ子。どこに触れようが全てゴムであろう」


「誰がそうさせてると思ってんですか!?」


 ぴよぴよ煩いヒヨ子のさえずりを振り払うように思考を走らせる。今のは、本当にヒヨ子で防げたのか?


 意識が途切れる気配すらなかった。喪失、修復を一瞬で行った感覚すらない。打ち消したか? そもそも、防げぬから食らったあとに回復するという作戦だったはずだ。そんな事があるだろうか?


 不発? その方がしっくりくる。あまりにも何も感じなかったのである。もしや、と冷や汗を流しながら周囲を伺うが、アップリケも、猫又とナツキも不思議そうな顔をしている。僕ではなく、こやつらを狙ったものというわけでもなさそうだ。


 溜息が聞こえた。吸い寄せられるように視線を戻せば、ぬらりひょんは、これが妖怪の総大将が放つプレッシャーかと、僕を戦慄させたこともある爺の背中は、あまりに小さく、煤けていた。


「どうしても、諦めてはくれませぬか?」


 諦念の滲む声だった。事情は分からぬ。分からぬが、話し合いで事が進むならこちらとしては都合がいい。


「ああ、諦めぬ」


「彼女らの覚悟に対して、あまりに無責任だとは思いませんか」


「その話はもうした。ナツキの本心も聞き出した。貴様こそ、その決断の先でこやつらがどんな顔をして過ごしてきたか、知らぬとは言うまい。見殺しこそが責任逃れだとは思わんか」


「……貴方様も、大人なら分かるでしょう。妖怪といえど、なんでもかんでも出来るわけではないのです。どうしようもないことは世界に溢れている」


「ああ、そうだ。そんなもの、社会に出れば嫌と言うほど味わうことになる」


 分からぬはずがない。まさにそれを味わって、どうにも出来ずドロップアウト寸前まで追い込まれた僕には。


「世間は理不尽だらけである。対して自分一人の力などちっぽけなものである。どうにもならぬ事を諦め、妥協せねば前にも進めぬ」


 だからなのだ。


「だが、ナツキもホズミくんも、まだ子どもであろう」


 どうせいつかぶつかることになる。苦しむことになる。逃れられる者などいまい。だが、今でなくていい。彼らはまだ庇護を受けるべきなのだ。


 周りに大人ぼくらがいるのだから。


「諦めたものに。選んだものに。責任を負うのが大人である。そうして守るのが大人である。下の者が、向き合う準備を整える時間を。違うか、ぬらりひょん」


「……とても、逃げてきた方とは思えぬ台詞ですなぁ」


 何を、とムキになりかけたとき、気付いた。奴がまたどこからともなく竿を取り出し、川に糸を垂らしているのを。


 同じものを、身体の横に差し出しているのを。


 僕はそれを受け取って、隣に腰掛けた。針先に小豆一粒仕掛けられているのを確認して、川へと投げる。


「……人と妖は、共には居れぬのです。時間の流れが、あまりにも違う」


「なら僕はなんなのだ」


 隣に座ってようやく、ぬらりひょんの心情が伝わってくるように思えた。視線を糸に注いでいるから見えはせぬが、目を見開いたような気がした。


 別に驚くようなことでもあるまい。既に貴様自身が導き出した答えである。


「死ぬところであったぞ。貴様のせいで記憶を失った数日のうちに。それがどうだ。あの夜、貴様の差し出す酒を呑んでから、下らぬことを考える暇はより下らぬことを考える時間に押し退けられるばかりであった」


 竿に手応えを感じて引き上げた。針に磁石のように張り付くのは、いつかの夜見たような小さな盃であり、引き上げた途端磁力を失ったようにポロリと落ちた。


 それを拾い上げ、ぬらりひょんに向けてみせる。


「僕らはこの夏、共に過ごせたではないか。この下らぬ日々は、存外悪く無かったぞ」


 ぬらりひょんは、盃を受け取りぼんやり眺めると、しばらくして、ひょひょひょだかひぇひぇひぇだか分からぬ、もう耳慣れた笑い声を上げた。


「これは完敗でございますなぁ」


「僕を相手取るなど百年早いのだ。出直してくるがいい」


 ぬらりひょんはどこからともなく瓢箪を取り出し、酒を盃に注いで飲み干してみせた。この日飲み交わして以降、僕とぬらりひょんが敵対した日は、一度もない。






 それからしばらく、僕らは作戦会議をした。僕の計画を聞き、ナツキとぬらりひょんは絶句し、ヒヨ子と猫又は顔を青くして震え上がる。


 それでも物の怪の端くれか。アップリケを見習うがいい。話を聞くやいなや、興奮してすぐにアップを始めたではないか。


 呆けている時間はない。じきに夜が来る。奴らの時間が。


「そういえば、貴様の能力、手の打ちようもないほど強力かと思いきや意外と隙だらけであったな。ああも容易く記憶を取り戻せるとは」


「何を当たり前のことを」


 何気なくぬらりひょんに話を振れば、奴はやはり奇妙に、しかし機嫌よく笑って言った。


「そうせねば好物を覚えて貰えませぬからな」


「そのふざけた力を持つのが、貴様のような耄碌爺で心底よかったよ」


 ぬらりひょんはまた、奇妙に笑った。

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